暗闇で嗤う者
考えていた通り、遊里さんを病院に運んだ後、桐佳をその場に待たせて別行動を取った。
今の時刻はもう夜の6時を回っているから、本当は明日に響くような行動は控えたいが、この件を終わらせない限り桐佳の心に平穏が訪れることは無いだろう。
だからこそ、私としては珍しく、早急な解決を図った。
口封じをするために遊里さんの家に戻れば、先ほどのふくよかな女が慌てながらどこかに電話を掛けていて、丁度良かったのでそのまま異能で良いように誤魔化す。
徐々におかしくなっていく女の言動に、電話先の上司のような奴は訝し気になっていったが、最後には、「よく分からないから他の信者を確認に向かわせる」と言って電話を切った。
つまり、確認に来るまでの間、時間を稼ぐことに成功した訳だ。
後は女から、遊里さんのお母さんが幽閉されている場所とどういう経緯で今の状況に至ったのかの情報を引き出して、捜索をさせていた人達から上がってきた情報に照らし合わせて状況を整理した。
経緯はこうだ。
遊里さんの母親は何らかの事情で旦那さんと離婚し、ここ氷室区へと引っ越した。
母親は両親とは疎遠であり頼る人もいなかったため、女手一つで遊里さんを立派に育てようと苦心していたが、そこに目を付けた宗教団体が甘い言葉と金銭支援で彼女達の生活に入り込むようになった。
あとは、こういう宗教団体お得意の洗脳術で、母親の価値観を壊し、優先順位を捻じ曲げ、逆に金を搾り取るようになっていったのだ。
だが、母親を手中に収めることは出来たが、その娘である遊里さんは思うように洗脳することが出来なかった。
いつまで経っても反抗的だった遊里さんを煩わしく思った団体が、洗礼と称して母親を団体の施設へ幽閉するとともに、その期間中に、反抗的な娘を調教すると言う名目で始末する手筈だった。
頼る宛ての無い女子生徒一人、洗脳し切った母親の協力があれば消息を絶たせることなど難しくはないと考えたのだろう。
母親には洗脳を、遊里さんにはおかしな真似をすれば洗礼中の母親がどうなるのか分からないと言う脅しを。
そうして彼らにとっては円満に、物事を収めるつもりだったのだろう。
娘の言葉ですら正気に戻ることが無くなった母親など、もう誰にも救いようがないと過信した。
彼らの誤算は、私。
洗脳術が自分達の専売特許だと思った事だ。
「――――ぇあ……わ、た……し?」
「正気に戻りましたか? どうですか、今の貴方にとってここに書かれている宗教の教義はどれだけ重いものでしょうか?」
土気色の不健康そうな顔色で、ガリガリにやせ細った女性の目に光が戻ったのを確認して、私は途中で拾った教典を彼女に見せる。
ともすれば突然目の前に現れたように見えただろう私の姿に、女性は現実離れしたものを見るような目で呆然と私を見上げている。
宗教団体が根城にしていた建物の最奥。
御丁寧にしっかりと隠蔽されていた隠し部屋で鎖に繋がれていた女性、遊里さんのお母さんを見つけ出し、深刻な洗脳状態であった彼女の精神を元に戻した。
何度も抑圧され、丹念に首輪を付けられていた彼女の精神に残る楔は既に存在しない。
――――けれど、私は彼女の記憶を消せるわけではない。
洗脳されていた時に行った自分自身の数々の行為を、彼女は一つとして忘れてなどいないのだ。
呆然と、私が差し出した教典を見ていた女性が、突然発狂したように私の手から教典を奪い取り、引き千切り始めた。
何度も何度もそれを引き裂き、地面に叩き付けて踏みつける。
そうして最後は、自分自身の顔を両手で覆って声を上げて泣き始めた。
「遊里っ……ゆうりぃっっ……!! なんで私はっ、なんで私は娘にあんなことをぉっ……!! あ、あああああああああああああああ!!!!!!!」
