第一章 誘拐 ⑤

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 翌日の午後、凜は節約のため、好好爺こうこうやの成王にケチャップなしのオムレツを作って、ふくふくした体形で優しげな正妻の周妃と三人で食べた。

「西域の食べ物か。珍しいのぉ。まさか娘の手料理を食べられる日が来ると思わなかった」

 袖で嬉しさのあまり目頭をく成王は、やはり皇帝の息子として生まれた高貴な人だと凜は思った。上品で優しさを知っていて、血の繋がらない凜を大切にしてくれる。燕じいが金のことを相談できなかったのもわかる気がする。

「これから昼食は毎日、わたしが作りますから、楽しみにしていてください」

「おお、おお、嬉しいことだ」

 これで毎食二十七品あった料理を一品にできる。凜の脳裏のそろばんが「ご名算!」と声を上げた。

「父上」

 そこへ、子陣が、剣を帯びて現れた。成王に拝手し、オムレツをおかわりしている周妃にも礼をすると、また食べ終わっていない凜の金のさじを奪う。

「行くぞ」

「え、どこへ?」

「昨日言っただろう、協力して欲しいと」

 危なそうだからすっとぼけようと思っていたのに、成王まで余計なことを言う。

兄妹きようだい、仲がよいのはよいことだ。そうは思わぬか」

「まことに、まことに」

 周妃が同調したので、凜は味方を失って立ち上がるしかなかった。子陣がよそ行きの笑顔で凜の腕を取る。

「行くぞ」

 引きずられるように凜は成王府の門を出た。

 待っていたのは、三頭立ての豪奢ごうしやな馬車だ。馬車には金の飾りがあり、紺のとばり珠簾たますだれまでついている。それに従うのは、二十名あまりの護衛で、剣だけでなく槍も持っている。侍女の二人が柄のついた銅の入れ物に香をいて現れた。どうやら匂いをまき散らしながら進むらしい。郡王殿下のお出かけには、いつものことなのか、それとも今日が特別なのか。

 凜が子陣の顔色をうかがうと、彼は手を差し出した。

「乗れ。まったくお前は手がかかる」

 身を引き上げられ、半強制的に馬車に乗せられる。中には椅子があり、絹の帳が掛けられていた。

「出してくれ」

 馬車はゆっくりと動き出す。ただし、よく揺れる。サスペンションなどないから当然だが、コツがあるのか、子陣は全く揺れることがない。凜は右足で踏ん張り、左足で壁を押さえて、手はバランスを取るために宙に浮かせた。

「まったく嘆かわしい。成王の養い子だという自覚があるのか。それでは俺や父上が笑われる」

 子陣はあきれるが、凜はそれどころではない。

「もっとゆっくり行けないの?」

「これ以上ゆっくり行くなら馬ではなく牛を繋いでおくんだったよ、妹妹メイメイ

 ――嫌みな男ね。

 とはいえ、その空色の大きなうすぎぬの袍のせいだろうか。爽やかな笑みに癖のある口調も霞んでしまう。それに凜の様子を見ると、さすがに気の毒になったのだろう。

「ゆっくり行け。杭州一のお嬢さまを乗せているんだぞ」

 噴き出し気味にだが、馬車の帳を持ち上げて馭者ぎよしやに言ってくれた。

 揺れは少しおさまって、凜は動くたびに揺れる帳の向こうが気になり出す。

 ――街はどんな風だろう。

「わぁ!」

 そっと腕で帳を押しやって、凜は声を上げた。

 牛や馬が我が物顔で大通りを歩いていた。飼い葉を売る人もいれば、靴やくしを修理する者もいる。

 時代ドラマの舞台のような繁華な街がどこまでも広がっていて、凜は口を開けたまま窓から身を乗り出した。

 刃物を研いだり、鏡を磨いたりする人たちがいる。農耕具を背負った者たちはこれから仕事に向かうのだろうか。にぎやかな商売の声が響く。

 人々の顔は総じて明るく、うり茄子なすなどを売る者は田舎から出てきたのか、日焼けした顔を笑顔に変えて客に接するのは素朴でいい。

 大きな店の軒先には、家具や古道具の卓や縁台、折りたたみ椅子、衣架、木杓きさく、飯びつなどが所狭しと並べられている。僧侶が目指しているあの高い建物は、おそらく寺だろう。塔がある。

