おやすみ

くまみつ

おやすみ

やあ。寒くはないかい?


こんな布団しかなくて悪いね。この家にはあまりお客が来ないものだから。

その代わりと言ってはなんだけど枕は立派なのがいくつもある。ほら。ここにも。

あっちにもまだまだあるよ。


ふふふ。おかしいかい?

僕はこっちの枕を使うから、きみはそこの、ほら、それを使えばいい。

高級なホテルの枕みたいにふかふかだよ。ふふふ。そうか、枕にはあまりこだわりはないんだね。


さあ、今日は疲れた。一日歩き回ったから足がくたくただ。

あの山寺から滝口までの道がずいぶんこたえたね。さすがに昔の修験者たちの禅定道ぜんじょうどうとか言うだけのことはある。あれだけひどい道を歩かされたら修験者たちだって頭がからっぽになってしまうってもんだよ。


大丈夫かな?

布団から足がはみ出したりしてないかい?

きみはずいぶん背が高いからね。うん。そうか。寒かったら言ってくれ。


きみの場合は荷物も重かったろう。途中からはぼくの荷物まで運ばせてしまって本当に助かった。悪かったね。ひとりだったら大変なことになるところだった。


おや。眠れそうにないかい?

ああ。そうだね。なにしろこの家はずいぶん古い建物だからね。

ちょうど150年ほど前、鳥羽伏見の戦いがあった頃に建てられた商家の屋敷という話だよ。呉服の問屋として財を成した、と聞かされているんだけどね。詳しいことは知らないけれど、どうやら金貸しなんかもしていたらしい。もしかしたらあくどいことなんかもしていたのかもしれないな。あまり人には言えないような。歴史には残したくないようなね。

ほら、柱や梁なんかただの商家にしては立派すぎる。そうは思わないかい?


とにかく古い家なものだから、風通しはよくてね。現代いま風のサッシなんかもないから。夏は涼しくて過ごしやすいよ。意外と虫なんかも少ない。



でもね、虫がいない代わりにと言ったら変だけど、おかしなのが居ついちゃってるみたいなんだ。


これは話しておかなくちゃいけないかな。

実はね。驚かないでほしいんだけどこの家にはずっと昔からが住み着いてしまっている。ずっと昔から。聞いたところによるとこの家ができた当時から、もう150年も前から住み着いているらしいんだ。

いわゆる僕たちと同じ人間ではない。僕も幽霊だとか死後の世界だとかそういうものは信じないたちなんだけどね。これだけは信じるしかない。本当にこの家に住んでいるからね。


”あやかし”と言うのか。

妖怪ようかい物の怪もののけ。いろんな呼び方があるけれど。

まあ、おばけだね。


なにをされるというわけでもない。ただ、そいつは毎晩、ぼくがぐっすり眠った頃を見計らって部屋にやってきて、ほら。これさ。この枕を裏返していくんだ。

きみも聞いたことあるかな?ぼくの家に住んでいるおばけは「枕返しまくらがえし」と呼ばれているやつだよ。枕返し。名前を聞いたことぐらいはあるだろう?


朝、目を覚ます。

ぼくは寝相は良い方だから布団が乱れてるなんてことはほとんどないんだけど、なにか違和感がある。落ち着かない感じがある。


なんだか変だ。そうして確かめてみたら、ほらこうやって枕がね。昨日こっち側を上にして寝たはずなのに反対側が上になってるのさ。こんな具合に。ほら、ここのところに模様があるだろ。こっちが上でこっちが下。


