塗炭の上でマイグレイン
Planet_Rana
★塗炭の上でマイグレイン
割れそうな頭を抑えつけて、四日目になる深夜作業を乗り越えた。
パソコンの光から目を逸らし、目薬をさす。
「はぁ――、つら」
ここ数日は特に、そんなことばかり口にしているように思う。息をすること自体が億劫で、人生に立ちはだかる障害物を排除する条件が遥か雲の上にあるようにさえ思う。
天空人はそこを悠々と超えて行き、私は目に目薬を落とす。睫毛が弾いた貴重な人工涙液は頬に落ち、不格好な涙擬きの痕をつくった。
一年がとてつもなく早く過ぎるようになってどれぐらいになるだろう。
一日が二十四時間であることを認識して、一週間がたった七回寝るだけですぎることを認識して、一週間が四、五回すぎたら一カ月が過ぎるのだと認識して。
暖かいなぁと身支度する頃には暑くなって。暑さに参る頃には涼しくなって。
過ごしやすくなって来た頃に寒くなって。適応した頃に暖かくなる。
四季が回れば一年だ。年一回の催し事を繰り返せば数年だ。
人生なんてあっという間。六十秒を六十回数えるだけで、私は今日も一時間を無駄にする。
「……やってられないわ、眠剤飲んで寝よ」
呟く言葉とは裏腹に、大して活用していないソーシャル・ネットワーキング・サービスを起動して、通知がないことを確認してはタイムラインをなぞる。更新の無い通知をなぞる。
鉄の板を指紋がなくなるほどなぞって、なぞって、暗転させた。
一年が過ぎるのは瞬きの間だ。
私は今三月を生きているが、このままあっという間に四月になって夏になることを知っている。夏が来たら蝉が鳴く間に冬になって年が明けて、三月がやって来る事を知っている。
春は別れと出会いの季節。少しの希望と巡り合う為に前へ踏み出す季節。
「……」
そんな季節は、前向きになりきれない私にとって苦手な季節でもある。
誰もかれもが身を焦がす夏が好きだ。誰もかれもが身を縮める冬が好きだ。
けれど過ごしやすさともの悲しさを伴なう春と秋は、あまり好きになれない。
多分、好きになれなくていい。流されるまま好きを擦り込まれるよりはましだと思う。
女の子に産まれたけど桃色が嫌いだ。スカートをはくことが苦痛だった。
着物は振袖より袴に憧れたし、長い髪はざんばらにしてしまいたかった。
個人に興味を持てない自分が苦手だ。個人を愛せない自分が不思議だ。
化粧もパンプスも投げ捨てて、けれどそれらを愛せる人々を嫌いにはなれない。
年に一度ある行事を数えることができるようになってから、あと何回この日を迎えられるのだろうと思うようになった。たった百二十回程度年を重ねただけで耐久年数を突破してしまうこの身体で、人並みに長生きすることの意味を考えることが増えてしまった。
考えることが好きなんだね、と。言われたこともある。
好きで考えているばかりではない。思考の多くは楽しい事柄ではなく、中途半端でにわかな世情への憂いと最悪の展開に対する危機感ばかりだった。
肉は緊張するし睡眠はとれないし、勿論作業もはかどらない。
考えるだけでは何も変えられないと知っている。無言で悩み、足踏みする間にも流行は入れ代わり立ち代わり、私の目に入らないところで何かが変わり続けている。
関わることに疲れてしまった。関わらないことに慣れてしまった。
人間として最低だろうか。間違っても聖人になる予定はないけれど、手放しにいいひとでは、ないのかもしれない。私はきっと、人並みにわるいのだ。
めでたいといわれる誕生日を、あと何回喜びと共に受け入れられるだろう。長く生きることは嬉しいことだろうか。つらいことだろうか。まだ若い私にはよく分からない。分からないといいつつも考えることを辞められない。
緊張の糸は「ぴん」と張ったまま。
曰く、長生きすることは昔から大層祝われてきたらしい。身の回りでそうそう長生きするような親戚や知り合いがいないから実感が沸かないというのが正直なところだが、還暦に始まり古希に喜寿に傘寿、よく知られているのが米寿だろうか。
八十八という数字を、日本人は主食の米と関連づけて覚えるのだ。
八の一つがひっくり返る時点で合体漢字じゃあないのか。と思ったりもするけれど、ひっくり返すぐらいの洒落は捻りですらないのがこの国の文化だろう。
米寿、米寿。米に寿。
八十八回、一年を乗り越えることを繰り返した後に辿り着く誉れ。
私は心身健康なままに辿り着けるだろうか。性根を歪ませていないだろうか。
今だって、考えることを辞めようとしていないだろうか。
「……」
痛む頭を抑えつけて、それでも私はパソコンの前に居る。
きっと長生きができなくても。この一日を噛みしめることに何か意味があると信じる。
時計の針は、今日も六十秒で一周する。
塗炭の上でマイグレイン Planet_Rana @Planet_Rana
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます