二幕目 輪廻を映す鏡②
「あ……」
反応が遅れて、和歌子は間抜けに口を半開きにしてしまった。心の奥がむず
「う、うん」
戸惑いながらも、和歌子はうなずく。
そして、明日華と一緒に元気よく歩き出した。
「゛あ゛い゛た゛っ」
が、一歩目で変な声が出てしまう。
忘れていた。和歌子はぎこちない動きになりながら、二歩目を前に出す。今度は、そろりと、筋肉に負担をかけないように。
和歌子には人並み外れた身体能力がある。しかし、筋肉は人並みしかなかった。
特別鍛えているわけではないから、当たり前だ。ものすごい跳躍をしたり、重い太刀を扱ったりすると、相応の負荷がかかる。
現在、和歌子は全身が筋肉痛だ。身体中を激痛が走っている。とくに、前腕と
そろっと、慎重に歩く必要がある。校門へ来る前は、気をつけていたのに……。
ありえない怪力を発揮しても、武嗣が平気そうなのは、それなりに鍛えているからだろう。昨日の立ち振る舞いは、今世でも武道を修めたのを物語っている。平安末期に、柔道の型はなかったのに、
うらやましい――いやいや、うらやましくなんかない。和歌子は普通に生きると決めたのだ。どうして、身体を鍛える必要がある。
そう。普通に。
2
普通に生きたいと言いながら、悪鬼退治なんてしている。
今の和歌子の生活を知る人間がいたら、その矛盾を指摘されるだろう。
教壇には、社会科の佐伯先生が立っていた。高校では、社会科だけでも、単位が細かくわかれているのが新鮮だ。テスト勉強は大変だろうけど。
授業を聞き流しながら、和歌子は教室の外をながめる。校庭の桜は満開の花びらを散らしていた。ちらほらと、新芽が確認できるので、来週には葉桜となるだろう。
グラウンドからは、複数人の声がする。
他のクラスが体育の授業をしていた。整列する生徒たちと、その前に立つ教師の姿。
武嗣だった。
校門で和歌子と話したときと違って、親密に生徒と接している。クラスでも、すでに彼を慕う声は多い。ミーハーな女子ばかりではなく、男子からも信頼されている。根本的に、話しかけやすいのだろう。友達のようでありながら、誰に対しても
前世を考えなければ、そこそこ好きな先生かもしれない……いや、恋愛感情ではなく、教師として。
けど……ズレるんだよなぁ。
和歌子は弁慶について考える。たしかに、豪快で気持ちがいい男ではあったが……彼は、見ず知らずの人を無償で助けるような正義漢だったか。今世で、考え方が変わった?
それとも、和歌子の認識が違うのかもしれない。顔が一致していないせいで、別人に感じているだけ。弁慶だったころから、彼はああいう男だったのかも。少なくとも、和歌子と話しているときは、あまりズレを感じない。こちらが有力かな。
たしかに、武嗣の動体視力はいい。トラックの速度を緩めるためにバイクを滑り込ませた判断力と、止めた身体能力も一致するものがある。直感で動く男だったが、だいたい正しかったので、義経も迷ったときは彼を信じた。
「あんま考えないでおこう」
和歌子は首を横にふって雑念を払った。
そんなどうだっていいことを考えていたので、周囲の生徒が席を立って机を動かしはじめたとき、和歌子はキョトンとしてしまった。
「和歌子ちゃんは、こっちだよ」
明日華が手招きしてくれる。
グループワークみたいだ。黒板に貼り出されているのは、男子二人、女子二人の班別に座れという指示だった。和歌子は明日華と同じ班で、ほっとする。
「うわ……トラック女」
けれども、同じ班の男子が顔を
てゆーか、トラック女ってなに。略称なんかできると、定着しちゃうんだけど。
「こわいわー!」
男子が、ヘラヘラと笑うので、和歌子もそろそろ我慢の限界だった。
「早く席についてくれないかな」
微妙な空気に割って入ったのは、無愛想な声だった。
もう一人の男子が、椅子に座る。四人目の班員だ。
「高校生にもなって、頭のレベルが小学生なんじゃないのか。君は」
和歌子をトラック女と呼んだ男子に向かって、四人目の彼は冷ややかな視線を向けていた。
人形みたい。
他人の顔に、こんな感想を抱くことはあまりない。和歌子は、まだクラスメイトの名前と顔が一致していないが、こんな子がいたなんて……武嗣と明日華に気をとられすぎていた。
「よ、よろしく……」
和歌子は緊張しながら笑顔を作った。芸能人が目の前にいる気分……いや、どこかで見覚えが……独特のオーラを感じる。一般人とは異なる風格をまとっていた。
「
「牛渕和歌子、です……」
戸惑う和歌子に、同じ班になったその子は優しげな表情を向けた。さきほど、男子を注意したときとは、雰囲気が明らかに違う。上品でしっとりした、大人の物腰だ。
一方で、名前にも聞き覚えがある。
クラスメイトだから、というよりは……。
「由比君は、フィギュアスケートをやってるんだよね?」
和歌子が記憶に
思い出した。この子、ニュースで見たことある!