寝る時はたしかにこの模様の付いてる側を上に寝たはずなのに、起きた時には下になってる。毎朝だよ。寝るたびに、枕の裏と表が入れ替わっている。毎日。毎朝だ。


一回や二回なら偶然ってことも考えられる。でも毎日となるとね。確かにこの家には何かがいて、そいつは毎晩僕の枕を裏返している。


うん。そうだね。小さい頃はね。怖かった。


寝ている間に、何かが勝手に部屋に入ってきて僕の枕を触られているんだ。気味が悪い。

部屋を替えたこともあるよ。鍵をつけたこともある。でも駄目なんだ。

部屋を変えても鍵をつけても朝になるときっちり、僕の枕はひっくり返っているんだよ。


来る時間は決まってるわけじゃない。と思うよ。

夜更かしして2時や3時まで起きてる時なんかにうっかり鉢合わせるなんてことは今まで一度もなかった。もちろん徹夜して朝まで起きてる時なんかは出てこないしね。

夜中にトイレに行こうとしてばったり鉢合わせた、なんてこともこれまで一度もなかったよ。

僕がぐっすり寝てる時にしか出てこない。寝たふりをしてたって絶対に出てこない。


どんな姿かは知らないんだよ。なにしろ寝ている時にしか来ないからね。

きっと痩せたおじいちゃんみたいな妖怪なんじゃないかって想像はしてる。

枕返しのことはずいぶん調べたんだけどね、だいたいどんな本でもじいさんのような姿で描かれてあるよ。


シワシワの坊主頭で長いひげを生やして、粗末な着物をきて手足はひょろひょろ。

それが足音も立てずにひょいひょいと歩く。ひょいひょいの部分は僕の想像なんだけどね。粗末な古い着物をひらひらと揺らしながら。ひょいひょいと音もなく歩く。

そんな気がするんだ。


二人ともしっかり寝てさえいれば、ぼく以外の人間がいてもやつはきっと来ると思う。この部屋に人を泊めるのは初めてだから、もしかしたら来ないかもしれないけど。でも、そうだな。僕もきみもきっとこのあとぐっすり眠ってしまうだろうから。きっといつもどおりあいつはやって来るだろう。


それにしたってさ。枕だよ?

全然意味がわからない。たとえばそうだね、行燈あんどんの油を舐めにくる妖怪って言うならまだ話もわかる。油が好きな妖怪が行燈の油を舐めに来る。それは至極当然なことだ。

妖怪に肉体的欲求があるのかどうか僕は知らないけど、その行動は僕の理解の中にある。少なくとも想像のふところの中に収めることはできる。


でも枕をひっくり返す。人が寝ている枕を。上を下にして。気付かれないようにひっくり返してそれで帰っていく。毎晩毎晩、慎重に慎重に。寝ている僕を起こさないように枕を裏返して帰っていく。

なぜだ?僕には全然わからない。理解の外にある。


全然わからないんだけど、考えるほどにすごく怖くなってくる。

ある意味では人の魂を喰らう鬼なんかよりよっぽど怖い。目的も意味も、まるでわからないことを執拗に繰り返しているんだ。考えれば考えるほどね。存在が不気味なんだ。


ごめんごめん。怖がらせるつもりじゃなかったんだ。一応、知らせておかないといけないかと思ってね。

眠れそうかい?今日はずいぶん疲れたからね。足が棒のようさ。

あの山道はきつかった。僕の荷物もずいぶん重かったろ。ゆっくり眠れるといいね。


そうだ、あそこで光っている常夜灯、寝る時は消してもいいかな?

実は僕は部屋が真っ暗じゃないとうまく寝られなくてね。


ああ、うん。そうか。


そうだね。じゃああれはつけておくことにしよう。僕はこのだいだい色の明かりが苦手でね。真っ暗よりもこわい光ってものもあるんだ。この明かりだとすべての影が薄くてね。こうやって手を挙げてほら、そこに落ちる影を見てごらんよ。影なのに薄い灰色で、夢の中の景色けしきみたいに頼りない。まるで僕の存在自体が薄くなってしまったみたいな気になってしまってね。とても不安な気持ちになる。


いやいいんだ。今日はこれで寝よう。大丈夫だよ。気にしなくていい。


うん。誰にだってこわいものはあるものさ。きみにもあるだろう?

ぼくがこわいのはね、自分が闇に溶けてしまうこと。暗がりに吸い込まれてしまうこと。たとえばこうやって寝ている畳がね、ほら、いつか寝ている間に音もなくくるっとひっくり返って、地面の下の暗がりに引きずり込まれるんだ。

誰も気付かない。何事もなかったように、ぼくの存在だけが闇に吸い込まれて閉じ込められる。そこでは自分の肉体の存在も薄くなってね、身動きもできなくなって、それでもいつまでも消え去ることもできなくて。そんな暗闇の牢獄に捕らえられてしまうんだ。死ぬことも気が狂うこともできない、永遠の闇の牢獄だよ。

こわくてこわくてたまらないんだ。自分の両手を見ていると、時々ね。胃や腸を下から引っ張られてるみたいなどうしようもない恐怖に捕まってしまうんだ。こうやって、手を見ているとね。


ほら、まるで自分の手じゃないみたいだ。

見覚えのないシワが刻まれた、青白くて水っぽい。まったく知らない誰かの手だ。

じっと見ているとね、指紋が少しずつ渦を巻いて、表面を小さな小さな虫の触手のようなものがぎっしりと、右へ左へ揺れてぐるぐると回っているみたいに見える。

そうしてこの手は少しずつぼくから離れていって。ぼくの腕の長さよりも遠い所へどんどん離れていって。思念だけのぼくが裸で取り残されてしまう。


こんなことを考えるのは、ぼくが魂とかいうやつをずいぶん昔にどこかに置き忘れてきたからかもしれないな。

幼かった頃にね、家に帰るのが遅くなって夕闇の中あぜ道を走って転んだことがあった。なにかに躓きでもしたのか盛大に転んでしまってね。体が宙に浮いたところまでは覚えている。その瞬間のことはとても鮮明に覚えているんだ。でもそこからの記憶がない。怪我をしたとか泣いたとか。服が破れたとか。

ぼくは家にたどり着いた記憶がない。そういえば。ね。ぼくはもしかしたらまだ家に帰っていないのかもしれないな。


ああ。ごめん。少し、眠気がきたようだ。ぼんやりしてしまって。余計なことを話しているみたいだね。小さい時の記憶だから、断片しか覚えてないのは当たり前のことだね。

うん。そうだ。そうだった。


あいつの話をしていたんだったね。


もし、万が一やつが来た時に目が覚めてしまったとして、足音かなにかの気配で目を覚ましてしまって、それからもしも、きみのその枕にあいつが手を伸ばしてるその気配を感じたとしても。

きみは決して、目は開けない方が良い。


実際のところ妖怪がどんな顔してるかわからないけれど。

この橙色の小さい電灯の光でもきっと妖怪の顔ははっきり見えてしまうと思うから。


なにかの拍子にきみが目を開く。

何かの音を聴いたのか。

気配を感じたのか。

胸が重くなって息が苦しくなったのか。それともわるい夢でも見たのか。なにかの拍子にきみは真夜中にぱっちりと目を開いてしまう。

そこに、その目の前に。きみの目を見下ろすやつの目がある。ほんの十数センチ。瞳の虹彩の模様まではっきりと見えるぐらいの距離だ。


やつはなにも言わず、じっときみの眼をのぞき込む。ふたつの黒い目できみの眼をのぞき込む。

その黒い目は100年以上暗闇で生きてきたあやかしの目だ。


ぼくたちのなんでもない日常のすぐ裏側にね。狭くて暗い、暗くて寒い。魂の牢獄があるんだよ。


150年間毎日誰かの枕をひっくり返すなんてひどい呪いだ。

150年間、ずっと積み重ねてきたわけのわからない怒りや哀しみが感情のない瞳の中にとぐろを巻いて煮凝っている。

そんな暗い暗い虚無のよどみを。一度見てしまうとたぶんきみはそれを一生忘れることはできない。


それがたとえどんな害のない妖怪であったとしてもね。この夜の暗闇の中でそんなものを見てしまったらきっと、きみはこれからの人生でもう二度とうまく寝ることができなくなる。

そんな気がするんだ。


だからなにがあってもきみは。一度目を閉じたら朝が来るまで決して。目を開けてはいけない。わかったね?


ああ。少し、涼しくなったようだね。空気が少し動いている。

ずいぶんと静かな夜だな。こんな季節なのに虫も鳴きやしない。

過ぎた静寂というのは時に騒音よりもうるさい。頭の中がね。やかましくてまいる。

昔のことを、思い出してしまうんだよ。ずいぶん昔のことでも、まるで昨日のできごとのようにね。いつまでもいつまでもぼくの頭の中で騒ぐんだ。


どうかしたかい?

眠れないかな?


どうした?ぼくの顔に、なにかついてる?


ああ、そうか。なにか聞いたのかな。あれがしゃべったのかな。ずっと背負ってもらっていたからね。そうか。そうか。

仕方ないな。

そうか。


あれは独り言が多くてね。なにを聞かされたのかな。おもしろい話は聞けたかい?


全部忘れた方がいいよ。目を閉じて。

もう遅いから。もう遅いから。ね。

ゆっくりおやすみ。

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おやすみ くまみつ @sa129mo

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