咄嗟に自分の耳を塞いだ私は、音量を和らげながらも彼女の悲鳴をしっかりと聞き届ける。
……桐佳には言わなかったが、遊里さんのあの怪我はやはり教団の人間がやったものだけでは無かった。
恐らく教団の奴らは、この人と遊里さんの心を折るために彼女自身に娘へ、指導と言う名の暴力を振るわせていたのだ。
……ああ、いやそうか。
彼女に暴力を振るわせて、その怪我を治療しないまま押し入れに閉じ込め放置することで始末する。
そして、お前が殺したのだと、娘の死体をこの人に見せることをもって、教団がこの人に科した洗礼とやらは完成する予定だったのだ。
大切なものを全部壊して、教団が唯一彼女に残った大切なものとする。
吐き気を催すほど下劣で、外道な、こいつらのやり方だった。
「…………最近は“読心”の範囲が狭かったし、神楽坂さんとばかり居たから、中々ここまで醜い人の感情を見ることは無かったんですけど。やっぱり鳥肌が立つほど気分が悪いですね、こういう感情を持った人間は」
そう言って、私は恐ろしい幻覚に怯え逃げ惑っている教団の人間達を見やる。
各々が想像しうる最悪の光景を見ている筈だが、やはりこういうものにのめり込む人は想像力が豊かなのだろう、今まで見たことが無いほど何かに恐怖し、絶叫を上げている。
ここは教団『白き神の根』本部の最奥、洗礼室。
そして本部にいた教団構成員、計43名。全ての人間の精神を制圧した。
彼らは既に、自由意志はほとんど残っていない。
私が許可していなければ、叫び声を上げる事さえ彼らには出来ない状態だ。
この後は……まあ、適当に行動に制限でも掛けて、適当に警察に検挙させればいいだろうか。
……流石に、異能持ちではない人達とは言え、この人数を制圧するのは骨が折れた。
妹の友人の母親が囚われていて、残された時間があまりないと言うような特殊な事情が無ければこんな無理は絶対にしない。
「ゆうり……ゆうりぃぃ……」
「……あの、私の声が聞こえていますか? そろそろ本題に入りたいんですけど、聞く耳持ててますか? まず大事なことを言いますね、遊里さんは無事です。病院に運び込んで治療を受けていますが命に別状はありません」
「――――え……? ゆ、遊里はっ、私の娘は無事なんですかっ!?」
「栄養状態も悪いですし、傷の具合も良くはありませんけど、少なくとも意識はあります。遊里さん、最後まで貴方の心配をしてましたよ」
「あ、ああ……あああああああ!!」
歓喜と、安堵と、悔恨と、後悔が入り混じった遊里さんの母親の絶叫を聞き届け、取り合えず無事に事件を終わらせられたと安心する。
正直、自粛しようと思っていた矢先の出来事だっただけに思うところが無いわけではないが、他ならぬ妹の友人家族の話であれば多少は仕方ないだろう。
この人を連れて、桐佳が心配しないうちにさっさと病院に戻ろうと遊里さんの母親の手を取ったところで、彼女はその手を振り払った。
「わたしはっ……母親失格ですっ……!! あの子に合わせるっ、顔がないっ……!!」
「…………」
ぼさぼさの髪も、こけた頬も、傷だらけの体も、少しも気にも留めないでこの人が気にするのは娘の事ばかり。
責任感が強くて、本当に娘の幸せを願っていた人だったのだろう。
その感情を利用され、良いように心を弄ばれるまでは、きっと確かな信頼関係を築けていたのだろう。
洗脳は解けても、記憶は消えない。
だからこそ、この人は洗脳状態にあった自分が行った行為がどれほど娘にとって非道だったのか分かる。
他ならぬ自分自身の手で、助けを求める娘を壊した自分自身が許せない。
確かに酷い母親だったのだろう。
本当に大切なものを見誤った人間には救いがないことくらい、私だって痛いほど心当たりがある。
この人は確かに酷いことをしたのだろう、それはきっと世間一般的な価値観からすれば到底許されることではないのかもしれない。
……けれどこの人は、全てを誤った訳では無かった。
「貴方は酷い洗脳状態であっても、最後まで娘が携帯電話を持っている事を他の人間に言わなかった。貴方は最後まで遊里さんが逃げられる道を守り続けていた。確かに貴方が犯した間違いは酷いものだったのかもしれないけれど、貴方が守った遊里さんの命綱はこうして私の手に届きました」
「わ……わたしは……」
遊里さんの持っていた携帯電話。
今の時代、中学生が持っていることくらい珍しくもないそれを、教団の人間が考えもしなかったと言うのはあり得ない。
いくら遊里さんの家が貧乏で余裕がないと言っても、洗脳状態にあった母親に確認をしない筈がないのだ。
だから、もし本当に教団の人間が、遊里さんが携帯電話を持っている事に全く気が付いていなかったのなら、それはこの母親が口を閉ざしていたことに他ならない。
「――――貴方は誇るべきです。貴方の行為は遊里さんを確かに救いました。どれだけ間違いを犯していたとしても、それだけは認められるべきです。今、貴方達は生きているのだから」
「う、うぁ……あり、がとう……ありがとうございますっ……ありがとう、ございます……!」
クシャクシャの顔がさらに酷いことになって、誰に向けたものかも分からない彼女のお礼の言葉は私が彼女を異能で強制的に眠らせるまで続いた。
彼女の瞼に手をかぶせて、以前バスの中にいた赤ん坊にやったように、彼女を夢へと落とす。
そして、彼女が力が抜けたように地面に崩れ落ちたのを見届けて、ホッと息を吐いた。
「……後は残りの人間の後始末をして終了。せいぜい良い人にでもなるようにしてあげますか」
背後で狂乱状態に陥っていた人のほとんどが、耐え切れずに動けなくなったのを確認して仕上げの作業に取り掛かる。
私の家の中に侵入してきた男の人にやったのと同じ要領で、彼らの精神に制限を掛けることで疑似的に善人を作り上げる技術。
合理的かつ効率的だが、やはり道徳的には良くないものだ。
根から善人な神楽坂さんとかには絶対に言わないようにしないといけない。
そんなことを考えていた時だった。
「――――あれ? 僕の人形が壊されてる。どうなってるのこれ」
「……」
突然だった。
後ろで狂乱状態にあった一人、恐らくここの本部で指導者のような人物が、これまでの狂乱状態が嘘のように、何の前振りもなく無表情になってペラペラと口を動かし始めた。
まるでスピーカー、ただ音を発する機械のようになった指導者の男を、私はじっと観察する。
「えっと? まじで? 折角作った教団完全に潰されてるじゃんか!? そんなぁ……僕の金づる達が……」
異能。
それも、私と同系統。
恐らくは人間の精神に干渉するタイプの異能だが、どうやらコイツの異能は直接他人の精神に根を張るタイプのものらしい。
「うわぁ……全く面倒な……で? これをやったのは君?」
「“私の顔が見えていますか?”」
「いいや、全身ノイズが走ってて見えないや。君、同類かな……おっと、逆探知とか止めてよ。別に場所がバレてもどうってことないけどさ」
スコットランド。
無理に異能の出力を辿ってみたが、あまりにも遠い場所を探知し、洗脳を掛けることは諦める。
異能を使っているこの人間の出力がどれほどのものかは分からないが、勝てる可能性の低い手を使ってこちらの手札を晒す必要はない。
「…………まさかコイツ……いや、出力が違いすぎるね……」
少しだけ警戒したような口調になった男だったが、少し考えてまた軽薄な口調に戻る。
