第23話「目覚め」

 エヴァンが仮眠から目覚めたのは、大きな衝撃に襲われたからだ。

 ドンッ、とエヴァンの腹部に落とされる辞書。


「ふぐっ……!」


 あまりの衝撃で吸い込んだ空気が漏れ出す。最悪の起こされ方をされた。


「起きて下さい。いつまで寝ているんですか」


 丁寧な口調からは想像できない乱暴な起こし方をするのは、一人しかいない。


 ローナが仮眠から起こした諸悪の根源であった。

 エヴァンは腹部の衝撃が抜けるとゆっくりと身体を起こし、ベッドの縁に座る。


「もっと優しい起こし方はできないのか」


「する必要がありますか?」


「あるだろ、せめて揺するくらいにしてくれよ」


「では、足で蹴れば多少は揺れるでしょう」


 エヴァンが何か言い返すには、まだ脳の覚醒が必要であった。

 しかし、ローナが起こしに来たという事はエティカの事が済んだのかもしれない。

 そう思い、エヴァンは寝ぼけ頭を掻きながら尋ねる。


「それより、ここに来たのはエティカの用事が終わったのか?」


「いえ、もう少し掛かります。今はエティカちゃんの身体に合う服がなかなか無く、それをヘレナさんが探している最中です」


「服まで用意してくれてるのか」


「はい、いつまでもあのボロボロの服だと可哀想でしょう。あんな服装のままだったエティカちゃんを放っておくなんて、エヴァンは変態ですね」


「なんでそうなる……」


「エヴァンが変態であるのは昔から変わらないままです。それより、仮眠で多少は魔力を回復したはずでしょう、これに術式を掛けて下さい」


 と、エヴァンへ帽子を渡すローナ。


 それは地味で目立たない、誰が被っていてもおかしくない一般的な帽子であった。

 受け取ったエヴァンは少しの疑問をローナへ尋ねる。


「これは?」


「ヘレナさんのお下がりです。エティカちゃんがいつまでも、身の丈に合わないローブを着続ける訳にはいかない、とヘレナさんからエティカちゃんへのプレゼントです。エティカちゃんには少し大きいかもしれませんが、目立ちにくいものでしょう。それに術式を掛けてしまえば、人目に出ても平気でしょう」


「そうなのか……わざわざありがとうな」


 ヘレナの気遣いに胸へ暖かな日差しが、差し込んだように感じたエヴァン。


「いえ、私は何もしていません。私よりヘレナさんへ伝えて下さい」


「何もしてない訳ないだろ。……ここに来たのはそれだけか?」


「いえ、私からはその辞書をお送りします」


 と、エヴァンの腹部へ落として、ベッドの上に置かれたままの辞書を指差す。


「これか?」


 辞書といった本そのものはそこそこの品として有名で、高価な物も中にはある程だ。


 ローナが持ってきた辞書は、少し紙が焼けていたが、表紙の革には子牛革という高価な物が使われて、赤みがかった茶色をしていた。

 かなりの高級品だ。


「絵本が一番良いのですが、あいにく私は持ち合わせがないので、代わりに今はもう使っていない辞書を、エティカちゃんへお送りします」


「いいのか? これ高いやつだろ」


 お下がりと言えど、高級品のお下がりとは気が引けてしまうエヴァン。


「私にはもう必要ありませんし、いつまでも持っていても、その本は喜ばないでしょう」


「そうか……なら遠慮なく、エティカに使ってもらおう。ありがとうな」


「どういたしまして、そこそこ劣化していますが、読むのに支障はないと思います」


 ベッドの上に無造作に置かれた辞書を持つエヴァン。そこそこの重量。


 これを腹に落としたのか、と思うと少しの微妙な気持ちに包まれるエヴァン。

 ただ、こんなにもエティカの事を思ってくれている、と実感すると感極まるものが昇ってくる。


「帽子への術式は完璧にして下さいね」


「ああ、痛いほど分かってるよ、任せとけ」


「次は平手ではなく、潰す、との事ですよ」


「おいおい……」


 何を潰すのかは不明だが、平手の痛みが蘇ってくるエヴァン。

 仮眠を取ったので、寝不足の時に掛けた術式よりも立派なものが出来ると確信しているが、それでも恐怖は残っている様子だ。


「それでは、私は受付に戻ります」


「ああ、わざわざありがとうな」


 エヴァンの礼を聞いたローナは、部屋から出ようとドアノブに手を掛けた時に、もう一つ伝え忘れがあるのを思い出した。


「あ、エティカちゃんの寝泊まりする部屋はエヴァンの部屋にする、とヘレナさんが決められましたので」


「ん? そうなのか」


 エティカに自室で寝てもらうつもりだったエヴァンは、なぜ、改めて言ったのか疑問が湧いた。


「エティカちゃんも女の子です。ヘレナさんの『目利き』だとおよそ十歳くらいだそうですが、それでも女の子である事に変わりありません」


「ああ、それがどう……」


「女性共通の悩みは、女性にしか分かりません。何かあれば、私かヘレナさんへすぐに相談するようにして下さい」


「ああ……分かった」


 ローナの真剣さに素直に従った方がいいと、エヴァンは察した。


「では、失礼します」


 と、伝える事が済んだローナは部屋を出る。

 残されたエヴァンの手には帽子と辞書。

 エヴァンは、早速と、帽子に術式を掛け始めた。


 術式とは、魔力を用いて魔法が発動するように組み込まれたもので、使用された魔力に応じて術式の質も向上する。

 認識阻害もそうだが、術式を刻むことで魔法が常時発動するようにも、一定の条件を満たせば発動するようにもできる。


 例えば、普通に魔法を使って火を使うのと、術式を用いて火を使うのとでは、術式を用いた方が火力も継続時間も向上したものになる。


 これは、条件が複雑かつ困難であればある程、効果を発揮する能力と一緒である。


 なので、着用している者の性別、種族といった風に絞っていけばいくほど、認識阻害の効果も大きく、例え、ヘレナの『目利き』であっても見破られない程の物になる。


 それをエヴァンは帽子へ刻んでいく。

 完璧に見破られないようにする為に、と作業をすると、日が暮れ始めた時に作業は完了した。


「うむ、完璧」


 見た目に変化はないが、掛けられた術式の完成度が完璧に近く、思わず何度もくるくると帽子を見渡す。

 これならば、見破られないだろうと満足感に溢れるエヴァン。


 術式に集中していたからなのか、気付けば賑やかな声が部屋の外から聞こえてきた。


(そういえば、エティカはどうしたのだろう)


 作業中に済むだろうと思っていたので、術式の完成までエティカが部屋へ訪れないので不思議に思うエヴァン。

 何か時間の掛かることをしているのか。


 そう思うと気が気じゃないエヴァンは、帽子と辞書を机に置き、部屋を出る。

 賑やかな声が大きくなっていく。

 階段を降りると受付に少しの人だかり、それに対応しているヘレナが見えた。


「あら、今日は早くに片付いたのね」


「はい! ローナさんに紹介してもらったおかげです!」


「あの子は優秀な看板娘ですもの、そう言って貰えるとわたしも誇らしいわ」


 と、笑顔のヘレナはエヴァンが起きたことに気付く。


「あ、エヴァン起きたのね」


「あー、おはよう」


「はい、おはよう。ちょうどお姫様は貴方のご飯待ちよ。いつもの席にいるからね」


「そうか、ありがとう」


 と、短く会話を交わす。


 それが済むとヘレナは他の冒険者の対応に移る。

 夕方から宿に泊まる冒険者や依頼完了の冒険者が増えるので、対応に忙しくなる。


 ヘレナの言葉通りに酒場へ向かうエヴァン。

 何人かの常連が既に酒を飲んで、夕食をつまんでいる姿の奥、エヴァンの座るいつもの席に、ローブを着た小さなエティカが座っていた。


 浮いた足が前後に揺れて、心待ちにした様子が見える。

 エヴァンがそう確認していると、ローナが空いた酒樽を持ったまま話し掛けてきた。

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