節目
ムラサキハルカ
節目
古めかしい城内に深夜零時を告げる鐘が鳴り響く。
「誕生日、おめでとう。ヨーコ」
夫からの祝いの一言。城の窓から月を見上げていた
「私、何歳になったんだっけ」
夫は苦笑いをしてみせてから、八十八歳だよ、と口にした。
「もう、そんなになるんだ」
「誕生日とかって、ヨーコたちの方が気にするんじゃないの」
不思議そうな夫の声に、そうかもね、と応じながら、肩から下した長い髪を撫であげる。
「けど、もう私もあなたと同じだから」
心も鈍くなっちゃたのかもしれない、と付け加え、再びまん丸い月を見上げる。
「僕は、葉子が年を重ねてくれて嬉しいよ」
「そっ。ありがと」
夫の声に素っ気なく応じたあと、暗い室内の机の上へと視線を向ける。写真立ての中に入った古びた一葉には金髪の女性とともに微笑む今と変わらず若い夫の姿。わずかばかり心をざわつかせながら、その隣に目を滑らせる。もう一つのやや新しい写真立てには葉子と夫のツーショット映っている。三十年前ほどの写真ではあるがこちらの両者も今と変わらない。おそらく、死が二人を分かつまで。
*
きっかけは大学生の頃の飲み会の席。突如として現れた自分を吸血鬼だと名乗る男に、眷属にならないかと持ちかけられた。それによれば、かつての眷属を失って喪に服すような年月を送った末に、新しく可愛い女の相手を求めはじめたのだとか。眷属になれば、不老長寿の肉体に加え衣食住や娯楽費を保障するということと、その代わりに夜も歩けず血を吸わなくては生きていけなくなり一度なれば後戻りはできないことを説明された。
半ば与太話だと思いつつも男が好みの顔だったため、お友達からでという決まり文句で決定を先延ばしにした。男もまた葉子の態度を受けいれた結果、機械が苦手な男の意見を取り入れ、月の満ち欠けを基準に逢引きするようになった。この時点では、変な彼氏ができたくらいのつもりで、あまり真面目に考えていなかった。
しかし、男がどこからともなく急に現れたり、大きな古い洋館に住んでいたり、蝙蝠がやたらと寄ってくるのを見て、段々と話の信憑性が増してくるのを感じた。
おそらく、本当に吸血鬼なのだろう。半ば確信したあとも、葉子は返事を渋った。男の提案を受けいれる覚悟も受けいれない覚悟もできていなかったのもあるが、まだまだ若かった葉子はできるだけこのまま楽しい時間が続けばいいと願っていたからだった。
ずっと、決断せずにいたい。そうやって、結論を延ばし延ばしにし続けた。
/
時計の針が朝七時辺りを差すのと同時に、葉子は生あくびをする。
「眠いのかな」
夫が優しく尋ねてくるのに頷いた。この体になってから数十年以上、はっきりと朝に弱くなっていた。とはいえ、眠るわけにもいかない。
「今日は夕方まで寝ててくれてかまわないよ」
あくびを見て出されたとおぼしき夫の提案に対して葉子は首を横に振った。
「別に寝なくても平気。見張っとかないと」
昨今は人から血をなるべく少量しか吸わないように注意を払ったうえで被吸血者の記憶を消しているため、あまり人との争いは起こらなくなったものの、十年に一度くらいは吸血鬼狩りがやってくるため警戒しないわけにもいかない。
「大丈夫だよ。吸血鬼狩りが来れば、僕だって気付ける」
「そう言って、三十年前に死にかけたのはどこの誰だったっけ」
手足を捥がれ芋虫のようになった夫を背負い、慌てて当時の住処から逃げ出した時のことが脳裏に過ぎる。今、思い出しても冷や汗ものだった。
「あの時は一際、眠りが深かったんだよ。もうあんなことにはならない」
「どうだか」
大袈裟に肩を竦めてみせる葉子に、夫はう~んとわざとらしく唸ったあと、
「じゃあ、誕生日ってことで、僕が代わりに見張りをするよ」
世紀の名案を思いついたとでもいうようにそう切り出す。夫の心遣いそのものは葉子の心を打たなくもなかったが、何十年も連れ添った経験からして信用度はかぎりなく低い。かといって、せっかくの好意を無碍にするのも憚れた。
「そういうことなら、やっぱり起きてるよ」
「僕のことをあんまり信じられないかもしれないけど、今回はちゃんとやり遂げてみせるから心配しないでいいよ」
葉子はともに暮らす中で何度も口にされては反故にされた『今回は』の数々を頭に浮かべつつも、そうじゃないって、と応じる。
「せっかく誕生日だし、できるだけ起きていようかなって思ったの」
丸めこめるだろうか。おそらく、半々くらいだろうと考えつつ、夫の答えを待つ。夫は、すーっと目を細めたあと、そっか、と力を抜くようにして息を吐きだした。
「だったら、夫婦の時間ってやつを過ごそうか」
納得したのかしてないのか、夫は薄く笑いかけてくる。葉子は夫の内心がわからないながらも、ほっと胸を撫で下ろした。
※
葉子が男からの吸血を受けいれるのを決めたのは二十代半ばを過ぎた頃だった。
