カーペットを汚してしまった。

もちもちおさる

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 またカーペットを汚してしまった。最悪だ。コーヒーの粉をぶちまけてしまった。とりあえず謝る。ごめん。

「いいですよ」

 そう一言、カーペットは返す。あとは黙ったまま。ティッシュで大まかに粉を拭うと、もちろんほとんど毛に絡んで取りきれない。あぁあぁあぁと胸の内で繰り返しながら、これは洗濯だと気持ちが沈殿していく。やってしまった。またやってしまった。

「生卵と比べたら、可愛いものでしょう」

 そうカーペットは私を慰めるけれど、べりべりと床から剥がす音で、その後はよく聞こえなかった。カーペット語は他と比べると少しだけ難しい。リスニングにコツがある。


 彼は台所担当のカーペットで、彼を洗濯機まで運んでいく途中に、またかい、とか、お疲れ、とか、他の部屋担当のカーペットたちが声をかけてくる。今日も明日も晴天だよ、よかったねとリビング担当のカーペットは言う。

「それはよかった、よかった」

 そう台所担当のカーペットは応えた。


 洗濯機が置いてある洗面所にたどり着くと、今度は何を零したの、と小さな洗面所担当が聞いてくる。コーヒーの粉、と返すとあぁあぁあぁと彼女は呟く。臭いがつかないといいね、と壁に立てかけてあるチェリーピンク色のヨガマットが言った。

 あなたってこんなに汚かったかな、と洗濯機に押し込みながら思う。掃除をサボったツケが回ってきたのだ。知らないシミが所々にあって、沈殿した気持ちがゴポゴポと音を立てた。

 ゴウゴウゴウと唸りながら回る洗濯機を見て、零したくて零したんじゃないんだと言い訳を始める。それはそうだよとツッコミを入れつつも、どうして台所でくるくる回りながらコーヒーを作ろうとしたんだろうと、数分前の私を思う。ほんと、どうしてだろう。洗濯機じゃないんだから。


 どうしてこんなにダメージが大きいのだろうと考えてみると、スターバックスのコーヒーだったからだと答えが出た。またやってしまった、しかもスタバだ、と二重の罪悪感に襲われたからだと。おばかな私と哀しいカーペットだと、ぼんやり心の中を回った。

 生卵、麦茶、生卵、牛乳、お湯、生卵、生卵。それから牛乳で、コーヒー。ホットケーキミックス。台所担当を汚した歴代の者たちを思い浮かべていると、洗濯終了のアラームが鳴った。洗面所担当とヨガマットは、最近結婚した芸人の話で盛り上がっている。牢獄から引きずり出された台所担当のカーペットが言う。

「やっぱり、ぐるぐる回されるのは気分が悪いですね」

 ごめん、でも手洗いは流石に無理だよと返すと、それはそうですけど、とぶつぶつぼやく。

「普段平面に敷かれているカーペットは、三半規管が弱いんですよ」

 私と同じだ、でもカーペットの三半規管ってどこにあるの、と呟くとカーペットは疲れて話すのをやめてしまった。干すためにベランダへと向かう。


 この前は生卵だったな、あれはほんとに悲しかった。卵が最後のひとつで、じゃあ目玉焼きを作ってやろうじゃないかと取り出して、コンロの近くに置いた。用意を進めていたら、卵はころころ転がり台の縁を乗り越えて、ぐしゃと潰れていたのだ。飛び降り自殺だった。一人取り残されて悲しかったのかもしれない。目玉焼き用にセッティングしていた私のおなかは悲しくて悲しくて、ぎゅうぎゅう泣いた。こんなに悲しむ人がいるのに、と思っても、それは本人にとってはどうでもいいことなんだから、どうしたって無理なんだ、お皿に閉じ込めておかなかった私のせいだ、と途方に暮れた。カーペットはずっと黙ったままで、弾けて染み込んでいく黄身を見つめていた。


 実は、最初の生卵事件の現場は、台所ではない。寝室だ。寝室担当のカーペットが初めてだったのだ。

 もう10年以上前の話になる。小学生の私は、冷蔵庫にある卵を温めればほんとにふかふかのひよこが生まれてくるのだと、誰もが通る道を爆走していた。そこのけそこのけお馬が通る、と峠を攻めていた。真っ白で形の良いものを、こっそりひとつ持ち出して。絶対に可愛がって大きくて真っ白な鶏にするんだ、死んだら唐揚げにしようとわくわくどきどきに溢れて布団に潜り込んだ。

 しかし、どれだけおなかで温めてもふかふかのひよこは生まれてこない。命の音の一欠片も聞こえてこない。おかしいなと思い布団を出て、二本の指で摘んで隅々まで眺めても、ヒビのひとつも入っていない。温めが足りないのかなと首を傾げたその瞬間。指がつるりと、滑った。

 わけがわからなかった。さっきまであんなに硬くて無機質の塊だった卵が、どうしてぐしゃぐしゃのべちゃべちゃに潰れているのだろう。どうして命が潰れているのだろう。寝室担当のカーペットが言う。やると思ってましたよ、と。

 じゃあどうして、教えてくれなかったのだろう。それは私の役目ではないので、と彼女は言う。


 ふと現在に戻ってみると、私はとうにベランダにたどり着いていた。濡れてより濃くなったカーペットの深緑が、抜けるような青空に映える。

「あぁ気持ちがいい。やっぱり外はいいですね」

 カーペットがそう零すと、私もそう思う、思うよと。陽の眩しさにやられながらも呟いた。


 彼を干し室内に戻る。台所にモップをかけながら、誰か代わりのカーペットはいないかなと呼びかける。でもみんな汚れるのは嫌なので、僕、私は担当場所のシフト入ってますー、とすまし顔をする。まぁわかってはいたけれど、ヘルプのカーペットを雇うこと(つまり、買うということ)を考えてもいいのかも、と。ぼんやり思った。面接の日程を考えよう(つまり、ニトリに行くということ)、そんな考えがふわふわ浮かんでいた。

 そういえば、グレーのソファーカバーの彼がつい最近辞めてしまった。店長(つまり、母)も私にひと声かけてくれればいいのに。彼に何も言えないまま、さよならになってしまった。


 そんなことを思い返していると、掃除があっさり終わった。今度こそコーヒーを作ってベランダに出る。

「誰も私の代わりをしたがらなかった、そうでしょう」

 全てをわかっているかのように彼は言う。実際そうだから、まぁそうだね、そうだよと返事をした。

「汚れるのは誰だって嫌ですけど、そもそも私たちはそのためのものなんだから、もっと楽しめばいいのに」

 でも、洗濯機は酔うんでしょう。私は私で、悲しいんだよ。空を眺めながら呟く。

「そうですけど。確かに、よくないことばかりですけど」

 苦味は苦手だ。だから甘くした。卵も牛乳も、私の命全てが零れ落ちてしまう。全て掬えなくて、救えなくて。

「でもね、台所担当でよかったと思うことがあるんです」

 あなた以外に誰か務まるのかな、と思う自分もいるので、まぁそういうことなのかな、と。

「あなたの代わりに、私が食べているんですよ。そういうことでよろしい」

 役得ってやつ? と聞くと、カーペットはあくびをして、もう喋らなかった。それはあなたの役目じゃないんだろうな、きっと。

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カーペットを汚してしまった。 もちもちおさる @Nukosan_nerune

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