カレーの恩返し

@Eiko_H

出会いから代理まで

 目の前がかすむ・・・。


 授業の終わりのチャイムが遠く聞こえて、立とうとしたのに力が入らない。思わず座り込んだ後ろから声がした。

「おい、志智、大丈夫か?」

 残ったエネルギーをなんとか使って振り向く。えーと、誰だったか。っていうか、入学してまだ一週間で、呼び捨てされるほど仲良くなった奴なんていたかな・・・?

「ごめん、名前、」

忘れた、と言いたかったが声が出ない。そういえば高校の時の応援で、腹から声を出せとか言われたよな。腹が空っぽだと声って出ないんだ。

「多田羅だよ、隣人。オマエ引っ越ししたとき挨拶に来たじゃん。お世話になりますってめんつゆ持ってきてさあ。」

「りんじん・・・。りんごでもにんじんでもないのか・・・。」

「おい、しっかりしろ。もしかしてオマエ、腹減ってんの?」

 腹減ってる、と言おうとして突然気づいた。隣の「多田羅」さんは、そういえば先輩だ。あわてて敬語に切り替える。

「はい・・・。仕送りが底をついてしまって、3日前から何も・・・。」

 そうなのだ。大学に入って夢の一人暮らしと思ったのもつかの間、気づけば親からもらった現金があっという間に消え、財布の中には150円しかない。


 多田羅先輩は呆然と僕を見下ろしていたが、思い出したように

「あのさ、オマエ、今日の午後の授業取ってる?」

と言った。僕はのろのろとノートを取り出して確認する。

「はい、4限に作物学取ってます。」

「わかった、4限までには学校戻れるようにしてやるから、とりあえずウチ来い。昼飯食わしてやる。」

「神様・・・。」

「多田羅様と呼べ。」

「多田羅様の言うとおりに致します。」

「よしわかった。事務室行ってタマネギ取ってこい。」


 あとからわかったのだけど、僕が入学した大学、いざなぎ農業大学では、実習で育てた野菜が事務室の前に置いてあるのだ。この大学があるいざなぎ島はタマネギが有名なところで、僕もこのあと実習でタマネギの栽培をすることになる。

「あと、そうだな、オマエ、大学の畑の場所分かるか? うーん、まだわからないか。それじゃ自転車でゆっくり帰ってろ。オレちょっと畑寄ってから車で帰るわ。」


 車あるなら一緒に乗せていってとお願いしたいけど、ここで機嫌を損ねたら昼飯がなくなってしまう。ゆっくり自転車に乗ろうとしなくてもエネルギー不足でゆっくりしか進まない。結果、家に着いたら先輩とほぼ同時だった。

「ちらかってるけど、気にせずその辺座ってろ。」

 先輩はビニール袋の中身をシンクにぶちまけてざぶざぶ洗いながら言う。手伝いましょうかと喉までは言葉が出てくるけどとてもじゃないけどもうエネルギーはゼロ。座布団の上にへたり込み、先輩が肩をゆすって起こすまでどうやら寝てしまっていたらしい。

「先輩に飯作らせて寝てるとは、オマエ、見た目より図太いな。」

「す、すみません。実はこの数日何も食べてない上に、眠れなくて・・・。」

 そう、夢の一人暮らしというのは実は不安なものだということを知らなかった。一人というだけでまず心細い。夜中の物音でもビクッとしてしまう。大学では何の授業を取ってもいいというけどつまりは何を取ったらいいのかもわからない。さらには親から最初の一か月はこれで頑張りなさい、と大金(とそのときは思った)をもらったのにあっという間に使い果たしてしまう始末。こんなんで大丈夫なのかと不安ばかりなのだ。


「ま、いいや。とりあえず食え。」

「カレー・・・、ですよね?」

「どう見たってカレーだろ。」

「ジャガイモもニンジンも入ってないから、ちょっとイメージと違って。」

「その代わりタマネギは山のように入ってるぞ。」


 三日ぶりの食事を全身が歓迎している。舌も、胃も、腸も、次の機会がないかもしれないと思ってるのか。タマネギ以外には・・・。

「タケノコ!?」

「そうだ。タケノコもどっさり入ってる。」

「タケノコカレーなんて初めてです。案外カレーと合うんですね。」

「タケノコのカレー粉炒めも悪くないぞ。タケノコたくさんあったら今度やってみろよ。」

「タケノコなんて買わないですよ。」

「オレだって買わないよ。」

「え?」

「耕作放棄地は知ってるよな? 放置竹林は? おっ、さすが農大生、その辺は知ってるか。この辺も放置竹林多いんだよ。八木先生がそういう研究してるから、竹林調査のとき持ち主に断ってみんなでタケノコ狩りするんだ。そんなに食えないってわかってるのに、やり始めるとついたくさん掘っちゃうからさ。まだまだ冷蔵庫に残ってるよ。」


 タケノコがこんなにうまいとは。しかもカレーに合うとは。スプーンが止まらないじゃないか。

「それに菜の花もたくさん入ってますよね。」

「菜の花っつーたら菜の花だけどな。これはチンゲンサイの花だ。農学部っぽく言うと花蕾だな。」

「からい?」

「つぼみってことだよ。咲いちゃったら硬いから。」

「チンゲンサイに花なんてあるんですね。」

「そりゃあるよ。ああ、普通にスーパーで売ってるやつにはないよ。収穫しそこねたチンゲンサイが残ってなければ取れないからな。」

「収穫しそこねたチンゲンサイなんて、どこに・・・。」

 そういえば、先輩が大学の畑に寄るって言ってたんだ。そうか。

「わかったみたいだな。実習で育てたチンゲンサイだよ。」

「じゃ、この中でお金かかってるのは、この豚肉だけってことですか!」

 スプーンですくいあげた肉を見るまでもなく、先輩は言った。

「そりゃ、豚肉じゃなくて、イノシシだ。」

「いのししーーーーー!!」

「どういう方向で驚いてんのか知らんが、イノシシ肉はカレーに合うぞ。」

「そうじゃなくて、イノシシ肉なんてこの辺売ってるんですか。めっちゃ高そうじゃないですか。」

 先輩はニヤッと笑った。

「おい、いざなぎ農大生、耕作放棄地は知ってたよな。じゃ、獣害はわかるか?」

「じゅーがい?」

「知らんらしいな。農作物が収穫前にイノシシとかシカとかに食われることだ。」

「困りますね。」

「困るんだよ。いざなぎ島も獣害がひどいからな。だから捕獲する。」

「えーと、つまり、つかまえるわけですね。」

「そう。そこから食肉に活用する。」

「あのー、簡単そうに言いますけど、先輩が捕まえたわけじゃないですよね?」

「サークル案内、聞かなかったか? 狩猟部ってあっただろ? あれだよ。学生で狩猟して、大学で解体する。」

「狩猟部・・・。そういえば聞いた気がします。狩猟免許も取るとか、全国でも珍しいサークルだとか。」

「それだよ。そこからイノシシ肉をもらえるってわけ。」

 先輩は綺麗にお皿の中身を平らげて満足そうに言った。

「タマネギ、タケノコ、菜の花、イノシシ。全部この辺でタダで手に入れたものだ。ちなみに米は大学の実習で採ったもの。つまりは島の恵みだな。」

「その恵みを僕は恵んでもらったってことですね。『島のお恵みカレー』ってことですか。」

「ま、そういうことだな。じゃここで本題だ。」


 先輩が口調を変えたので、僕もスプーンを置いて座りなおした。カレーのおかげか、体に力が入ってきた気がする。

「4限の作物学にはこれを持っていってほしい。」

 先輩が小さいカードを机の上にスッと置いた。

「先輩、これ、学生証じゃないですか。」

「それを授業前に読み取り機にかざしてもらう。」

「は?それだと出席になっちゃいますよ?」

「いいんだ。それだけやってくれれば。」

 先輩の真顔を見てひらめいた。そうか、この先輩、授業に出ないで僕に出席させるつもりなのか。

「だれどそれだと僕が欠席になるじゃないですか。」

「オマエ、頭固いな。オマエの分もやるんだよ。」

「一人で二人分やったらバレるじゃないですか。」

「先生が来る前にやれ。学生には見られても構わん。」

「それ見てた学生が先生に言いつけたりしたら・・・。」

「そんなことをする大学生がいたら笑ってやる。」

「そりゃカレーのお礼はしたいですよ。だけど・・・。」

「夜飯も食わしてやる。」


「やります。多田羅様。」

 そして僕の大学生活は本当に始まった。

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