二. 大坂城

 13年前。

 慶長十九年(1614年)。世に言う「方広ほうこう鐘銘しょうめい事件」が起こったことが発端だった。


 8月。4月に完成したばかりの京都、方広寺の鐘の梵鐘の銘文が「気に入らない」と幕府側が難癖をつけてきた。


 「国家安康 君臣豊楽」の文字が、徳川家康を呪詛し、豊臣家の繁栄を願ったものと「曲解」された。

 もちろん、家康にとっては、そんなものは「きっかけ」に過ぎず、早く豊臣家を滅ぼしたかっただけだろう。


 10月。豊臣秀頼は、全国に檄文を飛ばし、大名や牢人を参集して、戦の準備を始める。


 そこに、関ヶ原以来、紀州(紀伊国、現在の和歌山県)九度山くどやま配流はいるされ、蟄居ちっきょしていた、真田信繁が駆けつけて、加わる。

 彼は家族ごと連れてきていた。正室の竹林院をはじめ、多くの子供たちも同様であり、その中に阿梅も、まだ3歳の大八もいた。

 一方、阿梅にとっては、腹違いの弟ではあるが、信繁の嫡男の大助幸昌ゆきまさもいた。この時、彼は14歳の少年だった。


 そして、阿梅はこの子供たちの中で最も「多感な」少女時代を迎えていた。この時、16歳。


 だが、彼女が見た「大坂城」は最初から、凄まじかった。


 何がというと、「荒くれ者」の巣窟状態に思えたからだ。

 大坂には、秀頼の求めに応じて、確かに全国から兵士が集まってきた。その数は10万人とも言われていた。


 だが、その大半は、「禄」をもらっていない牢人か、一攫千金を夢見てきた野盗崩れか、ゴロツキか、罪人のような風貌の男たちばかり。


 さすがに阿梅は驚いていたが、父の信繁もいるから、守ってはくれるだろう、と思っていた。


 だが、もちろん四六時中、信繁が一緒にいるわけではないし、言っては何だが、阿梅にとって、父は「頼りない」、ともすると「弱い」人物にすら見えていた。


 それもそのはず。

 そもそも「真田」の武名が世に知られたきっかけは、真田信繁ではなく、その父の昌幸まさゆきだったからである。

 

 天正十三年(1585年)と、慶長五年(1600年)に、二度に渡り、寡兵で徳川家の大軍を打ち破っていたのが、真田昌幸であり、その子の信繁ではない。


 世上の噂として、「手強い」と思われていたのは、昌幸の方だったし、実際、徳川家康が「真田」が大坂城に入ったと知らせを受けて、驚愕したが、それが「子の信繁」とわかると、安堵したという話も残っている。その昌幸は、数年前に亡くなっている。


 そして、関ヶ原の合戦の前年、慶長四年(1599年)に生まれた、阿梅にとっては、物心がついてからずっと、九度山の山暮らしである。


 その山中での生活で見る父は、実に物静かで、穏やかな人物だった。怒ったところを見たこともないし、ましてや「戦に強い」など思ってもいなかった。


 それに、長年に渡る九度山での生活により、父はすっかり老いていた。髪は薄くなり、その髪にも、薄く伸ばした口髭にも白いものが混じり、皺も増え、一見すれば、くたびれた老人にさえ見える。この時、信繁は48歳。戦国の世では、老齢と言える。


 だからだろう。

 気が強い阿梅は、大坂城に籠る、淀殿よどどのに仕える女中に頼み込んで、薙刀なぎなたを譲ってもらい、常にそれを携帯し、頭には鉢巻きを巻き、近づいてくる男には、ことごとく「威圧」していた。自分の身は自分で守ろうとしていた。


 それを見た、父の信繁は、

「阿梅は強いのう。男子おのこに生まれておれば、実に頼もしかった」

 そう柔和な笑みを見せて、言ってきたが、それでも彼女は、父が「強い」とは露ほども思っていなかった。


 そんなゴロツキばかりの荒くれた男しかいないと思っていた大坂城。


 豊臣秀吉が造り、幾重にも堀を巡らし、難攻不落と言われた堅城で、淀殿は、ここに籠っていれば、何年でも持ち堪えられる、と豪語していた。


 そんな大坂城で、思春期の阿梅は一人の若者に出逢う。

 ある時、一人の武将が父の元に挨拶に来た。

「お初にお目にかかります、真田殿。そなたの父上の活躍は耳にしておりまする。頼りにしておりますぞ」

「こちらこそ。よろしくお頼み申します」

 そう言って、父に声をかけてきた男は、毛利もうり豊前守ぶぜんのかみ勝永かつながと名乗った。


 父とは違い、威風堂々たる偉丈夫で、年も父より10歳程度若い。頼りになりそうな男で、元・大名というのも頷ける威厳が感じられた。


 その彼に従っていた、阿梅よりも少し幼い少年。見ると、弟の大助と同い年くらいの年齢と思われたが、可愛らしい風貌の美男子だった。


「そなたはどこから参ったのじゃ?」

 阿梅が何気なく聞くと、


土佐とさ……」

 恥ずかしそうに顔を背けてしまった。


「行くぞ、式部しきぶ

 そう言われた少年は、後にわかったことによると、毛利勝永の子、毛利式部勝家かついえという。当時、14歳。


 戦場の中で、二人は「出逢った」。



 戦はやがて始まった。徳川幕府軍は、すでに将軍職を辞して、息子の秀忠に譲り、自らは「大御所おおごしょ」と名乗っていた徳川家康を筆頭に、総勢20万人。


 簡単に計算して、豊臣勢の倍だが、数だけでなく、「質」も違う。

 初戦は小競り合いから始まったが、豊臣勢はあっという間に負けていた。


 実はこの時、城内では「籠城派」と「主戦派」、つまり「討って出る」派に分かれており、「主戦派」の中心は、真田信繁をはじめとする牢人衆だった。


 だが、大坂城の首脳部たる豊臣家宿老の大野治長はるながが、堅固な要塞でもあった大坂城に籠城する策を選んでしまう。


(男なら討って出るべきじゃ)

 気の強い阿梅もまた、父と同じ意見だった為、忸怩たる思いを抱いて、戦況を見守っていた。


 そして、「運命」の戦が始まろうとしていた。

 阿梅が見たこともなかった、「父」がそこにいた。

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