麺 りえ

麻衣

第1話  りえママの鶏麺 【七色野菜と鶏盛り麺】

 ひとり溜息をついた。道は暗く静かで、街灯がジリジリと頼りなく、消えたり付いたりを繰り返している。

 ついさっきまでは飲み帰りのサラリーマンが多く歩き、飲み屋やコンビニが並ぶ賑やかな駅前通りだったのに、自宅に向かって一本裏道に入ると、途端に静かになる。その点が「住むには静かでいいし、一人の時間を満喫できる」と気に入った所のはずなのに、今日のような日は一層気持ちを暗くするだけだった。


 営業マネージャーに目をつけられたのは、会社に入って三年目になってからだ。

 鶏肉の竜田揚げ弁当を製造販売する会社で、店は関東圏に九店舗。会社は決して大きくないが、店舗のある地域では住民が皆知る、長年愛されている店だ。

 幼い頃から両親は共働きで、印刷会社で営業をする父は、いつも家に居なかった。母は家事と文具製造業のパートに追われており、月に何度か、夕飯が作れなかったと、パート先の最寄り駅近くで弁当を買ってくることがあった。それがこの店の弁当だったのだ。

 冷えた竜田揚げは一口齧るとやや塩辛く感じるものの、噛み締める間にばくばくと白米を頬張ると、抜群に相性が良かった。この、いくらでもご飯が食べられる竜田揚げと、もち米を少し混ぜて炊いているという、白く甘い白米の組み合わせが好きだった。「ごめんね」と母がこの弁当を出すたびに、やった、やったと万歳すると、それはそれで母は嬉しそうな顔をした。

 食べ物に関連する仕事に就きたいと考えた時、まず頭に浮かんだのが、この冷えて塩辛い竜田揚げ弁当だったのだ。新卒で営業職として入社し、必死で現場販売する姿を認められ、二年目で店長兼、営業マンとしてデビューさせてもらえることになった。そこまでは、自分でも狙った通りだと言える。ただ翌年、急遽転勤になってしまった枠を穴埋めする形で、都内エリア店舗の営業リーダーに指名されたのは、ただの偶然としかいえない。


 エリアといっても、山手線内にある四店舗だけの話で、自分自身の感覚としては、店長がちょっと昇格したに過ぎない。やっていることは店を順に回って従業員の女の子たちの御用聞きで、そのほとんどはただの愚痴みたいなものだった。しかし、自分が担当になって大きく売上が伸びたと評価されれば、幸運で昇格した印象から脱却できるだろう。数字を出す戦略を練りたいのに、従業員同士の小さないざこざや、それぞれの休日調整に追われるばかり。最近は自分が成し得たいことは何だったのかと、ぼんやりする時間が増えた気がする。

 会社に変革を起こすような、積極的な行動を起こして、出る杭を打たれるというならわかるが…。小間使いにされているだけで、上からは目をつけられている現状には、納得できなかった。


「休憩中? 余裕なんだな」

 電話口で大きなため息をつかれた。マネージャーが電話をよこすときは、決まって何か食べている時だった。営業時間が店舗によって異なり、管理する側としては休憩もままならない。店舗間の移動の合間に、おにぎりや立ち食い蕎麦屋を食べていた。いつも食べる時間はバラバラなのに、何故かたまたまその瞬間、電話が鳴るのだ。熱々のそばを口にした瞬間、おにぎりのフィルムをはがして一口目を齧った瞬間、サンドイッチを一切れ丸ごと口に突っ込んだ瞬間。そしてモゴモゴと返事すると、いつもこの嫌味を言われる。

 パワハラですと言ってやりたいのに、いつも情けない苦笑いをするだけしかできない。溜息を聞かされても、こちらは聞かせてやる勇気すらない。


 ふと、歩く先の方にぼんやりとオレンジの光があることに気が付いた。自宅に向かう道沿いに、小さな豆電球のように光が見えるのだ。

 この通りは単身向けの薄暗いワンルームマンションばかりのはずだ。通りに唯一ある自動販売機は、とっくに通り過ぎていた。

 ゆっくり歩いて近づくと、両手を広げた幅ほどしかないような小さな建物だった。

 檜で出来た壁と焦茶色をした木製の引き戸。その上には、朱色の長い暖簾が下がって夜風に揺れていた。

 店のようだ。


「何の店だろう」


 誰にともなく呟いていた。そもそも、この通りに店なんてあっただろうか。引き戸は少しだけ開いており、湯気交じりに料理を煮込む特有の香りがした。身を引いて、店の入り口まわりに何か書いていないか見渡すと、朱色の暖簾の左下に、読ませる気がないほど、か細い筆文字があることに気が付いた。「麺 りえ」と書いてある。

 麺? ラーメン屋ということなのだろうか。

 最近、オシャレ系ラーメン屋というべきか、意識高い系とでも表現するべきか…。どこが入口かわからないような店もあるし、営業しているのかいないのかわからない、週に一度しか開けないようなラーメン屋もある。その類なのだろうか、と思った。店名は「りえ」なのだろうから、女性が経営しているのだろう。

 漂う香りは、確かに何かのスープではないかという気がした。腕時計を見ると二十三時をまわっている。昼飯を食べたのは、十五時くらいだっただろうか…と思い返した時、暖簾の向こう側、引き戸の隙間から「どうぞ」という女性の声がした。

 店の前に立ち止まって、様子を伺っていた事に気づいていたのだな、と驚いた。とはいえ声はとても小さく、ゆっくりと落ち着いている。あの筆文字はきっと自分で書いたのだろうと連想するような、細く女性らしい声だった。どんな人なんだろうと、おそらく「りえ」さんであろう声の主に、興味が唆られた。

 いや、そもそも腹が減っているのだ。覗き込むようにしながら体を引き戸の隙間に差し入れると、一気に食欲をそそるスープの香りが鼻に広がる。唾を飲み込みながら、香りに吸い寄せられるように店内に入った。

 中は、朱色の小さなカウンターと、背もたれのある椅子が五つだけ並んでいた。檜造りの和モダンな店内は、まだまだ新しそうな内装に見える。

 灯りはカウンターの上からぶら下がるように座席を上から照らしていた。橙色をした、ぼんやりと柔らかな光だ。店内全体が暖色につつまれており、実際の室温よりもずっと暖かく感じる。穏やかでほっとする店内だった。 

 カウンターの向こう側には和服に紺色のエプロンを着た女性が一人立っており、トントンとリズミカルに包丁の音を立てていた。店内に入って引き戸を閉じると同時に、女性は顔をゆっくり上げてこちらを向いた。


「カウンターしかないんです。どうぞ」


 和服美人とはこのこと、と思うような女性だった。黒髪は玉ねぎのように丸くふくらんで、頭の上で結んである。三十から四十五くらいの間なのだろうが、年齢がよくわからない。三日月型に微笑んだ瞳の向こう側がうまく見えない様な、黒目がちで長い睫毛の女性だった。真っ赤な口紅を塗られた唇は薄く小さく、上品な口元だった。

 一番奥の端に座ろうか迷った。しかし、もう他に誰も入って来ないような気がして、カウンターの真ん中の椅子を引いて腰掛けた。

「あのう、何がありますか。メニュー」

 遠慮がちに尋ねると、女性は瞬きした後、また瞳を三日月のように少し細めて微笑んだ。

「うちはね、麺だけなの。りえママ特製のあったかい麺、白いおつゆの。食べたら元気が出るスペシャル」

「なんだか美味しそうですね」

 実際、三月の春に入り始めた時期ではあるが、夜はかなり肌寒い日が続いた。日中に働いている人なら気にならないかもしれないが、こうして帰宅が二十三時やそこらの身としては、駅から自宅までの道のりで体が冷え切ってくる。スーツのジャケットが、薄っぺらに感じていた。

「あなたがりえさんですか?暖簾に書いてあった…」

「そうですよ。この店のママ」

「へえ、ママがいるなんて、クラブみたいですね。じゃあ、その特製の麺をください」

 りえママは頷くと、くるりとこちらに背を向けて、ガス台に火をつけた。小さな雪平鍋に何か出汁のようなものを入れて、コトコト煮立たせ始めた。


 湯気が立ち込めるカウンターはほの暖かく、頭がぼんやりし始めた。そういえば誰かが料理している音をこうして聴いているのは、どのくらいぶりだろうか。実家を出て以来かもしれない。包丁の音もガスコンロを使う音も懐かしく感じた。

 そもそも最近、ほとんど人の手料理を食べていない。コンビニか立ち食い蕎麦屋、ファーストフード、遅くまでやっているチェーン店のラーメン屋に週に一度行くか行かないかだ。

