5
隆介と孝信の待つ応接間に戻った美沙子と葉月は、吉岡医師がやってくるまでの数分間をひたすら情報収集に当てることになった。
それでわかったのは、孝信が妻の由梨枝をどれだけ愛していたかという事実である。
「あいつは本当に、俺なんかにはもったいないぐらいのよくできた女房でねぇ……ずいぶん体が弱かったのに、いつでも一番に家族のことを考えてくれて……貞淑な妻の鑑みたいなやつだったよ」
酒が入っている孝信は、そんな言葉を恥ずかしげもなく繰り返していた。
裏事情を知らなければ、それも胸を打つ思い出話に聞こえたのかもしれないが、美沙子としてはひたすら溜息を噛み殺すばかりであった。
(そんな女房が不倫をしてたなんて聞かされたら、そりゃあ逆上するだろうねぇ。まったく、気の毒なお人だよ)
美沙子にそんな感慨を抱かれているとも知らず、孝信はうっすらと涙を浮かべた目で息子のほうを見た。
「隆介も、そう思うだろう? お前だって、さんざん世話を焼かれていたもんな」
隆介は不機嫌そうな面持ちで、「さあな」と言い捨てる。
孝信がたちまち激昂しそうになったので、美沙子は慌てて口をはさむことになった。
「野々宮さん。年頃の男の子ってのは、そんな気持ちを素直に出せやしないんですよ。気恥ずかしいとか、そういう気持ちが先に立っちまうもんなんですからね」
「ああ……まあ、そういうもんなのかねぇ」
と、孝信は気を取りなおした様子で美沙子のほうを見やってくる。
「それにしても、蓮田さんはそんなにきっぷのいいお人だったんだな。町で挨拶をしてもらったときは、もっと気弱なお人に見えたもんだよ」
「あのときは、少しばかり体の調子がよくなかったんですよ」
そんな言葉で孝信の疑問をはぐらかしつつ、美沙子は隆介の様子をうかがった。
隆介は、不機嫌そうな仏頂面で内心の悲哀や苦悶を押し隠しているように見える。この段階で、彼は何ひとつ裏事情を知らないのだから――母親は、彼との待ち合わせ場所に向かう途中で足を滑らせたのではないかと疑い、自責の念に苦しめられているはずであった。
「……さっき写真を拝見しましたけど、由梨枝さんってお人は静夫って坊ちゃんとよく似てるみたいですねぇ。静夫くんも、さぞかしお気を落としてるんでしょう?」
「ああ。静夫は家にいる時間が長い分、俺たちよりも由梨枝と顔をあわせる機会が多かっただろうからな。見た目だけじゃなく、大人しい性格もよく似ていたし……そりゃあショックを受けてるだろうと思うよ」
「そんな大変な時期に押しかけてきちまって、本当に申し訳ありませんでしたね。あたしもつい、娘のことが気にかかっちまって」
「いいんだよ。蓮田さんみたいに元気なお人がかまってくれれば、静夫も気がまぎれるだろうからさ」
孝信がぎこちない笑顔でそのように答えたとき、廊下の軋む音がした。
美沙子は葉月とともに背筋をのばし、隆介は険しく眉をひそめる。そんな中、廊下に面したふすまが開かれて、吉岡医師が姿を現した。
「おや、みなさんおそろいで……あれ? 蓮田さんじゃないですか」
「どうもどうも。こんなところで出くわすなんて奇遇ですねぇ、吉岡先生」
蓮田節子はこれほど体が弱っているのだから、きっと吉岡医師の診療所でもさんざん世話になっているのだろう。それを念頭に置きながら、美沙子は愛想よく挨拶をしてみせた。
吉岡医師は、困惑の面持ちで応接間の四名を見回している。その視線をはねのけるようにして、隆介が立ち上がった。
「それじゃあ、静夫の部屋まで案内するよ。話をするのは、オバサンだけでいいんだよな?」
「うん。娘がいたら、話しにくいこともあるだろうしね」
そうして美沙子も身を起こすと、吉岡医師はますます困惑の面持ちとなった。
「あ、あの、いったいどういったお話でしょうか? 静夫くんはちょっと疲れてしまったようで、今は寝ているかと思いますけど……」
「うるせえな。横から口を出すんじゃねえよ」
母親との不倫関係を疑っているために、隆介は吉岡医師に対して険悪な態度を隠そうとしない。それで孝信が怒鳴り声をあげそうな気配であったため、美沙子はすぐさま言葉を重ねてみせた。
