『八十八年目の夏』

龍宝

「八十八年目の夏」




 白塗りのミニバンが、舗装された山道を蛇行していた。


 その後部座席で、少女は窓枠にひじをついて外を見遣っていた。


 先ほどまでの、まるで代り映えしなかった高速道路の渋滞に比べればまだましだが、都会育ちの身としては、どこを見ても緑ばかりの山景色とて同じようなものだ。



 やがて、車は何度目かのトンネルを抜けて、山間の開けた地へ降りていく。


 水田を横切り、集落に入っていくらか進んだところで、父親が車を止めた。




「――陽香。美香ちゃん、美波ちゃんも、よく来たね」




 出迎えたのは、少女――及川おいかわ美波みなみの祖母だった。


 陽香が母で、美香が姉である。




「母さん、久しぶり。もうみんな集まってる?」




 母が、余所行よそいきの声になっているのを、美波は聞き逃さなかった。


 荷下ろしをしている父は、まだ来そうにない。




「いや、あんたらが一番乗りさ。まだまだ掛かるって、さっき電話があったよ」


「そう。おばあちゃんは?」


「畑を見てくるって。もう八十八にもなったんだから、野良仕事もどうかとは思うけどねえ」


「おばあちゃん、まだまだ元気そうだし、大丈夫よ。それより、何か手伝うことある? 食材も、少し持ってきたけど」




 クーラーボックスを担いで来た父をともなって、母が家の中へ入っていく。


 都会ではまず教科書ぐらいでしかお眼に掛かれない、古く広い日本家屋である。


 この家には、夫に先立たれた曾祖母がひとりで住んでおり、近くの町で生活している長女の祖母が、時々様子を見に来ているらしい。




「美香、美波。大人しくしててね」




 台所から、母が顔を出して言った。


 毎年、曾祖母の誕生日を祝うために親戚一同が集まるわけだが、今は帰省の時期も時期、真っただ中である。


 渋滞を抜きにしても、遠方の各地からやって来る時間を考えれば、どうしても全員がそろうのは遅くなってしまう。


 色々と用意がある大人はそれでも段取りがあるのだろうが――現に、母は料理の下準備やらで忙しくピリピリしている――子供は特にやることがない。


 はっきり言えば、暇なのだ。


 客間に放置された美波は、立ったまま手にげていたリュックサックを背負い直した。




「外、見てくる」


「……ん」




 数年前までは、同じ境遇である姉とふたりであれこれと暇つぶしを考えていたものだ。


 だが、中学に上がった頃から、姉は何故か美波に構ってくれなくなった。


 とにかく持ってきた文庫本にばかり視線を落とし、返事もそっけない姉を置いて、美波は家の外へ飛び出していった。



 向かう先は、集落から少し行ったところにある小山、その頂上である。


 道順は、去年来た時に覚えていた。


 照りつける日差しの中、延々と田畑のあぜを抜け、どうにか小山のふもとに着く。


 草だらけの石段を上れば、記憶の通り古い神社があった。




「――妙子ちゃん!」




 息を整えるよりも早く、美波は声を上げた。


 境内はとした森に囲まれているが、その境目の辺りにひとりの少女が立っている。




「美波。今年も、来てくれたんだ」




 暑さをまぎらわせるような、涼やかな声が返ってくる。


 少女――樋口ひぐち妙子たえこは、去年と同じく、夏用の着物をまとって、肩にひとつくくりのおさげを垂らしていた。




「うん。なんだか、ここに来たら、妙子ちゃんに会える気がして」




 妙子とは、去年ひとりで暇つぶしを模索していた時に、この神社で偶々たまたま出会ったのだ。


 派手ではないが、美人な顔立ちで、知り合いの誰よりも落ち着いたふるまいは、美波にあこがれをいだかせるほどだった。




「あのね、妙子ちゃんと遊ぼうと色々持ってきたんだ!」


「わっ、こんなに。……へえ、色々あるね。ありがとう、美波」




 リュックサックを広げた美波に、妙子が微笑んだ。 


 妙子が喜んでくれたのがうれしくて、美波も顔をにやつかせる。




「それじゃ、あっちの小川に行こう。ここは狭いし、暑いから」


「この前釣りに行った、あの川だね!」




 妙子に先導されて、せみのがなり立てる森の中をき分けて進む。


 道中は獣道ばかりだったが、それもまるで探検映画のシーンのようだ、と美波は眼を輝かせながら汗をぬぐった。


 実際に、妙子はとても物知りで、美波の知らないような遊びや、草木・虫蛇の名前など、聞けば何でも教えてくれた。




「うひゃー、すずしー‼」


「美波、いきなり入ったら危ないよ。見えにくいけど、深いところもあるから」


「だいじょーぶ、足首までにするから! 妙子ちゃんもおいでよ!」


「もう、しょうがないなァ」




 神社の裏手を流れる小川は、やはり去年訪れた時と変わらず人気ひとけもなく、流れる水音で涼やかな雰囲気に包まれていた。


 しばらく川で涼んでから、近くの岩場でリュックサックの中身を広げた。


 初めて見るという妙子と、川原かわらでバドミントンをして、疲れたら隠し持ってきたお菓子を分け合い、自由研究の宿題で野鳥観察を手伝ってもらったりしている内に、時間はあっという間に過ぎていった。