「いやあ、ごめんごめん。君の縄張りにでも入っちゃったかな? 同類と争うつもりはないんだよ。気を悪くさせちゃったならごめんね。僕、外国で“白き神”って名乗ってるんだけど、定期的な収入が欲しくてそこの奴らみたいな教団を作って儲けてたんだ。君みたいな異能を使いこなしてるやばい人と事構えたくないからもう撤退するよ」
「…………」
「おお、怖い怖い。そんなに気に障るようなことしちゃったかな? それともあれかな、“千手”の件でピリついてるのかな? あれだから人工的に異能を発現させた奴は駄目なんだよね。大丈夫、“千手”みたいな馬鹿はしない。異能の認知が高くなったって僕らに良いことないしね。ほどほどに、無能達を絞りあげて美味しく貪ろうじゃないか、お互いに」
「黙れ」
仲間意識でもあるのか、親し気に話しかけてくる相手に虫唾が走って、思わず強い言葉を使ってしまう。
普段はこんな言葉を使わないのに、この異能持ちはなぜだか私に不快感を与えてくる。
異能の出力を上げて男の精神に圧迫を掛け、口を噤んだ姿の見えない異能持ちに対して、宣告する。
「次私の視界に入ったら容赦しない。お前を磨り潰す」
「……まじでこわ……もうしないって」
「こわこわ」と、冗談交じりに身震いするフリをしている奴に早く消えろと睨み付ける。
私の怒りに気が付いたのだろう、申し訳なさそうに両手を合わせて頭を下げていた男が、異能を消そうとして、「そういえば」と何かを思い出したように口を開く。
「“千手”と“紫龍”を捕まえた警察官、迷惑してるよね、ごめんね。前に僕がちゃんと始末しておけば良かったんだけどさ」
最初は話の前後が分からず、男が何を言い出したのかと思った。
心底おかしそうに、子供が蟻を潰すように、ここにいない誰かを嗤っている。
「ついつい夢中になって遊びすぎちゃって。でもそうだ、あの警察官にはまだ弱みがあるから、縄張り荒らした謝罪として置き土産に教えてあげるよ」
それは、なんでもない事のように。
私の脳裏に浮かんだくたびれた男性を嘲笑いながら、男が口を裂く。
「東京総合病院だっけ、そこで入院してる落合睦月(おちあい むつき)って女。その警察官の婚約者でさぁ。それを揺すってやれば面白いくらい反応があるとおも――――ゴッ……!?」
問答は無い、全力で出力を上げる。
異能のラインを辿り、遥か距離の離れた場所にいる異能持ちに対して攻撃を仕掛けた。
失敗の可能性が高いとか、必要以上に手札を見せないとか、そんなものよりも。
この害悪を早急に排除するべきだと、私は判断した。
「やめっ……お前っ、いい加減にっ……!?」
「つまらないわね、貴方」
思考誘導、幻覚、幻聴、トラウマ作成、感情波。
あらゆる手段を講じて、迅速に相手の行動を奪おうとするが、それらが成立するよりも早く異能のラインを切られてしまった。
逃げられた。
やる前からそうなることは分かっていたが、悔しさで拳を握り込んでしまう。
震える拳をゆっくりと開いて、もう一度周囲を異能で探知するがアイツの気配はもう何処にもない。
「……神楽坂さん」
私の協力相手で、私が見て来た誰よりも善人なその人を思って、唇を嚙み締めた。
彼のトラウマ、彼の心を今なお傷付けている出来事の原因となる人物。
彼自身に何があったのかを聞く前に、それに深く関わる人物に出会ってしまった。
苦いこの感情は何なのか、“精神干渉”なんて異能を持っているくせに、私には自分自身のこの感情が理解できなかった。
やっぱりこの世界は、優しくない。
薄っぺらいシステムで出来ていて、淡白に悲劇を甘受する。
私はそれが、昔から大嫌いだった。
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