「静夫くんが眠っていたら、もちろん無理に起こしたりはしませんよ。あたしがちょっとご挨拶をさせてほしいだけなんで、吉岡先生はお気になさらないでくださいな」
吉岡医師は「はあ……」と頼りなげに眉を下げた。
それを尻目に葉月のほうを振り返ると、そちらには凛々しい表情が待ち受けている。そちらにうなずきかけてから、美沙子は隆介とともに応接間を出た。
「あの吉岡先生ってのは、なんか胡散臭いよね。なんだったら、隆介くんはすぐ応接間に戻ってあげてよ」
「ふん。あんなやつと世間話をする気はねえよ」
隆介は険しい面持ちのまま、軋む廊下を突き進んだ。
その後を追いながら、美沙子は内心で(まあいいか)と肩をすくめる。
(下手すると、父さんが吉岡に襲いかかりそうな雰囲気だもんね。まったく、どっちもこっちも火種だらけで、気が休まるいとまもありゃしないよ)
しかしとにかく、美沙子の任務は静夫と対峙して、何か解決の糸口を探ることである。
由梨枝の死は、本当に自殺や事故死ではないのか――自殺や事故死でないのなら、真犯人は静夫であるのか吉岡医師であるのか――もしも真犯人が吉岡医師であるならば、静夫に蓮田千夏に対する執着を捨てさせることは可能かどうか――美沙子は、そこまで見極めなければならないのだった。
(で、静夫がトチ狂って襲いかかってきたら、包丁で返り討ちだ。それが一番、手っ取り早そうな解決法だよね)
そんな気持ちを押し隠しながら、美沙子は隆介とともに廊下を進んだ。
やがて隆介が足を止めたのは、突き当たりに現れたふすまの前である。隆介はぶっきらぼうな声で「入るぞ」と宣言するや、返事も待たずにふすまを引き開けた。
静夫は、眠ってなどいなかった。
白皙の少年は、立派な学習机の前にたたずんでおり――そして、筆立てからカッターナイフを取り上げた姿勢で硬直していた。
「りゅ、隆介兄さん……?」と、静夫はカッターナイフを手放した。
カッターナイフは音をたてて、机の上に落ちる。隆介は眉をひそめつつ、弟の青ざめた顔と卓上のカッターナイフを見比べた。
「起きてたんだな。それならちょっと、時間をくれ。このオバサンが、お前に挨拶をしたいんだってよ」
隆介は平然としていたが、美沙子は動悸が収まらなかった。やはり静夫はカッターナイフを持参して、応接間の会話を盗み聞きしようと目論んでいたのだ。
(そんなのは、最初っから想定済みだろ。いちいちビクつんじゃないよ!)
そんな風に自分を励ましながら、美沙子は無理やり笑ってみせた。
「たぶん、初めましてだよね。あたしは千夏の母親で、蓮田節子ってもんだよ」
「ち、千夏ちゃんのお母さん? それがどうして、隆介兄さんと一緒に……?」
「隆介くんには、案内をしてもらっただけだよ。あたしはあんたと話をさせてもらいたかったんでね」
「僕と、話を……?」
静夫は暗く陰った目で、美沙子と隆介の姿を見比べる。
その姿に、隆介が眉を曇らせた。
「お前、ずいぶんしんどそうだな。とりあえず、楽にしろよ。そんなに長い話にはならないだろうからさ」
静夫は「うん……」と目を伏せながら、学習机の椅子に座った。
机の上には、まだカッターナイフが転がされたままである。
「それじゃあ俺は、外で待ってるからな。話が終わったら、声をかけてくれ」
隆介は力ない弟に心配げな視線を投げかけてから、部屋を出ていった。
ふすまがぴったりと閉められるのを見届けて、美沙子は静夫に向きなおる。
「いきなり押しかけてきちゃって、申し訳なかったね。娘が仲良くしてる男の子がどういう人間なのか、どうしても気になっちゃってさ」
「はい……」とか細い声で答えつつ、静夫は美沙子のほうを見ようとしなかった。
本当に、気の毒になるぐらい気弱そうな態度である。こんなはかなげな子供が殺人を犯すなど、自分の目で見ていなければとうてい信じられないほどであった。
(あんたにだって、真人間として生きる道はあったはずだ。それがどうして、あんな風にトチ狂っちまったのさ?)
現時点で、静夫はまだ吉岡医師を殺していない。しかし、すでにその手で母親を殺したと宣言しているのだ。まずはその点をつまびらかにしなければならなかった。
「挨拶が遅れちまったけど、このたびはご愁傷様だったね。あんなお若いお母さんを亡くすことになっちまって、さぞかしショックだったでしょう。……あんたのお母さんって、どんな人だったんだい?」
「どんな人……って言われても……」
「お兄さんやお父さんにとっては、理想的なお母さんだったみたいだね。病弱なあんたのことも、たいそう大事に育ててくれたんでしょう?」
美沙子がそのような言葉を口にするなり、静夫の目がいっそう暗く陰った。
これは、静夫が狂気に陥る前兆であるのかもしれない。美沙子は早くも、買い物かごの中に眠る出刃包丁の柄を探ることになってしまった。
「ええ……母さんは、完璧な人間だったと思います。兄さんや父さんは、とてもショックだったでしょうね」
「あんたは、ショックじゃなかったのかい? まさか、そんなわけはないよね」
「はい……でも僕は、なんだか現実感がなくって……母さんが死んでしまったことが、まだ現実だとは思えないんです」
深くうつむき、両膝の上で拳を握りしめながら、静夫はどんどん瞳を陰らせていく。
美沙子は出刃包丁の柄をしっかりと握りしめながら、さらに踏み込むことにした。
「それは別に、あんたが恥じ入るような話じゃないさ。あんたはお母さんから、こんなにひどい仕打ちを受けたんだからね」
「……ひどい仕打ち?」
「ああ、そうさ。こんな可愛い坊やたちを残して身投げするなんて、母親としてはあんまりじゃないか。死んじまったお人を悪く言いたくはないけど……同じ母親として、そんな身勝手な話はないと思うよ」
学習机の前に座したまま、静夫は小さく肩を震わせた。
彼が母親を愛しており、その死にも関与していないのなら、こんな暴言を許せるはずもないだろう。しかし、もしも彼が母親に悪意を持っており、その死に関与しているのなら――別の意味で、心を乱されるはずであった。
(さあ、あんたの本性を見せてみなよ)
美沙子はその手の出刃包丁を振りかざすような気持ちで、さらなる言葉を叩きつけた。
「あんただって、そう思うだろう? 何か悩みがあったんなら、家族に相談してくれりゃあよかったんだ。何もかもひとりで抱え込んで自殺しちまうなんて、残される家族のことを何にも考えちゃいないじゃないか。そんなのは、家族に対する裏切り行為だよ」
「でも……母さんは、そういう人でしたから」
と――感情の欠落した声で、静夫はそう言った。
「母さんが、家族に相談したりするわけがありません。母さんは、何でもひとりで解決しようとする人だったんです。きっと今回も、自分の力だけで乗り越えようとしたんでしょう」
「そのあげくが、身投げかい? ずいぶんお粗末な結果じゃないか」
「なんだか……さっきから母さんの話ばかりですね」
暗い眼差しを足もとに落としたまま、静夫はそのように言いつのった。
「どうして千夏ちゃんのお母さんが、そんな話を気にするんですか? あなたは……いったい何のために、僕のところにやってきたんですか?」
「そいつは最初に言ったろう? あんたがどういう人間なのかを知るためだよ」
怯むことなく、美沙子はそのように応じてみせた。
「あんたはね、まだ初七日も済んでない内に、人様の娘にちょっかいを出そうとしてるんだよ。それが相手の親の目にどう映るか、ちょっとは想像してごらんなさいな。現実感がないだの何だの言われたって、とうてい納得できないね」
「僕は……そんなつもりじゃ……」
「だったら、どういうつもりなのさ? あんたが母親の死をどうとも思わないような人でなしだったら、うちの娘には近づかないでほしいもんだねぇ」
美沙子はいつ襲いかかられてもいいように用心をしながら、そんな風に言いつのってみせた。
静夫は再び肩を震わせ、美沙子のほうに顔を向けてくる。
しかし――その目には大粒の涙が浮かべられており、美沙子を心底から驚かせた。
「ごめんなさい……僕、本当はすごく苦しくて……だから、千夏ちゃんに元気を分けてもらっていたんです」
静夫の瞳は、いまだ暗く陰ったままである。
しかしそこに浮かべられた涙が、窓から差し込む光を反射させて――この得体の知れない少年を、かつてなかったほどに人間らしく見せていた。
「千夏ちゃんと一緒にいるときだけ、僕は落ち着いた気持ちでいられるんです。千夏ちゃんだけが、僕の支えなんです。だから……お願いですから、僕が千夏ちゃんと一緒にいることを許してください」
