88歳の猫
千石綾子
それは所謂猫又というものだった。
山の中で道に迷った時に、ふもとまで道案内をして連れて行ってくれる猫がいるらしいと聞いた。
驚いたことに、その猫には尻尾が二股になっているそうだ。猫又だ。猫又が実在しているとはついぞ知らなかった。
「どうしたら猫又に遭えると思う?」
同僚の美智子に聞いてみたが、彼女は喫茶店の窓際の席で手鏡を見ながら化粧を直すのに夢中になっている。いつものパンツスーツが良く似合っている。
「山で迷えば良いんじゃないですか?」
そう答えたのは美智子に熱をあげている後輩の伊吹だ。
なるほど、鋭い。と一瞬思ったが。
「迷って猫又に遭えなかったらどうする。遭難でお陀仏だ」
すると伊吹は気まずそうな笑みを浮かべて、そうですね、と呟いた。
「しかし良い事を聞いた。迷ったふりをするだけでも釣れそうだ」
「釣るって先輩。猫又を釣るんですか」
素っ頓狂な声が店内に響き、美智子がこちらを睨んでいるのが分かる。
「猫又なんて興味ないわ。山で静かに暮らしているんだから放っておきなさいよ。尻尾が二股になってるだけでしょ? 最近は医学も発達しているからそりゃあ猫だって長生きするわよ。大体見つけてどうするの? さらわれて食べられるのがオチよ」
美智子、興味がないという割にはやけに詳しい。
それにしても、そうして否定されればされるほど猫又の事が気になってくる。迷わなくても山中でばったり出会うかもしれない。
早速週末に僕は自宅から近い高井山に登ってみた。身近な山だったので大したことはないと思っていたが、なかなか手ごわい。吊り橋やちょっとした崖のぼりもあった。
少し休憩に、と川岸の大きな岩に座って水を飲むことにした。小さな滝があり、なかなか良い眺めだ。折角だからとスマホで写真を撮った。
その時、川の向こう岸に何かが動いた。なにやら小さくて黒いもふもふ。猫だ。
ついに見つけた、と思ってスマホを向けると、その猫はにやり、と笑った。ぎょっとしてスマホを取り落としそうになる。
猫は川幅5m程を、器用に岩を跳んでこちらに向かってきた。2本の尻尾でバランスをとっている。
猫又だ。
そいつはすぐ隣まで来て、ぺたりと横に座った。
「猫又だ、と思っているだろう?」
喋った。やはり猫又だ。
「酔狂な奴だね。猫又を探しに来るなんて」
「どうして探しているって分かったんだい」
「何故だか、分かるんだよ。猫又の勘ってやつさ」
猫又はぺろぺろと顔を洗う。これは猫だ。
「で、何の用だ? 長生きの秘訣でも聞きに来たのか?」
首を横に振る。すると猫又はきゅう、と瞳孔を細めた。
「一緒に住みたいと思って」
「住みたい? 飼いたいってことか?」
猫又はふん、と鼻を鳴らす。
「飼うなんておこがましい。同居したいんだよ。猫と」
「猫なら他にいくらでもいるだろう。猫又だからアレルギーに反応しないわけじゃないぞ」
「違うよ。見送らなくてもいい猫と暮らしたいんだ」
猫又は黙り込んだ。
「子供のころから今まで色んな猫と暮らして来たけど、毎回見送るのが辛くて。猫又は長生きなんだろう?」
「──88歳になる」
「88歳! そんなに長生きできるものなんだ。丁度米寿だね。週末辺りにお祝いしよう」
「待て。何故一緒に住む前提になっている」
シャー、と小さく威嚇してきた鼻先に、人差し指を差し出した。思わずくんくんと匂いを嗅ぐのを見て思った。やっぱり猫だ。黒い毛も艶やかで、88歳とは思えない。
「どうしてそんなに長生きしてるんだい?」
素直に疑問をぶつけてみた。
「人魚を食べた」
「人魚?」
猫又は頷く。
「昔、漁師の町に住んでいた頃、時々舟に乗せてもらっていた。ある日網にかかった人魚がいて、逃げる時に落とした
「鱗1枚で不老不死になれるのかい」
「なれたんだから可能なんだろう。正直旨いものではなかった。とにかく腹が減っていたんだ」
猫又は味を思い出したように顔をしかめてぶるる、と体を震わせた。
「ねえ、どうだろう。一緒に来ないかい? こんな山の中よりも暑すぎず寒すぎず、いい家だと思うよ」
「嫌だ」
即答か。猫又は頑なだ。
「どうして」
「お前は見送るのが嫌だから猫又を探したと言っていたな」
「うん」
「私は人を見送るのが嫌で山に籠った」
ああ、そうか。言われてみれば、だ。この猫又も自分より寿命の短い人間たちを何人か見送ってきたのだろう。その気持ちは痛いほどわかる。
「分かったか」
「うん。ごめん」
ここは素直に引き下がる事にした。でも。
「でも、良かったらさ、お祝いだけしないかい? 米寿のお祝いをするからうちに遊びにおいでよ。それ以上関わったりしないから」
「米寿の祝いか」
それも悪くないな、と猫又は呟いた。週末に来るとだけ約束してくれた。
山を下りて3日目、美智子に手伝ってもらってお祝いの準備を整えて待った。
「にゃあ」
猫の声にドアを開けると、猫又が立っていた。そのまますたすたと家の中に入ってくる。
「にゃあ、とか鳴くのかよ」
「人前で喋るわけにもいかんだろう」
確かにそうだ。しかし尻尾は二股のままだ。よく来る途中で誰かの目にとまったりしなかったものだ。
猫用の牛乳と猫缶、そしておやつを用意して振舞った。
「このつーるとかいうものは実に旨い」
猫又はぺろぺろと皿まで綺麗になめてしまった。用意していたふかふかの「猫をダメにするクッション」もお気に召したようだ。ごろごろと喉を鳴らして丸くなっている。
「なあ、このままここにいたらどうだ?」
「断る」
即答か。猫又は頑なだ。
「それなら、うちにおいでよ」
それまで黙っていた美智子が不意に口を開いた。美智子の奴、猫好きだったっけ。
「女だから良いとかそういう問題じゃない」
「分かってる。見送るのに疲れちゃったんでしょう」
美智子の声はやけに深く優しかった。猫又はじっと美智子を見つめる。
「お前とはどこかで会った気がする」
美智子は小さく笑った。
「会っただけじゃないわ。あの時あなたはまだ2歳くらいだったわよね。港町の黒猫ちゃん」
猫又が絶句する。しっぽがタヌキのように膨れ上がっていた。
「私の鱗を実にまずそうに食べていたのを、今でも鮮明に思い出すわ」
美智子はいつものパンツスーツの裾をめくって見せた。足は無数の、蒼く美しい鱗で覆われていた。その鱗が、1つ欠けている。
「人魚は長生きなんだな」
猫又が呟くように言った。
「もうお互いを見送る必要はなくなると思わない?」
人魚が笑った。その腕に、猫又がぴょんと乗る。その姿を、ただ見送った。
猫をダメにするクッションは、米寿の祝いのプレゼントになった。
了
(お題:88歳)
88歳の猫 千石綾子 @sengoku1111
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます