遠い遠いひかり

本編

 父さんが洗ってくれたらしいシーツの上で深呼吸をすると、あのエプロンを敷いているようだった。陽だまりにある花畑の匂いがする、母さんのひまわり色のエプロン。それに触れられなくなってもう十年も経つのに、まだはっきりと思いだせる。

 目の前には、常夜灯がぽっかりと浮かぶ。暗い天井とその灯りは、つやつやの黄身が乗っかった"ひかりの黒カレー"に似ている。暗い色は嫌いだけれど、あれは何回食べてもおいしかった。

 ぬくく頼りない光。それに照らされて、輪郭の曖昧なカレンダーがある。"面会"の字の上を、斜線が跨っているはずだ。シートベルトを締めた俺みたいに。

 この日、母さんとの四十回目の面会が終わった。

 春の空のような軽自動車はころりころりと姿を現した。そのかろやかな風貌に反して、中は重く澱んでいるように感じた。溶けたチーズみたいに続いていた関係も終わり、晴れ晴れとする予定だったのに。家を出る前に父さんと言い合いになってしまったせいだ。

 皿を洗いながら、俺はどれだけこの日を待ち侘びたか父さんに熱く語った。いつもあのひとの話をすると、父さんは黙ってしまった。それなのに「あんな女といつまでも会ってたらクズがうつっちゃうよ」と言ったとき、聞いたこともないほどに低く、物々しい「なあ」を投げかけてきた。

「それ以上しゃべるな」

 いつも、こと母さんについての話をまったく聞いてくれないひとだった。父さんも、結局はあの女に魅了されたひとりの男に過ぎなくて、だから俺は産まれてしまったのだと何度も感じた。

 俺だけは絶対に忘れない。十年前、そう決めていた。まどろみが街を包んだ夜更け。迎えに来た男と出ていく母さんの背中のことを。待って、どうして。そう声を張っても、楽しそうに酔いながら振り向きもせずに行ってしまったことを。

 それほどひどい仕打ちを受けてなお、俺は3ヶ月に一度の面会を、律儀に欠かさなかった。父さんには認めてほしかった。

 ひかりの黒カレーはこれまで通りおいしかった。でも母さんが食べていたビーフクリームコロッケがどうにもおいしそうだった。それで、目を瞑れど眠れずにいる。

 車の中はなんの曲も流れずに、カーナビがぽんぽこ通知を鳴らすのみだった。だから黄信号が光ったとき、エンジンがうなりを上げるのもよく聞こえた。そんなに急ぐくらいなら初めから近い店にしておけばよかったのに、俺たちは毎回、片道40分もかけてキッチンひかりへ向かった。

 行きはにわか雨が車窓を切りつけるのをひたすら眺めた。ナビは40分と示していたけれど、俺の体内時計では3時間も経過していた。初めの頃は到着に1年ほど要した。年々、ひかりは少しずつだけ近くなっていたはずだ。

 まさか最初から最後まであの店になるとは誰が想像しただろう。予定をすり合わせる上で、父さんはつっこまなかったのか?

 あんなにも呼吸がしづらかったのに。母さんは本当に俺のことをわかる気がないのだと呆れた。一度くらい「これだけ遠いと道のりがあまりにもしんどいから、近いところにしようよ」と言ってあげていれば、何かが早い段階で変わっていたかもしれなかった。言ったところで変わらなかった気もした。だから言わなかった。

 閉じていく扉で見えなくなる、あの背中がずっと脳みそにこびりついていた。毛足の長い玄関マットが俺を絡めとって、動けなかった。底冷えする廊下で、手のひらが熱くてたまらなかった。あのときの、皮膚を撫ぜる暗闇の感触は、静寂にある俺をいつでも包みなおした。斜めに走っていく雨粒を目で追っているときも、母さんは運転席にいるのに、皮膚は暗闇を感じとった。宇宙空間に命綱もなくほっぽり出されていたみたいだ。

 最後なのだし、なぜキッチンひかりなのか聞いておこうか、どうしよう。答えるかもわからないことだしむだだろうしな。声を出す準備をしているうちに、体がボヨンと揺れた。駐車場に乗り入れていた。

 母さんは「タバコ吸っていくから、先入っといて」と軒下に体を滑り込ませた。毎度のことだったから、迷いもなくドアを押した。

 中は暖房が効いていて、小雨のつめたさを脱がすように振り払った。入口から二番目に近い、窓際にあるギンガムチェックのクロスが敷かれたテーブル。見なくてもスケッチできるくらいにはおぼえている。その真横、レースカーテンを覗くと、ちょうど母さんが喫煙しているのが見えるようになっていた。

 通路側の席が好きだった、いつでも逃げ出せそうで。それか逃げ出す母をいつでも捕まえられそうで。

 母さんは窓側の席が好きだった。俺とは違うひとだったからなのに、あるとき以来母さんも通路側に座るようになった。たぶん再婚相手と別れてからだ。見捨てられて今更擦り寄ったって遅いのに。そう思って窓際に座って待っていたら、やはり母さんは対面に座った。しばらく交互に座って様子を伺っていたが、かならず俺の向かいに来るようになったので、それ以来、位置はあんまり考えなくなった。

