薄明から

名南奈美

薄明から


 夜が生まれるときと死にゆくときを薄明と呼ぶ。その儚さから薄命と同じ音を使われたのではないかと思いながら私は私の部屋のドアを閉める。お風呂も入ったし自分の食事も持ち込んであるからこのままこの部屋で今日を終わらせることができる。

 夫が帰ってくる音がする。おかえりなんて言わない。私は姿を見せない。姿を現してほしくないらしいから。これは私がそういう風に拗ねているという話ではなくて、夫が本当にそう要望したのだ。もっと嫌で本当の言葉を使うなら、命令をしたのだ。そして私はそれに従っている。

 きっと夫はいま私の作った料理を食べている。私が私の部屋で食べているこれと同じものを。お肉と野菜と汁と炭水化物を食べて水を飲んでいる。お酒も飲んでいるだろうか。どうだっていいことだ。確認なんてできない。夫は私を視認しないことで無視している。朝も昼も夜も私の作ったものを食べながら、どうして私を無視できるのかよくわからないけれど、私の知らない処理が働いているんだろう。

 私は今日も早く眠り、夜のなかで起きて、夜が明ける前に夫の朝食と会社で食べるお弁当を用意するのだろう。済んだら自分の朝食を持って部屋に引っ込んで食べて寝る。起きたらひたすらに家のことをして、自分のこともして、お風呂も夕食も用意してからまたいまのように部屋にこもる。夜になる前、夫が帰ってくる前に。

 食材とかは夫が買ってきて冷蔵庫に入れる。他にも電球とか家にあるものが切れたら夫が買う。ナプキンだって買ってくる。ゴミ出しも夫が出勤時に済ます。色んな支払いも夫が全部やっている。だから私は洗濯ものを干して取り込むまでの間しか外を見る必要がないし、外に出る権利もない。

 私はずっとこの家にいる。いなくてはいけない。近所に私の存在を認知されると、間接的に夫も私の存在を意識させられるかもしれないから。そして夫が家にいるとき、私は夫の目に入らないよう部屋にいないといけない。もし私が病気や大ケガをしたら色々と面倒だろうから、手洗いうがいは欠かせないし走ったりもしない。運動不足な状態だが、そんなこと夫の知ったことじゃない。

 夫は私のことが大嫌いなのだ。だから顔も見たくないし存在感を出してほしくないし、そのくせ家政婦のような役割をさせることに躊躇いがない。

 そんなに嫌いなら離婚すればいいと思う。実際、この構造を守るために夫は同じ時間に起き同じ時間に帰ってくるよう徹底しているのだから、そんなの大変に決まっているのだ。でもしないのは自分がバツイチになるのが、離婚歴というものを持つのが嫌でしょうがないからだろう。

 夫は失敗を認めることが嫌いだ。それが努力への強いモチベーションになっているから、付き合っているときはすごい人だって思っていたけれど。でも、謝らないし、自分に非があるかもしれないなら誰かに非を押し付けるし、客観的に汚点となりそうな経験を病的に避ける人だった。夫が私を嫌うようになった理由にもそういうところが関わっている。

 結婚して、子作りを初めて、全然できないまま四年くらい経って、私が不妊症なんじゃないかってことで検査してもらった。でもそうした事実は認められなかった。三人の医者が同じ診断をした。じゃあたまたま恵まれなかったのかと思ってさらに二年くらい妊活をして、できなくて、なら夫の精子に何かがあるんじゃないかと考えた。実際に夫にその可能性を言って、診察してもらったほうがいいんじゃないのって勧めた。

 怒鳴られた。六年も妊活をして意味がなかったのは夫のせいだと、夫が男性として生殖的に問題があるのだと、自覚していないだけで病人なのだという可能性を提示したからだろう。夫は頑なに病院に行こうとしなかった。ついに殴られた私は珍しく泣いてしまった。すると夫は言った。

 泣けば俺が悪いことになると思うなよ。

 そういう人なんだ、と私はやっと理解した。それから一年かけて私はどんどん夫から嫌われて、そうして今日にやってきた。

 ドメスティック・バイオレンスだと思う。でも通報なんてしない。ネットにも書かない。今さら離婚したら私だって困る。大学を中退して専業主婦になったから、ろくな職歴も資格もないし、筋肉もないし若さもない。両親も生きていない。全然喋らないから声も小さくなった。いま部屋のなかで食べているご飯も、布団や服を洗う水道代や洗剤も、なくなった実家より広いマンションも、夫の稼ぎだ。

 姿さえ現さなければ夫はこちらを害さない。離婚してもしなくても孤独だから、私は衣食住に不自由しないほうを選ぶ。敢えて暴力を振るわせて証拠を残して通報して……なんて手段をとらないことを選ぶ。

 ただ黙って、夫が自室に入った音を聞いてから足音を立てずにキッチンに入って、自分の食器を洗って、お弁当の仕込みをして、電気を消した夜の闇に融けるように眠り、暗いうちに這い出るように起きて、夫のお弁当を作って朝食を作ってラップをかけて、自分の朝食を持って部屋に戻って食べて寝て、昼頃に起きて洗濯をして掃除をしてお風呂と夕食を用意して、入浴を済ませて夕食を持って部屋に戻って、ただ黙って、夫が自室に入る音を待てばいい。

 すべてを、音と薄明を頼りにこなせばいい。

 それだけで誰の機嫌も損ねず生きていける。

 不幸に限りなく近い、生きられるだけという微かな幸せ。薄明のように、きっとどちらかに振れる寸前に私はいる。朝と夜、幸せと不幸、どちらかの寸前にいる。でも薄明は、夜が生まれるときと死にゆくときは、老人が赤子に似ているようにとても近似しているから、本当はどちらの寸前なのか私にはわからない。

 だから踏み出さないし、変わろうなんて思わない。ただ薄明のなかにありながら、できれば薄命でありますようにと願う。可能性はあると思う。だって昔、よく、美人って言ってもらえていたから。


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