即興小説集
寝舟はやせ
『後を濁さず』 お題:汚れたババァ 制限時間:30分
鏡に映る自分を見たとき、私は思わず笑ってしまった。そこには乱れた髪の薄汚い女が、見るも無惨なひしゃげた笑みを浮かべて立っていた。シミだらけの顔には細かい皺が刻まれており、整えていない眉は伸び放題で、何年も口紅を塗っていない唇はかさついて皮が捲れている。淀んだ一重の瞳には、自嘲の色が滲んでいた。
いつかの自分が浴びせてくる罵倒の声が聞こえた気がした。若さという武器を手にした無敵だった頃の自分が使っていた、目についた気に食わない女を貶めるための蔑みの言葉が、脳内で何度か響く。思わず鼻で笑ってしまった。
あの頃のわたしは決して無敵などではなく、馬鹿で無鉄砲なだけだった。馬鹿で無鉄砲で愚かだったから、当然馬鹿な男に引っかかり、ありもしない素晴らしい未来を目指して、持ち合わせた全てを捨ててしまった。結果残ったのは、鏡に映る薄汚れた女と、部屋に籠り喚き散らすだけの重荷でしかない息子である。夢を見せてくれた男は夢だけを残して去り、自身もまた夢を見せてくれる女に夢中になっているようだった。
溜息を落とすと同時に、どん、と扉の向こうから夕飯を催促する騒音が響いた。台所に戻って炊飯器を開けると、スイッチを入れ忘れていて、水と生米だけが収まっていた。鈍く濁る水面を見て、ああもうだめだ、と思った。駄目だと思ったから、炊飯ボタンを押す代わりに、包丁差しから一本取り出して、握った。仕方がない。もう駄目になってしまったのだから。
音を立てないように歩くのは楽だった。そうしないと怒鳴られるから、いつしか得意になってしまった。部屋の鍵はちゃちな作りをしていて、外から簡単に開けられる。そっと隙間から覗いてみたが、こちらに気付く気配はなかった。多分、終わる時まで気づかないだろう。ずっと見たいものしか見て来なかった子だから。
体の前面が酷く汚れていた。生々しい臭いが狭い部屋に立ち込め、鼻腔から入り込んだそれが、脳から思考する力を奪っていく。デスクトップの明かりだけが灯る部屋で、わたしは真っ赤に染まったまま、いつまでも立ち尽くしていた。
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