 就職してすぐ、今の会社の同期に手作りの弁当を貰ったことが一度だけあった。売り場で販売をしている子がくれたのだ。あれは、どういう経緯だっただろうか。確か昼に何を食べているのかと、売り場で尋ねられたのだ。おにぎりやサンドイッチを買って食べていたり、売れ残りの竜田揚げ弁当を買い取りしていると答えた。すると、栄養が偏っているからお弁当でも作ってあげようかと言われて…


「お待たせしました。


【七色野菜と鶏盛り麺】


です」


 目の前に両手でゴトリと置かれた朱色の小ぶりな丼の中には、色鮮やかな野菜が立ち上がるように盛り付けられていた。橙色の人参、紫色の皮が鮮やかな茄子、他、カットされた野菜が盛り付けられている。おそらく7種なのだろうが、とにかく大ぶりに切ってあり、薄く油をまとって光っていた。

その上に、骨付きの鶏肉がまるで立ち上がるようにトッピングされていた。自分が知っているような、見慣れた骨つきもも肉より小さく、形が違うようだが、どこの部位なのかよくわからない。

 麺といっているからには麺類なんだろうが、見当たらない。真っ白なスープの中に隠れているんだろう。

「いただきます」


 スープに箸を差し込むと、やはり麺が入っている。野菜と鶏の隙間を開けて、箸でひとすくい引っ張り上げてみた。

 真っ白なスープから現れたのは、糸のように細い白い麺だった。コシがありそうにピンと張って見える。真っ白なスープの中に真っ白な麺が沈んでおり、まるでスープから急に麺が現れたように見える。

「この麺は?」

 りえママが、丼の隣に水を置きながら答える。

「にゅうめんですよ。お素麺ってことです。スープは鶏と野菜で作ってるんです」

「へええ。いただきます」

 引っ張り上げた麺を、ふぅふぅと冷まし、そのまま一気にスルルッと啜った。

「美味しい!」思わず大きな声が出た。

 細い麺に、白い鶏スープが程よくまとわりつくように絡んでいる。ややとろみがあるものの、脂臭くも鶏臭くもない。野菜の力による粘度なのだろうか。夢中でもう一口、二口と麺を引っ張り出しては啜り込んだ

 上に乗った、茄子を齧ってみた。齧ったところから、ジュワッと茄子の甘味ある水分が一気に溢れ出した。大袈裟ではなく、うっかり口から水分がこぼれそうになるほどだ。まわりは少し香ばしく、つやつやと油を纏ったコクを感じる。野菜は全て素揚げされているのだろうか。閉じ込められた水分が凝縮した甘みと相まって、野菜とは、こんなに味が濃かっただろうかと驚く。

 鶏を齧ってみようと思ったが、どのように食べたら良いのだろうか。迷っていると、りえママがペーパーナプキンをそばに置いてくれた。

「食べてみて。これは、鶏の手羽先と手羽元を、切り離さないで一つになった状態のまま、鶏を捌いたものなのよ。手羽元の脂が乗ったお肉と、味の濃い骨まわりの手羽先のお肉と皮…全部を食べれるお肉なの。豪快に手で齧り付いてね」

 手羽元と手羽先がひとつに…というものを見たことが無いので、ははあ、と眺めまわした。確かに尖ってピンと立ち上がった骨の先は手羽先唐揚げなどのそれだった。大きな塊部分は手羽元なんだろうか。香ばしく素揚げされているであろう皮が照りを纏い、ボリューム満点という感じだ。

 ナプキンで立ち上がった骨をつかみ、肉厚な部分をがぶりと齧ってみた。

「美味しいっ。凄くジューシーですね!」

皮が香ばしくて、そこにスープがソースのように染み込んでいる。骨まわりについた肉が、とにかく旨味が濃い。程良い弾力の肉に、しっかりと味が染みこんでいる。

 夢中で肉を齧る姿を見て、りえママがカウンター越しに、ふふっと笑い声を出した。

「私、鶏肉が大好きなの。鶏肉料理ばかり作っているのよ。だから鶏を美味しく食べてもらいたいと思って、それだけなのよ」

 ふと手が止まった。

 誰かが同じことを言っていた気がしたのだ。誰だろうか。あれは、何年前だっただろうか。


「俺は鶏肉が大好きだから、鶏を美味しく食べてもらうためにあの弁当を作ったんだ。ただそれだけなんだよ」


 そうだ、会長だ。今の社長の父親であり、会社を創業した人だった。入社試験で初めて会い、子供の頃からあの鶏の竜田揚げ弁当が好きだと言ったら、嬉しそうにそう教えてくれた。会長はそれからすぐ足が不自由になり、車椅子でたまに会社や売り場に顔を出していたが、最近は全く姿を見せなくなった。結局、その入社試験以来、話すことはなかった。