「な……なんでそんなに、千夏に頼りきりなのさ? あんたたちは、そんなに深い関係だったのかい?」
「いえ……僕が勝手に、千夏ちゃんを頼ってしまっているだけです。千夏ちゃんは僕のことなんて、どうとも思っていないはずです。でも……僕には、千夏ちゃんが必要なんです」
「それはあんまり、健全な関係とは言えないね。そんなのは、おたがいのためにならないはずだよ」
ここが正念場と見て取った美沙子は、言葉に力を込めてみせた。
「もういっぺん聞かせてもらうけど、どうして千夏なのさ? あんたには、あんなに頼もしいお兄さんやお父さんがいるじゃないか。あの人たちはちょいとぶっきらぼうだけど、あんたのことを心から心配してくれてるんだよ? あんたがそんなに苦しんでるなら、まずは家族を頼るべきなんじゃないのかい?」
「それは……駄目なんです。父さんや兄さんを頼ることはできません」
「どうしてさ? 何か後ろ暗いことでもあるのかい?」
美沙子の言葉に、静夫はぴたりと押し黙った。
能面のような無表情で、ただ涙を流している。その目にはまだ涙のきらめきが溜められていたが、その向こう側にある瞳には何の輝きも宿されていないように感じられた。
「あなたは……何を知っているんですか?」
静夫の右手が、机の上にのばされた。
その白い指先が、カッターナイフをつかみ取る。
しかし、買い物かごの中で出刃包丁を握りしめている美沙子が怯むことはなかった。
「何かあたしに知られちゃまずい話でもあるのかい? もしかしたら、そのせいで家族を頼ることができないのかな?」
「…………」
「実はあたしは、不眠症の気があってね。あんたのお母さんが亡くなった夜も寝付きが悪かったから、あの川沿いの道をぶらぶら散歩してたんだよ。そのときに、誰かの声を聞いたような気がしたんだけど……それは、誰の声だったと思う?」
「やっぱり……そういうことだったんですね」
感情の欠落した声で、静夫はそう言った。
カッターナイフを握りしめた手に、細く筋が浮き上がっている。
「あなたはそれを、千夏ちゃんにも話してしまったんですか……?」
「ははん。それは自白の言葉と思っていいのかねぇ?」
静夫の顔が、ぴくりと引き攣った。
そしてその口が半月の形に吊り上がり、醜い笑みを浮かべるかと思われたとき――美沙子の背後に位置するふすまの向こうから、隆介の怒号が響きわたったのだった。
「手前! その手を離しやがれ!」
美沙子は愕然と、背後を振り返る。
それと同時に、隆介がふすまごと室内に倒れ込んできた。
隆介は獣のようにうめきながら、ひしゃげたふすまの上でのたうち回る。彼は両手で目もとを押さえており、その指の隙間から真っ赤な鮮血が噴きこぼれていた。
「やれやれ……こんな結末になるとは思わなかったよ」
虚ろな笑いを含んだ声が響きわたり、吉岡医師が部屋に踏み入ってくる。
その骨ばった左腕は、蓮田千夏の姿をした葉月の体を背後から抱え込んでおり――右手に握られた血まみれのメスが、葉月の咽喉もとにぴったりと当てられていた。
身動きを封じられた葉月は、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまっている。
そして葉月は、悲哀にまみれた声で叫んだ。
「孝信さんが、殺されちゃった……私は何にも余計なことは言ってないのに、こいつが孝信さんを殺しちゃったの!」
「どうせ君たちは、余計な真似をしようとしていたんだろう? だから、先手を打とうと思ったのさ。……まあ、結果は大失敗だったけどね」
吉岡医師の目は黒い穴のように輝きを失っており、その口は半月の形に吊り上げられていた。
美沙子は気が遠くなるほどの怒りを覚えながら、「手前!」と声を張り上げる。
「その薄汚い手を離しな! あたしの娘にかすり傷ひとつでもつけたら、ただじゃおかないよ!」
「おやおや、たいそうな剣幕ですね……そんなに興奮したら、心臓によくないですよ。あなたの心臓は限界が近いんですからね、蓮田さん」
人間らしい感情を覗かせないまま、吉岡医師はせせら笑った。
「これもすべて、あなたたちのせいです。あなたたちが余計な真似をしたから、こんな騒がしい結末になってしまったんですよ」
「どうして……?」と、静夫が低い声音でつぶやいた。
「どうして吉岡先生が、こんなことをするの……? 父さんを殺したって、どういうこと……?」
「ごめんね、静夫くん。孝信さんを殺すつもりなんて、これっぽっちもなかったんだよ。でも、孝信さんのほうが襲いかかってきたから、他にどうしようもなかったんだ」
