第一章 誘拐 ⑥

       6


 しばらく待っても陳炭鋪に動きはなかった。この分では長期戦になるだろう。

 凜は卓の上に用意された菓子に手を伸ばすと、側に放置されていた紙を手に取る。

「これは?」

「陳炭鋪を商う家族と使用人の名簿だ」

 凜は椅子に座ってそれを眺める。主人の名を陳運ちんうん。名簿によれば使用人が三十人ほどいる。かなり大きな店のようだ。

 陳炭鋪は三代にわたる老舗しにせの店で、扱うのは墨の材料にする炭や、貴族の家で使う煙の少ない上質の炭だ。

 取引先の名前も二枚目に書かれていたが、凜にはちんぷんかんぷんだった。

「妹妹、お前は捜査の邪魔だ。もう少し、衣を選んでいてくれ。不審に思われる」

「分かったわよ。ほんと小言の多い人ね……」

 凜は立ち上がりかけて、あることに気づく。

「そういえば、この兄弟はみんな色がつくりにつくのね」

 凜が気になったのは、陳運の息子たちだ。殺されたのが次男の陳赫。長男が陳清ちんせい、三男が陳柏ちんはく。中国らしいこだわりが垣間見られる。

「……! 貸せ」

 子陣が凜の手から名簿をひったくった。

「なるほど……そういうわけか!」

「なに? なにかわかったの?」

 子陣は秦影にすずりと筆を持って来させ、名簿の色の部分に○をつける。

「見ろ、長男は青の旁、次男は赤、三男は白だ。これを見てなにかおかしいことに気づかないか」

「全然」

 子陣はため息を吐くと、紙の端に図を描く。

「五行は知っているな」

「あんまり」

 美容院に置いてある週刊誌の後ろに四柱推命が載っていた。その説明に五行について書かれていたような気がするが、よく思い出せない。

 子陣が紙に木、火と文字を書いていく。

「五行では木火土金水の五つの元素が相関関係をつくって作用するんだ」

「へぇ」

「木は青、火は赤、土は黄色、金は白、水は黒と、それぞれを象徴する色がある。水は木を生み出し、木は燃えて火を生み出し、火は燃えて土が残る。大地から金は生み出され、金は冷えると水を生む。そして水の力で木が育つという相生関係がある――」

 彼は木、火、土、金、水と順番に円の上に書き、矢印で円の中を交互に結んで見せた。

 凜は子陣が書いた表をまじまじと見て気づいた。

 陳家は三兄弟で、上から青、赤、白の順番で旁がついている。

「でも、五行に沿って名前を付けたという説は成り立たないんじゃない? もし、その通りなら、三男は黄色の名前がつくはずなのについていない。三男の名前は陳柏よ」

 子陣はにやりとすると椅子を凜のそばに引きずった。

「そなたのような令嬢にはわからないかも知れないが、陳運が余所よそで子どもを作っていたとしたらどうだろう」

「つまり、別に陳家の三男がいるってこと?」

「凜、陳運は義理堅いが女遊びに関しては有名らしい。三男と思われている陳柏は本当は四男かもしれない……。推測だがな」

 確信めいて言う子陣に凜は首を傾げたが、秦影ははっとした様子で言った。

「そういえば……使用人の張黄ちようこうの姿が見えないと先ほど報告がありました!」

「そいつだ! 陳運はよそで作った息子を店で使用人として働かせていたに違いない」

「なんかやな奴ね」

 子陣は同意したのか、口の端を上げた。

「秦影、張黄が本当に店主の息子かどうか、いつからいないのか、調べてくれ」

 秦影が頭を下げる。

「かしこまりました」

 彼は剣を手に、足音すら立てずに階段を下りて行った。

 二人だけになると、凜を子陣が見た。

「陳家の人間を見たらなにかを思い出すかと思って連れて来たが、なかなか使えるな。ただ飯食いではない」

「だれがただ飯食いよ」

 彼は腕組みをする。

「陳赫は殺され、張黄は消えた。いったい、どういうことだ?」

「もしかしたら張黄が、陳赫を殺したんじゃない?」

 凜は率直に推測を口にする。

「たしかに……そう考えるのは自然だ。もし、張黄が本当に陳運の息子ならば、使用人とされたのを不満に思っていたのかもしれない」

 子陣は言葉を切って少し考えた。

「推測が正しければ、張などと母親の姓を名乗らせていたとしても張黄は陳運の実の息子だ。家族で殺し合ったことが世間に露呈すれば、陳炭鋪の評判はがた落ちする。陳運が、うやむやにしたいと思っても不思議ではない」

 凜は前かがみになる。

「陳運が捜査に協力的でなかったのもそのせい?」

「可能性は高いな」

「陳運は張黄と接触すると思う?」

 子陣が腕組みのまま、にやりとする。

「さあ、どうだろう。しかし、張り込みをする価値はある」

「子陣さんは、ここに張り込むの?」

 鼻筋が通り優しげな瞳の人は緊張した面持ちになった。

「名前を呼ぶな。恋人みたいじゃないか」

「へ?」

「お義兄にいさまと呼べ」

 確かにそうかもしれない。

「わかったわよ」

「記憶を失う人はいるというが、一般常識まで忘れてしまうとはな。礼儀作法を学ばせる必要がありそうだ」

 凜は肩をすくめてみせる。

「仕方ないでしょう。思い出すことはなにもないから、またひとつずつ覚え直すしかないのよ」

「その通りだな」

 彼は長い脚を椅子から伸ばすと、立ち上がる。

「ここに長居するのも怪しまれる。一度、やしきに戻ろうか」

「そうね」

 窓から通りを見れば、凜が買ったものを店の者たちが荷車に載せているところだった。子陣が青い顔をする。

「おい、ずいぶん買ったじゃないか」

「わたしのだけじゃなく、あなたのもお義父とうさまの分も買ったの」

「あなた? 俺はさっきなんと言った?」

「はいはい、お義兄にいさま。お義兄さま、お義兄さま。これでいいんでしょう!?」

 子陣が笑った。

「分かればよろしい。まぁ、着る物は多くても困らないからかまわないか」

 上から目線がどうも気に入らないが、南凜は子陣より五歳も若い。当然の扱いなのだろう。しかし、元の世界では二十八歳の派遣社員だった凜から見れば、子陣は年下だ。どうもしっくりこなかった。でも――。

