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キッチンにいた母に一言告げ、家を出る。住宅地を少し離れると、近くには田畑、遠くには黒々とした山影、といった景色になる。物静かな、直截に言えば田舎町だ。車道と歩道の区別もない小路を、姉妹で並んで歩く。
「ここ、ましろの散歩コースだったんだよね」
と傍らから問われた。私は小町を見下ろし、
「ましろのこと、覚えてるの?」
「ほんのちょっと。大きい白熊みたいな犬だよね」
かつて我が家で飼われていた、雄のサモエドである。長く分厚い、真っ白な体毛の持ち主だった。サモエドとしては比較的小柄だったが、赤ん坊だった小町にはそう見えたのかもしれない。
「いい子だったなあ、ましろ。小町とももっと遊べたらよかったね」
「私ね、このあいだ夢でましろを見たよ。ましろの〈ひいが百回つくおじいちゃん〉と一緒だった。おじいちゃんはもっと大きくてふかふかで、女の子を背中に乗せてた」
ひいが百回つく、という言い回しが面白く、私は少し笑った。「そうだね。今はご先祖さまの傍に、きっといるからね」
ほっそりとした坂道へと折れる。草の匂いが濃くなった。砂利を踏んで下った先に、小ぢんまりとした木製の祠が見えてくる。そこに祀られているのが〈むすび丸地蔵〉である。
「あ。お供え物、持ってこなかった」
「気持ちだけでいいんだよ。ちゃんとお願いすれば通じるから」
かろうじて人型をしていると分かるだけの、素朴な石造りの像だ。ましろの散歩をしていた頃は、毎日のようにお参りしていたことを思い出す。むすび丸、という呼び名は祖母に聞いた。おむすびが好物の神様だと説明された記憶があるが、真相は今もってよく分からない。
小町が膝を曲げて体勢を低くし、掌を打ち鳴らした。「今年も〈夜行〉が来てくれますように。ほら、お姉ちゃんも」
「はいはい。〈夜行〉が来ますように」
目を瞑って手を合わせると、胸に強い感情が込み上げた。とくべつ信心深いほうではないが、実際にお地蔵さまを前にするとやはり、思うところはあるものだ。
「――じゃあ、戻ろうか」腰を浮かせながら小町に声をかけた。「そろそろご飯だから」
応答はなかった。黙ってしゃがみ込んだままである。よほど熱心に祈っているのか、それとも悪ふざけか。
「ほら、帰るよ」と肩を揺さぶってみて、私はようやく異変を察した。平たい石の上にお尻を乗せ、膝を抱えて丸くなった格好で、どうやら眠り込んでいるようなのだ。
「ねえ、大丈夫? 具合悪いの?」
平気だよ、と声がした。小町ではありえない。低い男の声音だったのだ。
「心配することはない。じきに目覚める。いやしかし、祈りの気配を感じたのは久方ぶりだよ」
振り返ると、いつの間にかそこに長身の男性が立っていた。古めかしい着流し姿で、年齢を推し量りにくいつるりとした風貌をしている。近所で見覚えのある顔ではなかったので、私はやや身を固くしながら頭を下げた。
「こんにちは。今ちょっと妹が」
「警戒しなくてもいい。その子は大丈夫だよ。私に、人の子に危害を加える意思はない。ただ呼ばれたから、姿を現しただけのことだ」
飄然たる口振りである。私はなおのこと怪しみ、「お呼び立てしたつもりではありませんでした。すみません、これで失礼します。ほら小町、行くよ」
眠ったままの妹をおぶって立ち去りかけた私に向け、相手は強い口調で、
「待ちなさい。祈りを聞き届けるかどうかの瀬戸際なんだ。興味があるなら、少しだけ話に耳を傾けることを勧める。私はね、君たちが〈夜行〉と呼ぶものの一員なのだよ」
私は思わず足を止め、男性の顔を見返した。〈夜行〉――。
こちらの反応に満足したのか、彼は滔々と、
「我々のごとき存在は、基本的に人間から向けられる思いを糧としている。祈りであったり、信仰であったりだな。ところが近年はそれがめっきり弱くなって、ほとほと難儀している。ここいらの住人とは長い付き合いだが、我々も無い袖は振れないからね。今年はご勘弁願おうかと思ったところに、君たちが訊ねてきたという次第だ」
はあ、とだけ私は応じた。〈夜行〉の一員だというのは、その役割を割り当てられた実行委員のメンバーであるとの意味合いかもしれないと思い至ったのである。この場で私相手に演技を披露している理由こそ不明だが。
「疑うのは無理ない。ただ君たちに敵意があるわけではないことだけは、強調しておく」
後頭部を掻く仕種を見せる。長髪を束ねているのに気付き、私は彼を胸の内でユイガミと名付けた。少し考えてから、
「それで、どういったご用が? お話があると仰いましたね」
「ああ。端的に述べると、人の願いを叶えるには相応の対価が必要なんだよ。つまり取引だ。応じるなら願いを聞き届けよう」
「あなたは、そういう立場にあると?」
ユイガミは答えなかった。私は重ねて、
「聞き届けてくれるというのは、〈夜行〉をやるってことですか」
相手の唇の端が吊り上がる。謎かけするような笑みだった。
「自分の胸に聞くといい。分かるはずだ」
私は曖昧に頷いて応じた。「まあ、さっきお祈りしたことですから」
「よろしい。正直なのはいいことだ」
どうにも掴みどころがない。それでいてこちらの内面は見透かされているような気がしてならない。
これ以上付き合っても仕方がないと思いつつ、私はその場を離れられなかった。相手の空気に呑まれていたのかもしれない。
「ちなみに、幾らくらい必要なんですか。場合によっては募金とかカンパとか――」
ユイガミは人差指を突き立て、私の言葉を遮った。「金の問題ではない。大切なものをひとつ貰う。妖怪と人との取引とは、常にそういうものだろう」
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