脆い籠

のじか

一話完結

左手の真新しい指輪はまだ彼女のどこにも馴染んでいなくて、

この部屋でとても奇妙な物のように見えた。


ホテルを選ぶ時、僕は出来るだけ眺めの良い部屋を探すようにしている。

出張の延長線上にあるような、カーテンの向こうにビルの壁しか見えない部屋はどうせなら避けたい。 


「見て、船」


カップを口に運びながら外の景色を指さし、彼女は僕を見て笑いかける。

一人掛けのソファに、シンプルなグレーのセーターだけを身に着け、露出している両足を抱えるように収めて腰かけている。

窓からの光で、その肌が眩しい程に輝いて見えた。


「本当だ」


僕はそう返事をしてから、ベッド横に置いていたメガネを手に取り、かけ直す。


大型の旅客船がゆっくりと東京湾を進んでいるのが分かる。

さほど興味がある訳ではない。

だが彼女がそんな風に外の景色を楽しんでいるのは、昨夜からの二人の時間に満足している証で、その事実が僕を幸せにしてくれる。


籠を編むように僕らの時間が重なっていく。

もし本当に編むのなら

内から外を隔てる様に、僕らは二人で中心に立って籠を編むだろう。


彼女の目の前にあるテーブルには、紅茶と共に頼んだサンドウィッチが並んでいた。既に一つは食べたらしい。

昨夜食べた物を思い出し、どことなくまだ腹に重さを感じている身としては、彼女の食欲にはいつも感心するし侘しくもある。


テーブルに近づき、僕のために用意されたカップを手に取ると、彼女の横に立ち、同じように窓を眺めた。


まだ夢の中にいるようにとろとろと、そしてとても静かに時間が過ぎている。

心地いい静けさだ。


同じ空間の中、同じ景色を眺めながら、同じ紅茶を飲むこの静かな瞬間を、きっと僕も彼女もゆっくりと味わっている。

それが何にも代え難いものだと分かっているから。


彼女がふと自身の鎖骨辺りに手をやる。

その服の下にある、昨夜出来た細長い痕を確かめるように、それがまるで大切な宝物のように、指でなぞっているのだ。

次に僕と会う時まで、幾度となくそうするのだろう。


彼女はきっと気づいていない。

その仕草をする時に漏れる浅い吐息が、深くなる黒い瞳が、強烈に僕の自尊心を高めてくれることに。

次に会うまで僕も幾度となく想像するだろう、彼女のこの姿を。



いつまでも見飽きない光景なのに、何故だかこのような瞬間はいつも唐突に遮られてしまうもので、今日も例外では無かった。


彼女のスマートフォンが、テーブルの上で無礼にも妙に大きな唸り声を上げながら震えだしたのだ。そしてその音と共に受信された情報は、きっとつまらない事だ。


その音にぴくりと肩をゆらし、彼女はカップをソーサーへ置くと、代わりにスマートフォンを手に取って見やる。

深くソファの背もたれに沈みながら画面を見つめる彼女の瞳からは、先程までの潤みが消えてしまった。


時折悩みながらもリズミカルに画面をタップしている間、彼女の視界から僕は消えているだろう。

僕は紅茶を口に含む。華やかな香りに似合わない渋みが後から広がってくる。


タップ音が数秒感覚で続いた後、彼女はスマートフォンを静かに元の位置に戻したが、眉間に浅くしわを寄せ、意識はまだこの部屋の外にあるようだった。


 「チェックアウトって何時まで?」


 とても事務的な言い方だった。


 「レイトチェックアウトにしているから12時までだよ」


 僕も出来るだけ事務的に返すよう心がけた。


そう、と呟いて彼女はカップに手を伸ばす。まるで卵でも温めているかのように、そっと両手でカップを包み込んで遠くを見つめている。


 そのままそれを口元に運ぶ。


 僕は嫌な予感がして止めようと動いたが、もう遅かった。


「あっ」


カップを傾けるタイミングが僅かに早かったのか、紅茶がこぼれて彼女のセーターにかかってしまう。ごめんなさい、と彼女は自分の不甲斐なさを詫びた。


僕は急いで自分と彼女のカップをテーブルに戻すと、傍にあったティッシュケースから数枚ティッシュを取り出して彼女に渡した。


 ありがとう、と呟いて彼女はようやくまた僕を見てくれた。


 しかしすぐに逸らされてしまう。


「汚い」


ティッシュでセーターを拭きながら、彼女が噛み締めるようにそう呟く。

顰めた眉と歪んだ口元には、暗い影が落ちた。染みはじわじわと広がっていく。


その言葉が、服だけに込められたものではない事が僕には分かった。


籠が解れていくのが見えた。


この部屋の外にある物を、彼女にこれ以上思い出させたくなくて、僕はそのむき出しの足に手を伸ばす。

これまで幾度となくそうしてきたように。


僕の日焼けした肌と、彼女の白い肌が重なると明暗差が大きくて毎度のことながら笑ってしまう。


足から伝わる感触を受けて、彼女は口を堅く結び、ともすれば睨みつけているように鋭くなった瞳を、今度は服の染みにでは無く僕に向けてくれる。


顔の作りに似合わないその表情も、もう見慣れているけれど。


置いた手をわざと出来るだけゆっくり彼女のふくらはぎの上で滑らせる。

彼女の肌を、その下にある骨を、なぞる様に。


そうすると、すぐに彼女の表情はより複雑なものになっていくのだ。

僕を非難するようでいて、もっと深いところからこみ上げてくる別の感情で瞳が艶やかに色めくのを止められないでいる。


まったく異なる肌質を持った肉体の摩擦は、

どうしてこんなにも心地よいのだろうね。


指先が太ももに達した頃、

僕はそのまま彼女の前に跪き、冷えた足の指に口づけする。


「気障、馬鹿みたい」


悪態をつくその声はかすかに上ずっていた。

大きく胸が上下し、深く、ため息にも似た息づかい。


彼女から出る全てを一つも見逃さないよう、僕は注意深く観察する。

そうすることで、彼女自身も気づいていない欲求が見えてくるのだ。


そしてそれを拾い上げる時、もう彼女も僕も、他の事は何も考えずに、

嘘偽りない快楽にまた沈み込んでいくことが出来る。


都合よく全てを忘れて、どこまでも浅ましい僕らは

二人仲良く自らの意思で

この脆くて無様な籠を編んで覆い尽くして

もう少しだけ閉じ込められていよう。


そしてきっと最後は籠もろともゴミになる。

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脆い籠 のじか @Nojikah

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