プロジェクト・ワイルドハント

下村アンダーソン

1

 秋のざわめきを引き連れて訪れる者たちを〈夜行〉と呼んで、私たち姉妹は怖れた。

 怖れたのだと思う。瞬く黄金色の瞳、巨大な赤ら顔、複雑に枝分かれした角、長々と伸びた首……笛太鼓の音とともに行進するそのさまは、今も記憶の奥底に居残って、離れることはない。ただ私が歩みを進め、夕闇の住人ではなくなるにつれ、精彩を欠きはじめたというだけだ。

 私は十六で、小町は九つ。幼い妹だけがまだ、懐かしい暗がりの中に留まっている。


 ***


〈今週の土曜〉とまで書き込んで、指先を止めた。やたら時間をかけて〈もしよければ〉と冒頭に付け足したが、しばらく画面を睨みつけたのち、すべて削除する。

 あーあ、と声をあげ、スマートフォンを遠くに押しやった。ややあって引き寄せ、「遊び」「誘い方」などのフレーズで検索をかけては、溜息交じりに漫然と眺める。

 もう三十分近くこの調子だ。いつになったら書き上げられるのか知れたものではないし、完成したところで送信釦を押す勇気が湧いて来ようはずもない。悩むのが趣味なのかというほどに悩んだ挙句、なんの行動も起こせない。周防紬という人間は常にそうなのだ。

「いきなりじゃあ――やっぱり変に思われるよね」

 と独り言つ。そもそも連絡先を交換できたことからして、奇蹟に近かったのである。入学当初、たまたま席が隣り合わせた。クラスメイトとして言葉を交わす機会があった。その程度だ。この半年間、進展と呼べるものはなにひとつとしてなかった。

 ふとリズムを伴ったノックの音が、意識に割り込んできた。二度、三度。この叩き方は母ではない。小町だ。

 夕食にはまだ間がある。退屈なのか、あるいは宿題でも手伝ってほしいのか。ともかくも椅子から腰を浮かせ、鍵の付いていないドアへと向かった。

「どうしたの。なにか用事?」

「あのね」律儀に待っていたらしい小町が顔を上げた。「ちょっとだけ時間、いい?」

「どんなこと?」

「いい? 駄目?」

 質問をいったん諦め、私は頷いた。「いいよ」

「やった」部屋に入ってくる。「最近忙しそうだから、追い払われるかと思った」

「そんなことしないって。私、忙しそうに見える?」

「なんとなく」

 決して暇ではないのだが、傍目にはただ、部屋に籠りがちになったようにしか映るまい。妹はともかく、両親に余計な心配をされてはいないかと危惧した。正直な理由を告げるのは、ちょっと抵抗があるのだ。

「お母さん、私のことなにか言ってた?」

「やっぱり勉強が大変なんだねって」

 そう思われていたか。まあ当然といえば当然かもしれない。成績が急落したりしないよう、気を付けねばならない。「ほかには?」

「ほかは――特に。ベッド上がっていい?」

「別にいいけど。座るなら、そこにクッションでも出すよ」

 小町は答えず、膝立ちの姿勢でベッドに乗りかかって窓に近づいた。レースのカーテンを開く。窓辺に肘をつき、薄ぼんやりした夕方の景色を眺め渡しはじめた。

 なんのために訪ねてきたのか判然としない。この部屋からそう珍しいものが見えるでもあるまいに。

 どうにも地に足が付いていないというか、ふわふわと中空を漂っているような雰囲気が小町にはある。年齢が七つも離れているせいもあり、内面を推し量るのに苦労する。仲が悪いわけでは決してないのだが、自分とはまるきり違った存在だという気がしている。

「通学路の葉っぱ、黄色になった」

「もうそういう時期だね。うちの校庭も紅葉になってたよ。ずっと並木道の下を歩くからさ、綺麗なんだよ」

「最近、商店街のほうに行った?」

「ううん。買い物があれば、学校の近くで済ませちゃうから。なんで?」

「いつもと違う感じがした」

「そう? よく見てないから分かんないけど。いつもどんなだっけ?」

 彼女はベッドを下り、椅子に腰掛け直していた私の正面にやってきた。「ほんとに見てない?」

「寄ることないもん。いつも駅から直帰。反対方向でしょ?」

「そっか」

 小町は頭部を傾がせ、視線を彷徨わせた。言葉を探すときの癖だと知っていたので、黙って見守ることにする。数秒後、彼女は思い切ったように口を開いて、

「ねえお姉ちゃん。今年は〈夜行〉、来ないの?」

 夜行、と反復すると同時に、漠然たる記憶が脳裡に甦り、一瞬ののちに消えた。かぶりを振ると、すぐさま平静さが舞い戻ってくる。なにが胸を搔き乱したのかも思い出せなくなった。

〈夜行〉――正式には〈雛守夜行祭〉という。毎年十月に行われている催しで、鬼やら化物やらの仮装をした行列が、街じゅうを練り歩く。笛や太鼓を鳴らし、得体の知れない文言まで唱えるので、遠くからでもその訪れはすぐに分かる。秋風に乗じて〈夜行〉が今年もやってきたのだ、と。

 化物たちの外観はそれなりに恐ろしい。小さな子供が見物に行けば、たいがい大泣きする羽目になる。それでいてどこか蠱惑的なのも事実で、怖れられつつも親しまれている行事であると言えた。

「えっと」と私は顎に手を当てた。「小町は来てほしいの?」

「当たり前じゃん。〈夜行〉が来ないと秋って感じがしないし、つまんないもん」

 私は沈黙した。実のところ、今年の〈雛守夜行祭〉が中止となる公算が大きいことを知っていたのである。親が役所勤めをしている友人からの情報だ。観光系の部署だというから、まず間違いはない。

「お姉ちゃんも見に行くでしょ? 今ぐらいの時期、商店街っていろいろ飾り付けてあったと思うんだけど、今年はまだなの。もうすぐかな?」

 そうだね、とごまかす。それで気にしていたのかと得心した。私は慎重に、「〈夜行〉って神様でしょう? 神様は気紛れだから、もしかしたら来ない年もある――かも」

 途端、小町は俯いた。失敗した。余計なことを言うべきではなかった。「いや、でも毎年来るんだから、来るかもしれない。小町たちに会えないとつまんないって、〈夜行〉もきっと思ってるよ」

 不意に手を掴まれた。驚いて見返すと、小町は真剣な面持ちで、

「お姉ちゃん。〈夜行〉が来るようにお祈りしに行こう」

「今から?」

「今から」

 有無を言わせぬ調子で引っ張られた。説得で諦めてくれる風情ではない。私は立ち上がって、

「分かった、分かった。〈むすび丸地蔵〉でいい? あそこなら、夕飯までに帰ってこられるし」

 小町は深く頷き、勇んで部屋を飛び出していった。階段を駆け下りていく足音を聞きながら、私はクローゼットを開けて適当な上着を探しはじめた――。

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