 遠くの空が赤く染まり始め、楽しいひと時の終わりを告げる。


 妙子と並んで座りながら、こんなに笑ったのは久しぶりだ、と美波は思った。


 それこそ、一年ぶりかもしれない。


 地元の生活は窮屈で、小学校でもクラスの雰囲気は悪いし、家の中も最近はみんなしている。


 何より、妙子がいない。


 こうして一年ぶりに妙子との時間を過ごし――むしろ空白の期間があったからこそ――美波はその存在が自分の中でどれだけ大きくなっていたかを悟った。


 一緒に過ごした時間は、まだほんの少しだというのに――。




「そろそろ、帰らなきゃ。ひーおばあちゃんのお誕生日会、始まっちゃうや」




 投げやりな気持ちで放った石が、川面かわもに波紋を立てる。


 曾祖母のことは大好きだが、今はもう少し、妙子と一緒にいたかった。




「誕生日……あァ、そうか。それで、美波はこの村へ来てるんだったね」




 隣で、妙子がつぶやいた。




「も、もちろん、今年は妙子ちゃんにも会いに来たんだよ⁉」


「ふふ、分かってるって。そういう意味で言ったんじゃないよ」




 しまった、と美波が急いで釈明するのに、妙子が笑って手を振った。




「ありがと、うれしいよ。……ところで、ひいおばあちゃんは、いくつになったの?」


「えっへへ、そんな……え、ひーおばあちゃん? たしか、八十――八だったかな」


「八十八、か。そっか、そんなにか」




 ふと、前を向いた妙子が、何ともいえない声色で言った。


 思わず隣を見遣れば、夕日に照らされた横顔が、ずっと大人びて見える。


 よく分からないが、どうしてか妙子が遠くに行ってしまうような気がして、美波は慌てて話を続けた。




「そっ、そういえば、妙子ちゃんはいくつなの?」




「……私? そうだね。――八十八歳、かな」






 こちらを向いた妙子は、さも本当のことだというような顔をしていた。


 当然、そんな話を真に受けるほど、美波は馬鹿でもなければ子供でもない。


 小学五年生の自分とほとんど変わらない若さに見える妙子が、どうしてそんな老人だというのか。


 からかわれていると思いした美波がどれだけ問いただしても、妙子は微笑んで流すだけだった。


 また明日、出発の前に会いに来るから、と美波は妙子におそろいの髪留を手渡した。


 再会の記念にプレゼントとして持ってきていたものだ。


 妙子が笑顔で受け取ったのを見届けて、美波は急いで帰路にいた。








 十数人が集まった誕生日会で、美波は曾祖母であるあおいの隣に座った。


 美波が一番なついているから、と大人たちもそれを許したのだ。


 曾祖母は、とても優しく穏やかな人で、妙子と一緒の時に感じる安らかさにも似た思いを美波は抱いていた。


 次第に、大人たちは近況報告から愚痴や世間話に移っていき、ますます話に入れなくなった美波は、「そういえば」と、曾祖母に妙子のことを切り出した。


 妙子は以前お互いに自己紹介をした時、この家の近くに住んでいると言っていたのだ。


 そう言いながら、去年は翌日の出発の時に見送りに来てくれなかったから、今度はこちらから出向こうかと思って、美波は家の場所をこうとしたのである。






「――美波ちゃん、今、なんて言ったんだい……?」






 ところが、どうにも様子がおかしい。


 それまで笑顔で話を聞いてくれていた曾祖母が、引きつった声で訊き返してきたのだ。






「だから、妙子ちゃんの家、おばあちゃん知らない? えっと、そうだ樋口。樋口妙子ちゃん」



「――ッ‼」






 いきなり、あの穏やかだった曾祖母が、血相けっそうを変えて立ち上がった。


 呆気あっけに取られる美波や、他の大人たちを放って、そのまま出ていってしまった。


 母には失礼なことを言ったのではと叱責を受けるが、説明してほしいのは美波の方である。


 結局、その日はそれでお開きになった。


 翌朝早くに、曾祖母が手洗いに起き出した美波に声を掛け、戸惑わせてしまった昨夜の謝罪と、妙子のところへ案内してほしいと言ってきた。


 「家に行った方が良いのでは」、とたずねた美波に、曾祖母は短く、外出の支度をするよう言うだけだった。








 連れていかれたのは、一件の廃屋はいおくだった。


 長い間、人の手が入っていないのが分かるほど、荒れ果てている。


 戸惑う美波に、「ここが、妙子の家だ」と曾祖母が言った。


 樋口妙子は、曾祖母の幼馴染で、ふたりが今の美波と同じ歳の頃に、空襲で命を落としたということだった。




「私が、その日誕生日で貰った人形を、家に忘れたと泣くものだから。たえちゃんは、警報が鳴ってるのに、取りに行ってくれるって……そのまま、帰ってこなかった」




 信じたくない、と狂ったように騒ぎ立てる胸を押さえながら、美波は曾祖母を置いて駆け出していた。



 あぜ道を抜け、石段を駆け上る。



 この鳥居をくぐれば、きっと昨日のように妙子が笑顔で迎えてくれる。



 祈るように名前を呟きながら、美波は境内に足を踏み入れた。



 森との境目、そこに、妙子の姿はなかった。



 泣きそうになる美波の頭が、もうひとつ違和感を訴える。



 妙子が立っていた場所。



 大木の根元に、何かが置いてある。



 焦りから転んでひざを打ちつつも、涙を拭ってそばまで行き、確かめる。






 昨日、妙子に手渡したおそろいの髪留と、赤黒く古ぼけた人形が重なっていた。





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『八十八年目の夏』 龍宝 @longbao

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