【KAC20225】最後の賛辞

松竹梅

最後の賛辞

「最後の夜にも、碌な笑顔じゃないなぁ。ばあちゃんは」


 参列者の数を見て驚いたのもつかの間、読経が始まってから改めて祭壇を見上げてみる。

 最後に見たときと同じ、頬をぼてっとさせて、つぶれたように瞼をへしゃげさせた顔。僕にとっては見慣れた小さな顔が、多くの人の前にでかでかと飾られている。


 通夜だというのに、多くの人々が訪れてくれている。祖母の人徳だろう。

 隣で母がハンカチで目元を抑えているが、こらえきれずにむせていた。父が背中をさすって落ち着かせている。いつもは明るい我が家だが、葬儀の場でもとはいかない。みな一様に沈鬱な表情だ。少しだけ視線を下げているのは、きっと自分以外の人が悲しんでいる様子をこれ以上見ないためだろう。


 反対隣の妹だけが、周囲の大人たちの様子に不思議そうな表情を浮かべていた。

「お兄ちゃん、なんでみんな悲しそうなの?おばあちゃんは?」

 気を遣ってか、小さな声で聞いてくる。この場の意味を、小さな妹はわかっていないのだ。


 葬儀は魂の冥福を祈る場。

 故人を偲び、死を悼むために設けられる古来からの儀式だという。

 大人たちをよく理解して行っているらしいが、高校生になって初めて親族が亡くなった僕には、妹と同じくあまりよくわかっていない。冠婚葬祭の内、ずいぶん前に従姉の結婚式には連れて行ってもらったことがあったけれど、慣れない場所ですぐに疲れて寝てしまった。儀式の場というのは、子供にとってつまらない場所だということだけが、身に染みた。


「おばあちゃんは、もういなくなったんだ。遠くに行っちゃったから」

「もう、会えないの?」

「ああ、今まで頑張って生きていたからな。ご褒美にここよりもきれいで、平和なところからお迎えが来たんだよ。一緒に過ごす最後の夜だ」


 思春期を過ぎれば、人が死ぬということがどういうことかもわかっていた。自分の祖母にその時が近づいていることも。


 米寿計画。

 令和が終わりを迎え、文成が年号とされる頃、日本国民の人口は過去最高に達していた。

 人間は少子高齢化が一層進み、高齢者の延命措置や福祉が充実して簡単には死ななくなった。一方で若年層への経済的支援は一向に好転せず、主要先進国との国民生産力を比較すると、明治から平成に見られた過去の栄光は完全に廃れた。デモやストライキが若者の間で流行し、労働も何もなくなったため、ついに政府は計画的人生設計観の普及と同時に寿命の完全固定制度を設けた。

「日本国民の寿命は88歳である」

 まるで神にでもなったかのように首相が宣言した文成最初の日、ちょうど88歳を迎えていた上皇の親族が逝去されたという報道があった。暗殺やテロの疑いもあったが、他の88歳高齢者も同じころ一斉に息を引き取ったというのだから、原因探しもすぐに鳴りを潜めた。理由も、方法も不明だが、人間は88歳で死ぬ。

 それ以来、人間の寿命は88歳に固定された。


 祖母は80歳まで、安定した職に就いて働いていた。70歳になるころ、発表された米寿計画でライフプランをめちゃくちゃにされたと多くの人が怒りに吠えていても、平然と乗り切った。

「私は私の好きなように生きてきた。お国が死を決めようと変わらなかった、ただそれだけさ。決められただけのつまらない人生はごめんだね」

 死の2年前、道徳の授業で家族にインタビューしたときに聞いた言葉だ。誰よりもかっこよく、力強い言葉だと思った。家族で88歳まで生きた人間は、祖母が初めてだった。


 焼香が始まり、僕と妹は一緒になって祭壇に向かう。一定のリズムで読経が行われる中を進むと、祖母が亡くなったことが実感されて急に腹の底にずんと重みを感じた。

 ああ、本当に死んでしまったんだ。もう会えないんだ。

 胸をせり上がってくる悲しみに瞼が熱くなるが、妹の横で泣いてなんかいられない。必死に耐えた。

「お兄ちゃん、これは?」

「これは焼香といってね、ばあちゃんが行くところのおんなじ匂いがするんだって」

「そうなんだ!じゃあ、おばあちゃんと一緒だね」

「そうだね。さ、少しだけつまんでそこに落とすんだよ」

 パラパラと落として合掌してみせる。妹も続いて落とすが、合掌する手を見つめて首をひねった。


「どうしたの?」

「手を合わせるだけでいいの?なんだかつまらない」

 唇を尖らせる妹に少し焦る。妹は自分がおかしいと思ったことには何が何でも反抗しようとする癖があった。順番があるから早く退こうと思い、合掌を終えてせかす。

「でもこれは決められてることだから・・・」

「おばあちゃんには、遠くに行っても元気でいてほしいもん。だから、手を合わせるだけなのはダメだと思う」

 そう言った妹は、一歩前に出て遺影を見上げる。きりっとした表情には決意が見て取れた。

 慌てて連れて行こうとした瞬間、パチパチパチと、場に不似合いな音が響いた。


 妹が拍手をしていた。小さな両手から出るとは思えないほど、大きな音で。

「おばあちゃん、今までたくさん生きてきて、あなたは頑張りました!私たちに元気をくれてありがとう!遠くに行ってしまっても、元気で強い、笑顔の素敵なおばあちゃんでいてください!」


 唖然とした大人たちは、その光景をただじっと見ていた。僕も含めて、動ける者はいなかった。妹だけが、目の前の現象に笑っていた。

 妹が拍手をするうち、遺影から祖母の魂が抜けていった。それはとぐろを巻くように焼香の煙を巻き込み、だんだんと祖母の姿をかたどった。生前と何ら変わらない、凛とした佇まい。きりっとした目鼻には遺影と同じ皺が刻まれている。

 優し気な雰囲気の祖母は、最期に聞いたのと同じ声で妹に呼びかけた。


「蓮華ちゃん、力強い言葉、ありがとうねぇ。いい笑顔と拍手だったよ。あんたのおかげで、これからも元気に過ごせそうだ。あんたみたいに、形式にこだわらずに自分の道を進もうとする子を、私は止めないよ。病気とか、仕事とか、結婚とか、いろんな大変なことが待っているこれからの時代、自分の信じた道を進める力を持っていることが大事なんだから。それはきっと、あんたの生きる力となってくれるはずだからねぇ」

 触れることのない手で、妹の頭を撫でる祖母からは、怖ろしさを感じず、むしろ生き生きとした喜びをはらんでいた。

「悲しい言葉ばかりじゃ安心していけなかったけど、最後にこんなに立派な賛辞をもらえたなら、ここまで生きてきたかいがあったよ」

 祖母のうるんだ声に、棒立ちになっていた大人たちはまた実感がこみあげてきたのか、ほうぼうで嗚咽が漏れる。まさか見るとは思っていなかった祖母の生きた顔を、もう一度見ることができたのだ、無理もないだろう。


「さて、みんな」

 妹を撫でる手を止めて、祖母が顔を上げた。

「本当にそろそろ行くよ。今までありがとうね」

 現役で働いていたころと同じ、背筋のピンと伸びたかっこいい立ち姿で。

「これからつらいことも大変なことも、たくさんあると思う」

 一片の曇りもない、きれいな目で。

「でも生きているだけで、あんたたちは十分すごいんだから、自信を持ちな」

 丸く、優しい、柔らかい声で。

「最後まで笑っていられるように、悔いのない人生を過ごしなさいな」

 今までに見たこともない、目を惹くような笑顔で。


 彼女は消えていった。


 風にたなびく煙のように、像を溶かしていった空を見つめて、しばらく全員がそうしていた。やがてどこからか、拍手が鳴り始めた。だんだんと増えていき、葬儀とは思えないほどの大きさになり、最後には歓声まで上がった。

 拍手で最期を送られるなんて、と僕は思っていたが、葬儀の何たるかをあまり知らない僕にはどうでもよかった。最後に祖母の姿をもう一度見ることができたのだから。

 涙が出るほどに強く手を叩き、みんなと一緒に祖母を送りながら思った。


「やっぱりばあちゃん。碌な笑顔じゃねえなぁ」

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