 卓上にはいつもラミネートされた手書きのメニューがあった。今回のおすすめ洋食セットは"ひかりのビーフクリームコロッケ"。初めて目にする名称を見つめてその姿を想像しているうちに、母さんが入ってきた。向かいの席につるりと座って「決めた? またカレー?」とメニューを覗き込んだ。

 うなずくと、母さんは注文をあっさりと済ませた。迷わずビーフクリームコロッケにしていた。きっとかに以外のクリームコロッケがこの世に存在することに心底驚いたのだろう。俺だってそうなのに、またカレーにしてしまった。

 沈黙がテーブルの上で寝そべるので、テーブルクロスのチェックの交差点を数えていた。めずらしく母さんもスマホを見ることなく視線がさまよっていて、つい猫背になって熱中していることにした。ほどなくして料理が運ばれた。

 ひかりの黒カレーは謎に包まれている。常々のっぺりと光を吸収しているのに、口に入れると案外クセのない味をしており、炒められた玉ねぎのような芳しい甘みを感じる。その上に君臨する黄身を絡めると途端に、旨みが舌に絡むようになる。その変化がとにかく衝撃的でスプーンを持つ手が止まらなくなる危険なカレー。

 見た目も愛らしい。ルーの真ん中に黄身、その周りを生クリームが点や円で彩っていて、さながら銀河系だ。

 長年付き合った仲なだけあって、さすがに名実ともに好物となった。それでも母さんのフォークに捕らえられたビーフクリームコロッケは俺の目を釘付けにした。ビーフのクリームのコロッケ。ビーフとクリームとコロッケが合わさって、おいしくないことはありえない。

 きっと訪れるであろう口中のビッグバンに想いを馳せながらスプーンを動かすと、一瞬だけなにが口に入っているのかわからなくなった。それくらい"ひかりのビーフクリームコロッケ"は俺を夢中にさせた。食べられないとわかると途端に欲しくなるしこの上なくおいしそうに見える。人間は欲深い。それなのに俺は四十回も来ていて黒カレーしか食べたことがないままだった。俺はひかりのことをカレーしか知らない。

 母さんが食べ終わるのを確認して立ち上がろうとすると「待って、これあげる」と呼び止められた。ああ、あれか。毎年の恒例行事に身構えていると、やはり母さんは小さな箱を差し出した。

「誕生日おめでとう」

「ありがとう」

 受け取って、かわいげもなくあっさり開くと長財布が包まれていた。それは夏の日差しのような色あいで、革の質感によっておとなびた雰囲気を出していたが、成人する息子に贈るにはかわいすぎるような違和感が拭えなかった。

「あ、ありがとう」

 驚きのあまり礼を言い直した。他にもなにかリアクションを探したかったけれど、店内が埋まりつつあったのでとりあえず出ることにした。

 その後は車に戻って、また長い長い道のりを走った。雨脚が強まっており、行きよりものんびりと。

 どちらかいわずとも母さんに似合う色なのに、どうして俺に。尋ねるタイミングを伺いながら箱をさすっていると、唐突に「あのエプロン好きだったよね」と言われた。車がコトンと跳ねた。

 ひまわり色のあれのことを、母さんはおぼえていた。無防備に寝こけていたのを撫でられたような衝撃だった。十年以上も前なのに。

 信号は青が続いて、速度が遅いながらスムーズに帰路を進んでいた。手のひらが熱くて、むしょうに落ち着かなくなった。だから「コロッケおいしかった?」と尋ねてみた。母さんはうなずいた。

「今度食べてみなよ」

 そうは言ってもわざわざひとりで行くような距離でもないしな。うなり声みたいな返事をした。そんな俺のことを見透かせるくらい器用なわけでもないだろうに、母さんは「パパにまた空いてる日、伝えといてね」と言った。また車が跳ねた。

 この人はまだ俺に会おうとしていた。俺たちは縁がちぎれかけた者同士の責務を果たしているだけの関係のはずだったのに。

 手のひらが湿ってきて「わかった」と膝で拭った。

 それで、最後だったはずの面会はまた3ヶ月後に行われることになった。


 洗い立てのシーツの上に寝そべって、枕元をまさぐる。ひまわり色の財布がそこにある。

 父さんに散々言っておいて、ちゃっかりこんなものをもらっている。ちゃっかりこんなものをくれる母さんのことが、恐ろしい。再び背を向けられることだってあるだろうし、あのひとに心を許すのは相変わらずいやだ。

 でもまだ、俺はあのふたりの子どもなのだと、それだけは思ってもいいような気がして、寝返りを打つ。

 また夜は訪れていて、俺はこの空間にひとりなのに、鼻腔をくすぐる陽だまりの匂いと目の前にあるひまわり色に、ぐつぐつと目の奥が疼いている。

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