「こいつはいきなり、由梨枝さんとの関係を暴露したんだよ! それで孝信さんが、逆上しちゃったの!」
涙声で、葉月がそのように叫んだ。
「私はおかしなことにならないように、孝信さんと普通の会話をしていたのに! こいつはずっと、母さんのことを気にしてて……」
「でも、僕の懸念は的中しただろう? 静夫くんは、泣いてしまっているじゃないか。……君のお母さんは、ひどい人だね」
そんな言葉を述べたてながら、吉岡医師は不気味な顔で静夫に笑いかけた。
「本当にごめんね、静夫くん。こんな結末を迎えるはずじゃなかったんだけど……でも、すべては君のためなんだ」
「僕のため……? 僕のために、父さんを殺したっていうの? 兄さんだって、そんなに苦しんでるじゃないか」
静夫は、ゆらりと立ち上がった。
カチカチと硬質の音をたてながら、その手のカッターナイフの刃がのばされていく。
「とにかく、千夏ちゃんを離してよ……千夏ちゃんにひどい真似をしたら、吉岡先生を絶対に許さないよ……?」
「でもね、この子は危険だよ。この子は、洞察力が鋭すぎるんだ。だから……きっと、もう僕たちの秘密に気づいてしまっているんだよ」
吉岡医師の言葉に、静夫は無表情のまま立ちすくんだ。
その尻を叩くために、美沙子は叫んでみせる。
「こいつはね、由梨枝さんの日記帳を隠し持ってたんだよ! それを使って、孝信さんに隆介くんを殺させようと目論んでたんだ! でも、孝信さんはまだその日記帳を読んでなかったから、由梨枝さんとの不倫関係を暴露したこいつに襲いかかったってわけだね!」
光を失った二対の目が、同時に美沙子を見据えてきた。
美沙子は出刃包丁の柄から手を離し、その代わりにつかんだものを足もとに叩きつける。
「こいつが、その証拠だよ! こいつは孝信さんに読ませるために、この日記帳を仏間に放置した! でも、孝信さんより先にあたしらがこいつを見つけることになったってわけさ!」
「なるほど……それで孝信さんは、隆介くんじゃなく僕に怒りを向けてきたわけですか……日記帳を読んでいなかったのなら、それも当然の話ですね……まったく、迂闊な真似をしてしまいました」
吉岡医師の様子に、変わるところはない。
しかし静夫のほうは、底知れぬ深淵のような目を吉岡医師のほうに転じた。
「どうして……? どうして吉岡先生が、母さんの日記帳を持ってるの……? 母さんの寝室に日記帳はなかったって言ってたよね……?」
「うん、ごめん。本当は、あの夜の内に見つけていたんだよ。でも……あの日にこれを静夫くんに渡していたら、きっと処分してしまっていただろう? それよりも、もっと有意義な使い道があるんじゃないかと思ってさ」
美沙子にとって聞き覚えのある会話が反復される。
やはり同じ状況が訪れれば、同じ展開が生まれるのだ。
ならば今の静夫は、吉岡医師に対して深甚なる殺意を抱いているはずであった。
「どうしてそんなことをするの……? 僕は、吉岡先生のことを信じていたのに……けっきょく吉岡先生も、僕の気持ちなんてどうでもいいんだね。僕の人生を、好きに支配したいだけだったんだね」
「違うよ、静夫くん。僕は君のために――」
「違わない。やっぱり僕には、千夏ちゃんしかいないんだ」
静夫の顔にも、醜い笑い皺が刻まれた。
その手に握られたカッターナイフが、吉岡医師のほうに突きつけられる。
「いいからもう、僕の前から消え去ってよ。その前に、早く千夏ちゃんを解放してあげて」
「……ごめんね、静夫くん。それだけは、どうしてもできないんだ。この娘はきっと、君を不幸にする。こんな娘を、君のそばには残しておけないよ」
「うるさい! 千夏ちゃんを離せ!」
銀色の光がひらめいて、赤い鮮血が飛び散った。
静夫の振りかざしたカッターナイフが、吉岡医師の左腕を傷つけたのだ。
吉岡医師の手から解放された葉月は、その鮮血から逃げるように畳の上にへたりこむ。
静夫はさらに、吉岡医師へとカッターナイフを振りかざし――吉岡医師は、足もとの葉月へとメスを振りおろした。
「やめろ!」
美沙子は無我夢中で、我が子の上に覆いかぶさった。
その首筋に、熱い感触が走り抜ける。
何か温かいものが、どくどくと背中を濡らしていき――それと同時に、美沙子の意識は急速に薄らいでいった。
「母さん!」と、美沙子の腕の中で葉月が泣き声をあげている。
美沙子はそちらに笑いかけたつもりであったが、それが果たされたか確認するより早く、セピア色の奔流に意識を呑み込まれてしまったのだった。
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