全日本フィギュアスケート選手権大会の覇者だ。ジュニアでありながら、大人の大会で優勝している。海外の大会にも出場しており、これまで無敗のジュニア・タイトルホルダー。将来有望な選手として紹介されていたのを思い出す。
とくに話題となったのは、野外でのチャリティーイベントの舞台だ。予報は嵐で、開催は絶望的と言われていたが、イベントの間は奇跡的に晴れていたらしい。由比静流がスケートを終えた直後に、大雨となり、まるで、天候を操ったようだと、マスコミが大きく取りあげていた。
しかし、つい最近、引退すると宣言して世間を驚かせている。オリンピックのメダルを嘱望されていた選手だけに、日本中が衝撃を受けたのは記憶に新しい。
原因はわからず、ネットでは様々な憶測が飛び交っている。
そんな時の人が、同じクラスなんて。まさしく、芸能人が目の前にいた。いや、アスリートだけど。
「その話、しなきゃ駄目なの?」
明日華の問いに答える静流は、
あれ?
和歌子に対する反応と、全然違う。
それとも、単にフィギュアスケートの話はしたくなかっただけなのか。たしかに、ずっとマスコミに追い回されているネタで、静流は、うんざりしているはずだ。もしかすると、高校入学後もみんな同じ話を聞きたがったのかもしれない。
「あれは、姉につきあってはじめた習いごとだよ。もともと、中学までって約束だったからね。それにしては、いささか成績を残しすぎてしまって、周りの反対がすごかったけど」
だが、静流は慣れた口調で語りはじめる。
その視線が、ずっと和歌子を向いていたので、違和感を覚えてしまう。聞いたのは明日華なのに、どうして彼は、和歌子に話しているのだろう。
「ああ、ごめんよ。つまらない話はやめようか」
しかも、なぜか和歌子に対しては優しい。
気のせいじゃ、ない? なんで?
明日華や、もう一人の男子には、笑顔どころか顔も向けない。明らかに不自然で、こちらもどうしたらいいのか困惑した。
やがて、教壇に立った佐伯先生から、グループワーク課題が伝えられる。国の機能について、四人で話しあってまとめましょうという内容だった。授業に入る前に、生徒からイメージを出させて、社会科を身近なものにするという狙いだろう。
「じゃあ、司会決めよっか」
自然と、明日華が場を仕切る流れになっている。和歌子は明日華の進行に従って、課題について考えはじめた。
しかしながら、まったく和歌子は身が入らない。目の前に座った男子――由比静流の視線に、終始緊張してしまう。
ずっと、見られてるんですけど……。
わたし、変な顔してる? それとも、トラック女だから? 物珍しがられて? 少女漫画あるあるテンプレ「へー、おもしれぇ女」みたいなやつ? まっさかー。
「…………?」
あれこれ考えている和歌子の手に、なにかが当たる。
ペンケースの陰に隠れるように、四つ折りにされたメモを渡されたのだ。差出人は、やはり静流だ。
和歌子は誰にも気づかれないよう、
昼休み、屋上で待ってる。
シンプルなメッセージを受けとって、ほいほいと屋上へ行くなんて……和歌子は学校の階段をのぼりながら、頭を抱えた。気を抜くと襲ってくる筋肉痛も悩ましい。
無視してもよかったのだが、不自然な視線の意味が知りたかった。
いったい、和歌子になんの用だろう。
中性的で儚げな印象の男子。身体の線がとても細いのに、軸がしっかりとした立ち振る舞いが魅力だ。すごく綺麗なのに、男らしい力強さもある。
モテるんだろうなぁ……と、容易に想像できた。明日華に確認したら、すでに女子からは「氷の王子様」と呼ばれているらしい。
「まさか、ねー?」
氷の王子様から、屋上へ呼び出し。期待しない女子は、そういない。
今日まで彼を意識していなかった和歌子ですら、すごく緊張している。階段をのぼっているせいか、余計に心臓がバクバク鳴っていた。
でも、もしそうだったら、武嗣先生に、なんて言おうかな……。
不意に、武嗣の顔が
どうもこうも、あの告白は論外だ。承諾した覚えがないので、和歌子の知った話じゃない。
むしろ、静流がその気なら、渡りに船では。武嗣の告白を簡単に断る口実だ。さすがに、彼氏ができた女子からは、手を引くはず。
って、告白される前提。しかも、受けちゃう前提で妄想を進めてしまった。和歌子は再び、ブンブンブンブンと頭を横にふりまくる。ポニーテールがバシバシと左右に揺れて、頭がクラッとした。あと、全身の肉が
都合のいい妄想はしないほうが無難だ。もしかすると、トラックを止めたときの感想を聞かれるのかもしれないし! あれは、わたしじゃないんだけど!
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