第10話

 僕が手を離したことで、一触即発の空気が消え失せ、クラスがほっとしたように緩む。

「なんで、こんなことになったんだ」思原が僕に向かって尋ねる。

「こいつが何も言わないからだよ」

「そうか。何を考えているかわからなくて、怖いのか?」嘲るでもなく、ただ淡々と聞いてくる。

 怖い、のか?どうだろう。少し冷静になり、恐怖していたことを思い出す。でも。

「怖くない」怖いのかもしれない。でも、それをあいつの前で言われるのが、嫌だった。うっすらと残る恐怖心を打ち消そうと、怒りが増す。

「なんでそんなに怒るんだ。黒崎にも、言えない事情があるのかもしれない」

「なんで黒崎を庇うんだ」

「別に庇ってはいない。ただ、心の奥に潜む伝わらない感情を可視化しようとしているだけだ」思原は無表情に話す。

「でもさ、転校してきた部外者に、なにがわかるっていうんだよ。例えば僕が今まで何を考えて生活してきたかなんて、わからないだろ。だからそんなことが言えるんだよなあ?」教室は再び静かになる。

 何もわかってない。近くにいた先生や女子たちすらわかってないのに部外者に何がわかるんだ。

 思原が、一瞬手を強く握り締めたのがわかった。無表情だ。けれどその無表情には、色々な感情が抑え込まれているように見えてしまった。悲しみ、痛み、孤独、諦め、後悔。

 でもそれも一瞬だった。思原は話し出す。

「わかっていないのはそうだ。でも、何があったのか、知ることはできる。あれは、自殺では決してない。今日確かに知ることができた。お前らに、明日、話す」

 ここで僕の方を向いた。

「だから、今はひいてくれないか」

 頼むような物言いだ。なのに一方的で、従わざるを得ない圧力を持っている。何が彼の言葉をそうさせているのだろうか。

 怒り、なんていう激情を持っているのに一瞬、恐れに打ち消された。僕は、わかった、と答えるしかなかった。

「ありがとう」思原は言った。そしてあいつの方を向く。

「黒崎も、明日、話すから。放課後、少し待っていてほしい」

「わかった」

 数瞬静まったあと、

「もう授業始まっちゃったよ。皆、席ついてね」学級委員が言った。

「そういえば。自習だと先生に言われた」思原は言う。

「皆、自習だって。まあ、おしゃべりはほどほどにね。この状態でそれは難しいことかもしれないけど」苦笑いしながら発された学級委員の言葉を皮切りに、クラスの空気が動き始めた。

 緩んだざわめきの中、さっきの思原の発言の意味をずっと考えていた。

 なんでまた明日なんだ。そもそも、なんで真実を知っている。そして時折見せる哀しげな表情。自分も、言い過ぎてしまったのではないかと、後悔してしまいそうになる。思原視音は、何なんだ。

 転校してくるタイミングといい、考えてもどうしようもないことばかりだ。明日、全て聞くしかない。

 下校中、思原に話しかけられる。

「明日、俺は黒崎を理科室に連れて行く。それで、黒崎と先に話す。静永は、準備室にいてくれないか。おそらく聞こえるだろう」

「何が?」

「黒崎の話すことが、だ。黒崎には秘密だから音は出すな」

「なんで聞かなきゃならないんだ。あいつの言うことを」

 思原は少し黙り込む。

「…このままで終わるのは悲しすぎる。心が、すれ違っているからだ」

「別に、そのままでいい」

「駄目だ。伝えられなくなってからでは遅い。もう遅い、けれど。でも。あいつを許せとは言わないが、すれ違ってもう会えなくなる前に一度聞いてあげてほしい」そう言った思原の眼は、僕にはわからない過去を見つめているような気がした。

 なぜ思原がそんな眼をしているのか、僕にはわからない。でも、本気で言っているということは、嫌でもわかる。

「思原は、本気なんだね。ならわかった。あいつの言うことを、聞いてみる」

「ありがとう」


 その夜、夢を見た。光がいたと言われた、学校の屋上だ。僕は、階段を上がってすぐのところに立っていた。雨が降っている。

 ふと、前を見た。何かがいた気がしたからだ。

「っっふ」一瞬息が詰まった。光が立っていた。

「光、なんで」

 答えは無い。

「生きていたの」

 答えは無い。

 光が立っているのは屋上の端だと気づく。

「危ないよ。こっちへ来て!」

 答えは無い。僕は慎重に近づく。

「ねえ、光。何か話してよ。それとも、僕のこと、恨んでいるの?」

 暗くて見えないながらも、せめて表情を見ようと目を凝らす。少し、目を細めているような。

 …睨んでいるような。急に寒さを感じる。そういえば、雨が降っていたんだった。やっぱり恨んでいるのだろうか。いじめをとめられなかった僕を。

 光の方をうまく見られない。こんな寒さの中で死んでいったのか。そりゃあ、責めるだろうな。いつのまにか、針のような冷たさが心の奥まで突き刺さっていた。雨はまだ、止まない。

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