9

 珍しく尚弥なおやから電話があった。高校の先輩で、同じ大学に懐空かいあが入学してからというもの、いろいろと気にかけてくれている。

「今週末、車で実家に帰るんだ。良かったら同乗していかないか?」


 遠慮する懐空に、

「二時間近くかかるんだぞ? 一人でだんまりなのは俺のしょうにあわない。一緒に行ってくれると助かるんだがなぁ」

と、懐空の遠慮を見越しているのに『遠慮するな』とは言わない。その優しさに懐空は甘える事にした。


 尚弥は次週の日曜まで地元にとどまると言う。帰りも一緒にどうだ、と誘ってくれたが、懐空にはバイトがあった。翌日には帰ると言うと、

「そうか、残念だな。気を付けて帰れよ」

と、優しい眼差しを向けてくれた。


「懐空の母ちゃんって美人なんだってね」

 運転しながら尚弥が言う。

「うちの母ちゃんがさ、懐空が同じ大学に来たって言ったらさ、あそこの母ちゃんは美人なんだよ、って言い出してさ」

と笑う。


「母ちゃんがパートしてる会社で懐空の母ちゃん、経理の仕事してるんだって。それで知り合いなんだって言ってた」

「へぇ、そうなんだ?」

「うん、懐空が高校入学したとき、同じ高校だって母ちゃん同士で話したらしいよ。きっと同じ大学だって事も話したんじゃないかな?」


 懐空の母が長年、小さな会社で経理を見ている事は知っていたが、仕事先の話を懐空は母から聞いた事がなかった。言えば時には愚痴ぐちになる、だったら初めから一切いっさいしない、母の性格を考えて、きっとそんなところだろうと懐空は思っていた。


 一度だけ、

「母さんは経理の仕事をしているからね、守秘義務しゅひぎむがあるの。会社の秘密がれるとまずいの」

と言ったことがあって、経理の仕事って大変なんだな、と漠然ばくぜんと思った懐空だった。


「お化粧もしないのにあんなに綺麗で……でも、誰かと付き合っているなんてうわさになった事すらない。独身なんだから、恋人ができたって何の問題もないのに、息子第一でね。母親のかがみだ、って母ちゃんがベタめしてる」

「自分の母親を褒められるってなんだか気恥きはずかしいね」


 懐空の言葉に尚弥が笑う。

「まぁさ、そんな母ちゃんを大事にして欲しいな、ってお節介にも俺は思っちまった。いや、懐空が母ちゃんを粗末にしてるとは言ってない。サークルを断られたのも、懐空が母ちゃんに苦労させたくないと思ったんだって、俺、勝手にそう思ってる」

「あ、あれはすいません。せっかく誘って貰ったのに断って」

「いいってことさ。懐空の母ちゃん、苦労してるってうちの母ちゃん言ってたしな」

「やっぱり母は苦労してるんですね。僕にはそんな素振そぶり、ちっとも見せなくて」

「父ちゃんの事ではかなり苦労したらしいよ。それもあって恋人を作らないのかもってうちの母ちゃん、言ってたわ」

「……父ちゃん?」


 懐空の顔色が変わったのを尚弥もさっしたようだ。チラリと懐空の顔を見る。

「いや……ごめん。おおしゃべりが過ぎた」

「尚弥さんのお母さんは、僕の父の事を何か知っているんですか? 僕、父の事、なんにも聞いてなくて」

「うーーーん……」


 前を見て運転しながら尚弥が顔をしかめる。

「ごめん、ホンと、俺、喋り過ぎ。よく母ちゃんに怒られるんだ。男のくせにお喋りだ、って。それってセクハラだぞ、言い返すんだけどね」

話を変えようとしても、黙ったままの懐空を誤魔化ごまかせない、と尚弥は思ったのだろう。

「ごめん、母ちゃんは懐空の父ちゃんはひどい男だ、って。でも、どう酷いかは、聞いた事がないんだよ」

「……酷い男 ――」

「懐空、頼む、気にしないでくれ。間違ってもおまえの母ちゃんを問い詰めたりするな」

「うん、判ってる。心配してくれてありがとう」

「お、サービスエリアだ。便所べんじょ行こうぜ」


 尚弥が休憩を取ってくれたことで懐空も気分転換ができた。微妙な空気もどこかに吹き飛び、元の楽しい道行みちゆきに戻って行った ――


「あら、坂下さかしたさんの息子さんに、そんなにお世話になってるんだ?」

 尚弥が車で送ってくれたと聞いて、懐空の母、由紀恵ゆきえが顔をほころばせた。

「うん、入学したときからあれこれ教えてくれて、すっごく助かった」

「そっかぁ、大学生活も順調そうね。顔色もよろしい。友だちももちろんできたんでしょ?」

「一番仲がいいのは鹿児島から来たって言う忠司ただし篠崎しのざき忠司。一緒に鹿児島に行こうって誘ってくれた」

「鹿児島に行くの? いいわね」

「いや、今年は断った。来年行くって約束した」

「そうなんだ? 今年も行って来年も行けばよかったのに」

母さんに申し訳なくて行けなかった、とは口が裂けても言えない懐空だ。


「で、彼女はできたの?」

 由紀恵が悪戯いたずらそうな目で懐空をのぞき込む。

「できてたら忙しくって母さんの顔なんか見に帰って来ない」

「それもそうだね」

ケラケラと由紀恵が笑う。久しぶりの懐空との会話が楽しくてたまらないようだ。


「でも、いい加減、彼女の一人くらい作りなさいよ」

「母さん、彼女は一人でいいんだよ」

「んじゃ、一人ずつ、何人も作りなさいな」

「なに、それ?」

今度は懐空も声をあげて笑う。笑いながら、なんで麗奈れなの事を母さんに言わないんだろうと、自分を不思議に思っていた。きっと恥ずかしくて言えないだけだ……


 その晩はいつになく上等な寿司を由紀恵は用意してくれた。いつもはスーパーの寿司なのに、正月に頼む寿司と同じくらい上等だ。


 食べながら、いや、懐空が帰って来てから、由紀恵は懐空の顔から目を離す事がない。

「母さん、寂しかった?」

つい懐空が母親に尋ねる。

「うん、寂しかった」

「おや、ヤケに今日は素直だね」

「あら、わたしはいつも素直よ」

「嘘つけ」

二人でクスクス笑い合う。


「まあさ、母さんが寂しいって言ったからって、大学 めて帰ってきますって言うような懐空じゃないって判ってるから言えるんだけどね」

「えぇ、そんなこと言うなら大学辞めてこようかな?」

「そんなヤツは懐空じゃない。わたしの息子はそんな弱虫じゃない。追い出してやる」

「相変わらずきびしいんだなぁ」


 懐空の部屋は、元のままだった。いつでも帰って来られるじゃん、と思いながら、ベッドに横になる。洗いたてのシーツの匂いがした。


 久しぶりに母さんの笑い声を聞いた。楽しかった。こんなに安心して冗談を言い、ゲラゲラ笑ったのは久しぶりだ。笑い詰めで、なんだかほっぺたが痛くなりそうだ。


 寝返りを打ち、懐空は思った。明日、朝ご飯を食べたらすぐに帰ろう。昼までいたら、夜までいたくなる。ずっとこのまま、ここにいたくなる。帰りたくなくなる。母さんが寂しかったと言ったけど、僕だって寂しかったんだ。懐空はなぶたこすった。それに……


 このままだと、父親の事を聞いてしまいそうだ。聞いてはいけない気がしていた。どんな話を聞かされても動揺しないでいられる自信がない。


 懐空は一つ深呼吸をして目を閉じた。なかなか寝付けなかったが、それでもいつの間にか眠っていた。


 翌日、駅からアパートへ向かう坂道を登っているとき、懐空は前方に愛美あいみの姿を見つけた。早歩きして追いつこうかと懐空が思った時、愛実の少し後ろに、いつか愛実を部屋の前で待っていた男がいる事に気が付く。


(少し時間をずらしたほうがいいかな)

 歩くのが早い懐空はこのままでもアパートに着く前に愛美に追いつくだろう。男と二人でいるところを見てはいけない気がしたし、どんな挨拶あいさつをすればいいか思いつかない。


 意識してゆっくり歩き、そろそろ部屋に入っただろうと言うタイミングでアパートの敷地に入る。


「帰って!」

聞こえたのは愛実の怒鳴り声だ。

「ふざけるな、この野郎!」

そう言ったのは愛実の後ろにいた男だ。愛実が閉めようとするドアを何とか開けようとしている。

「おまえは俺の言う事を聞いていればいいんだ!」


 慌てて懐空が階段を駆け上る。バン! と音がしてドアがとうとうじ開けられた。ドンと、何か倒れる音がして、愛実の悲鳴が聞こえた。


「やめろ!」

 倒された愛実にし掛かり、手をあげ、殴ろうとしている男を、うしろから来た懐空が腕をつかんで愛実から引きがす。体勢を崩した男を、懐空は通路に押し出した。男は通路に尻もちをつく。


 何も考えず、気が付いたら愛実の部屋のドアの前にいて、体が勝手に動いていた。懐空は愛実と男に割って入り、男に立ちはだかっていた。これ以上の暴力は許せない。


「なんだ、おまえ? どけ! 邪魔じゃますんじゃねぇ!」

 立ち上がった男が懐空に罵声ばせいびせる。懐空の返答次第ではこの狭い通路で殴り合いになるかも知れない。


「隣の部屋の者です。いい加減にしないと警察呼びますよ」

自分でも驚くほど冷静な声だ、と懐空は思った。警察と言う言葉に男がひるんだのが手に取るように判った。男はごく普通のサラリーマンに見える。警察沙汰なんか経験したことがないだろう。それは懐空とて同じだ。


 男は、チッと舌打ちすると、部屋の中で倒れたままの愛実に

「また来るからな」

と言い捨てて帰って行った。


 それを見送っているとき、懐空はやっと、自分が震えている事に気付く。ちっとも冷静なんかじゃなかったんだ……

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