「ありがとう」

「なにが?」

「絹を買ってくれたこと」

 実のところ、子陣は捜査にかこつけて誘拐された凜を励まそうと買い物に連れ出してくれたことくらいお見通しだ。凜に礼を言われ、子陣は珍しくはにかんだ。

「行こう」

 二人は階段を下りて、店主に礼を言い、外に出た。店の真ん前に子陣の馬車があり、二人はそれに乗り込む。椅子に座りかけた凜を彼が押す。

「ちょっと、そこをどいてくれ」

 なにかを見つけたのだろう。凜のしりを窓際の椅子から動かすように言い、窓の帳を少しめくる。

「見てみろ、凜」

 ちらりとのぞけば、小柄な男が背を丸めて店の裏手に小走りに走っていくところだった。

商賈しようこではないな」

 確かに見たところ、ごろつきのような鋭い眼で左右を気にしている。

「なに者?」

「……カタギではないのは確かだな」

 子陣は馬車の外にいる秦影に目配めくばせをした。彼は黙って頷くと、男の後を追って走っていく。

「わたしたちはこれからどうするの?」

「わたしたち? 俺は陳炭鋪の事件を追うが、凜は家に帰った方がいい。琴の練習はしなくていいのか」

「琴は記憶を失ってから弾けなくなったの」

「あまり出歩いていると、父上が心配する。邸で買った絹でなにを仕立てるか考えるといい。それか投壺とうこでもしていろ」

 投壺は花瓶のようなものに矢を投げ入れる子供の遊びらしい。凜は背筋を正すと断固として言った。

「この件はわたしに関わるものです。だからわたしも手伝う」

「一人で歩いて邸にも帰れないのに、まったく、どう手伝うと言うんだ」

 凜はにこりとする。

 馬車にぼんやり乗っているような女ではない。バスに乗っていた時も新しい店を必ず路線沿いに探したものだし、車の運転もできる。方向感覚はいい。

「成王府は佑聖観橋ゆうせいかんばしの側よ。ここへは邸から南にまっすぐ進み、四番目の道を右に曲がった。ああ、半円の橋もあったよね?」

虹橋こうきようだ。船が帆を畳まなくてもいいようにそうなっているんだ」

 凜は得意げな目をする。

「その橋の横の大通りをまっすぐ行くと、この店に着く。ちなみに南新街と入り口に書いてあった。これでどう? 歩いて家に帰れないお馬鹿さんじゃないでしょ」

「恐れ入るよ」

 本当は恐れ入ってはいないようだが、彼は窓から顔を出して指さしながら教えてくれた。

「あれは雲居山うんきよざん。あっちは鳳凰山ほうおうざん。鳳凰山の西に宮城があり、北に行けば役所街がある。杭州は水路がめぐらされた街だ。橋は山ほどあるが、どれも大きな船が帆を畳まずに通れる。迷わないように橋の名前を覚えておくのは賢い」

 ――京都が倣ったという長安ちようあんとはかなり造りが違う。京都の御所は街の北にあるのに。

 凜はやはりここは異世界だと思った。

「そのうち、涼しくなったら西湖せいこに行こう。船に乗れば楽しいぞ」

 西に少し行ったところにある湖が、この時代の人々の少ない娯楽地らしい。

「事件が解決したら連れて行って」

「ああ。父上やきさき方もお連れしよう。大きな船に乗って夕涼みするんだ」

「いいわね」

 しかし、今はそれどころではない。事件の真相はまだ謎のままだ。

 南凜はなぜ、あんな場所に行ったのか。

 誰かに呼び出されていることはわかっているとしても、誰とはわかっていない。そして面識のない陳赫となぜ一緒にいたのかも不明だ。

 全ては、本当に人さらいの一味の仕業なのだろうか。

 子陣は皇城司の長官として意地でも身内をかどわかした人間を見つけようとしている。

 南凜の身になにが起こったか分かれば、事件の謎が解ける。

「協力させて」

 ちょうど馬車は邸の前に止まる。

「南凜」

 子陣は面倒だとばかりに凜の腕を掴んで馬車から降ろそうとする。凜は意地でも動かずに両足を踏ん張る。

「危険なんだ。邪魔をするな」

「邪魔なんかしない。約束する」

 しかし、そこへ馬で現れたのは先ほど別れたはずの秦影だった。西の空は赤くなり始め、東の空にはもう夜の闇が立ちこめている時分だ。彼は素早く馬から下りると、胸の前で両手を重ねて頭を下げた。

「どうだった」

「動きがありました。陳炭鋪から店主の陳運が出てきました」

「どこに向かった」

「南天門方向に動いていますが、聞くところによると門の南、清湖せいこに陳炭鋪が所有している舟が常に停泊しているとか。舟で移動するかと存じます」

「しっかり追っているか」

 子陣が焦りをにじませた。

「はい。こちらの舟もすでに手配してあります」

 秦影は配下、百数十名を付近に配備したという。子陣が馬車から飛び降りた。

「行くぞ」

 振り向き、手を差し出す彼に凜は困惑した。

「へ?」

「行かないのか。凜が行きたいと言ったのに」

「連れて行ってくれるの!?」

「殴られたときに顔を見た者を思い出すかもしれない。ついてこい。でも俺からは決して離れるな」

 凜は顔を輝かせ、馬車から飛び降りた。

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