理由は色々ある。三年ほど働いた職場で上司をはじめとした人間関係に馴染めず仕事も思うように上手くいってなかったこと、薄らとあった恋人と添い遂げて暮らすという願望が膨らんでいたこと、そして男が口にするところの『可愛い』の賞味期限が迫っているかもしれないという焦りがあったこと。最後に関しては杞憂かもしれないとも考えたが、葉子自身も男の顔に惹かれている部分が多少なりともある以上、同じ理屈で見られている可能性を否定できなかった。あくまでもこの時点での二人の関係性は、男が葉子の先延ばしを黙認しているからこそ生まれている。もしかしたら、ある日、男がふと葉子を眷属にするのを止めていなくなってしまうかもしれない。それらの理由を背景に、葉子はようやく覚悟を決めた。
「本当にいいのかい」
自分から誘ってきたにもかかわらず、男は何度も、吸血鬼の眷属になってしまっていいのかという確認を繰りかえした。やはり、吸血鬼を名乗る詐欺師だったんじゃないだろうかという懸念が再び湧きあがるにつれて、葉子はわずかばかり安堵する。何もしてこない男に、何度も眷属になるという答えを伝え、やっぱり吸血鬼なんているはずない、とほっとしかけた矢先、
「わかった」
と男が真剣な顔になる。呆気にとられた葉子の首筋にあっという間に牙が立てられ、意識は闇に落ちた。
次に起きた時、葉子の体は夜を生きる住人となっていた。
/
閉めきった暗い部屋の中、ピアノの音が響き渡っていた。鍵盤の上で忙しく手を動かしている夫の隣に座る葉子は、どこか物悲しい音を綺麗だと感じる一方、先程から耐えている眠気がより強くなる。
「寝ててくれてもいいんだよ」
すべてわかっていると言わんばかり笑いかけてくる夫をしつこいと思いながら、
「聞いていたいから、寝ないよ」
頑として受けつけない。
「それだったらいいけど。無理はしないようにするんだよ」
やや残念そうに応じた夫は、再び鍵盤に目を落とす。その横顔を堪能しながら、肩に寄りかかった。衣服ごしに伝わってくるじわっとした冷たさ。おそらく、夫もまた同じ温度を味わっているのだろう。そんなことを考えつつ、葉子は自らが失ったものに対する実感を数十年ごしに深めた。
*
まともに人としての生活は送れないだろう。葉子自身、頭の中でそんな想定をしていたものの、実際に体験した眷属としての生は想像以上に吸血鬼らしいものだった。
夜しか過ごせないという事情から、勤めていた会社を退職することになり、夜勤もなかなか条件が合わなかったため、半ば専業主婦みたいなかたちになおさまった。夫は葉子の交友関係に口を出してこなかったものの、やはり体質の関係で交流する機会が減った。飲み食いはできなくもないが、以前ほど味に鮮やかさが感じられなくなったうえに、時折、どうしようもなく血が吸いたくなって、身内の首に牙を押しつけたい衝動にかられてしまう。そしてなにより、殺しこそしないものの生き血を吸うために人を襲わなくてはならないというのも心理的負担が大きかった。
決定的な事件は眷属化して五年ほど後。葉子の両親が吸血鬼狩りに誘拐された。葉子と夫を呼び出す人質として使われた二人は、散々、狩人どもの盾代わりとして使われた末、なんとか追い返したあとには物言わぬ肉片と化していた。
葉子は自分の家族を守れなかった夫を責めたが、一番悪いのは軽はずみによく知りもしない世界に飛びこんだ自らなのだということは理解していた。
それ以後、葉子はかつて親しかった人間たちと交流を絶ち、夫について転居を繰り返した。自身の心がどういうかたちになってしまったのかはよくわからない。ただ、多くの歳月が流れた今も、葉子と夫はともにいる。
/
深夜、葉子は再び城の窓から月を見上げながら、缶ビールを口に含んでいた。
「おいしいかい」
葉子に付き合ってか、缶の赤ワインを手にして尋ねてくる夫に、さあ、と応じる。
「そういうあなたはおいしいわけ」
「おいしい、と言いたいところだけど、僕は吸血鬼だからね。残念ながら、血以外の味はよくわからないんだ」
夫の答えが葉子の答えでもあった。
もう人間ではない。そう思うことは慣れっこなのに僅かに心が軋む気がした。
「ヨーコはおいしいと思ったからビールを飲んでるんじゃないの」
素朴な疑問を口にする夫の前で、葉子は目を細めた。
「祝いの日だから」
少なくとも人間の頃ならばそうしただろう。だからつい飲んでみようと思った。
「そっか」
わかったのかわかっていないのか。夫はそう短く言ってから、月を見上げた。葉子はその横顔に視線を送る。
八十八歳。たしか米寿といったか。人間であればよぼよぼになっているはずだが、葉子の外見は二十代中盤のままである。卒寿、白寿、紀寿。そういった節目節目をこれからも越えていって、それからどうなるのだろう。答えを求めて、空と夫の顔の間で視線を巡らせるが何もわからないままだった。
大時計が零時を告げる鐘を鳴らす。
節目 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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