 しかし、たった一言交わしたその言葉が印象的だった。

 飾り気の無い素直な会長の言葉は、いつか子供の頃、母が買ってくれた弁当をうまいうまいと食べていた自分と重なるようだった。親戚や友人に、なぜ今の仕事に就いたのかと聞かれると、決まって会長の言葉を伝えていた。こういう考えが、自分に合っていたのだと…。

 はっと我に返り、目の前を見ると、りえママが三日月のような瞳でこちらを見ていた。

 止めていた手を動かしてスルルッと麺をまた啜った。麺を持ち上げては口に運ぶ。たまに素揚げの野菜。たまに鶏を齧る。無心で、夢中になって食べた。うまい。うまい。うまい。最後は丼を持ち上げて、白いスープまで全て飲み切った。

「ご馳走様でした」

 ゴトリと丼を置いて、息をついた。スープを一気に飲み込んだせいなのか、胸の辺りが熱くなっていた。

「凄く美味しかったです」

「嬉しいわ。なんだか、スッキリした顔をしてるわね」

「はい。なんか余計なことを色々考え過ぎていたみたいで。夢中で食べていたら、スッキリしました」

 全く口をつけていなかった水を一気飲みして、ゆっくり立ち上がった。ジャケットを着直し、袖や襟を整えた。「おいくらですか?」

「次に来た時に払ってくれたらいいのよ。うちはいつも、次に来た時、前の分を払うの」

「ツケってことですか?」

 驚いた。もう二度と来なかったら支払いされないではないか。いわば食い逃げされてしまう。

「うちはそういうルールなのよ。よろしくね」

 りえママが迷いなく断言するので、ごちゃごちゃ言うべきではない気がして、口を噤む。「わかりました。必ずまた来ますから、それで大丈夫です」


 引き戸を開けると、急に現実味を帯びた夜道が見えた。そういえば仕事帰りだった。なんだか異世界にいたような気がして、すっかり忘れていた。

「ありがとうございました」

 りえママが暖簾をめくって見送りしてくれる。

「ご馳走様でした」

 お酒を飲んだわけでもないのに、ばかにフワフワとした気分と足取りで夜道に出た。身軽に感じる。

 余計なことを考え、余分なものを抱えて、いつの間にかうまく歩けずにいたと、そんな気がした。もう七十歳くらいの会長のほうが、自分よりずっとシンプルな考えを持っているような気がして、一人笑いそうになってしまった。マネージャーの電話のタイミングを、心の中でカウントしていたのは自分の方だ。いつか文句を言うために、理不尽な素材を溜め込んでいた。販売員の女の子たちの悩みをどこか自分よりレベルが低いと見下して、話半分に苛立っていた。かつての母のようなお客さん達に、心を込めて日々手渡ししているのは彼女たちだ。

 そして何より、自分自身が、子供の頃の自分のように、人に喜んでもらいたいと思っていた。それだけの単純な想いを誇りにしていたはずだった。

 どれも当たり前のことに気づいただけだが、何もかも忘れていた想いだった。

 不思議な店と、魅力的なママと、美味しい料理だったな…。

 そうだ。次もあの麺は食べられるんだろうか。鶏肉が好きだと言っていたから、また違うメニューを開発しているんだろうか。期間限定であるなら、まだ終わらないうちにもう一度来ればいい。

 まだりえママが暖簾から顔を出してこちらを見ているのではないかと、振り返った。


「…」


 いつもの見慣れた暗い夜道だった。

 ぽつんと光っていた、オレンジ色の光は見当たらない。それどころか、あの朱色の暖簾も小さな建物も見当たら無いことは、2メートルほど離れたこの場所からも確信できた。

 日にちが変わりかけた深夜の風が冷たい。春先とはいえ、まだ夜は冷えるのだ。履き込んだ革靴をその場で動かすと、じゃりじゃりとアスファルトに砂が擦れる音がした。その音だけが、人気の無い夜道に響いていた。

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