「赤い服のあの子供が食べているのは何?」

「サンザシあめだ」

「あの人は柱の側で何をしているの?」

「漆を修理している」

「あの奇妙な形のかぶり物は何?」

「……幞頭だ。官吏が朝廷で被る」

 馬車に同乗している子陣は始終指さして訊ねる凜にうんざり顔だ。

やしきで評判だぞ。お嬢さまの性格が変わったって。令嬢らしい言動がなくなったとな」

「前はどんなだったの?」

 凜が子陣の目を見て返すと、彼は少し考えた。

「以前は俺と目を合わせたりしなかった」

「そう? シャイだったの?」

「謝意?」

「なんでもない。それで?」

「普通、令嬢とは目上の者の目を見たりしないものだ。それなのにお前と来たらじろじろと遠慮なく顔を見る。使用人たちがおかしいと思っても不思議ではないさ」

 確かにそうかもしれない。凜は子陣を見て言った。

「気をつける」

「そういうそばから俺の目を見ているではないか」

 凜は首を傾げる。

「目上ってあなたも含まれるわけ?」

「当然だろう。俺はお前の義兄で郡王だ。敬うべきではないか」

 気が合うかと思ったのに、公平な立場ではないと言われると腹が立つ。しかし、今は長峰凜ではなく気弱な南凜である。

「わかった。でも代わりにわたしのことを『お前』っていうのをやめてもらえる?」

 じっと相手を見ると、子陣は手に持っていた墨で松が描かれた扇子をあおいだ。

「なんと呼んで欲しいのだ、妹妹」

 妹妹の部分が嫌みっぽく聞こえたのは気のせいか。

「凜さんと『さん』付けで呼んで欲しいの」

「さんはつけられない。居候さんとなら呼べるがな」

「失礼な人ね」

「なんとでも言え。それより、記憶を失ったにしろ、ずいぶんと反抗的なしゃべり方をするようになったものだ。これでは先が思いやられる」

 凜はあごを上げる。南凜について正直なにも知らない。

「じゃ、わたしがどんなだったら満足なのよ」

「そうだな――」

 南凜は人と話すこともできず、緊張すると手足が震え言葉に詰まることもあったという。特に、子陣のことを恐れて近くに寄ることすらできなかった。心の慰めはペットのアヒルで、彼女はどこに行くにも呱呱を連れていた。

「友達もいなかったのね」

「いや、永右相えいうしようの娘の永玉夏ぎよくかとは仲がよかったようだ。最近は見てないけどな」

「へぇ。ねぇ、右相っていうのは、なに?」

「宰相のことだ。実質この国で最も高位の臣下だよ」

 南凜はセレブの娘と友達だったというわけだ。

「以前の凜は礼にかない、行儀作法もいうところがない令嬢だった。だが、まぁ……今のお人形さんではない凜も別に面白いとは思うが」

 彼は窓の向こうをぼんやりと見やり、おもむろにぶっきらぼうにつぶやく。

「家の金のことは心配するな。なんとかする」

「わたしも手伝う。帳面を付けるのは少しわかるから」

「どうしたんだ。お前は計算など興味なかっただろう。出来るのか?」

「あれだけ困ってるなら、やるしかないじゃない」

「そうか……。父上は浪費家だが、それ以上に今年は飢饉ききんひどかった。税収は減ったし、民も支援しなければならなかったから、燕じいを苦労させることになったんだ」

 凜はうなずく。

「また追加で支援の米を送らないといけないことになるだろうし、しばらく凜にも肩身の狭い思いをさせるかもしれない」

「助けないといけない人がいるのなら、わたしが浪費している場合じゃない。お小遣いを減らしてもかまわないから」

 彼は微笑した。

「だが、今はそんなことより、お前を連れ去った連中を調べないといけない。かたきを取らなければ俺の気が済まないからな」

 皇帝が今回の事件を重く受け止め、皇城司の長官である子陣にさらなる調査を極秘で行うように命じたのだという。

「お前は手紙で裏門に呼び出されたのだろう。門の近くに争ったような足跡が残されていた」

「そうらしいね。殺されていた人のことで他に分かったことはある?」

「いや、あまりない。なにしろ父親である陳炭鋪の店主が捜査に協力的ではないのだ」

「なぜ? 息子が殺されたのなら、普通、犯人を見つけたいはずじゃない?」

「その通りだ。俺たちは店主のかたくなな拒否の理由を調べている」

 馬車が陳炭鋪と看板が高々と掲げられた店の前に停まった。しかし目指す店は陳炭鋪ではない。向かいの絹屋だ。

「どういうこと? 陳炭鋪に行くのかと思っていた」

「陳炭鋪を調べたいから、向かいの絹屋で二階を借りて張り込むことにしたのだ。凜の身の回りの品をそろえるという名目で予約してある。好きなものを選んでいいから、一階で絹を見て時を稼いでほしい」

「なるほど、だからこんなに随行の人が多いのね」

「名門の娘の護衛はそれなりに多いものだから、ちょうどいい。しかも、お前の姓は南だ。成王府の名前を出さずにすむ」

 馬車から降りると、店の主から使用人まで全て出てきて凜たちを出迎えてくれた。

 ――セレブ待遇だぁ。

 いつの間にか、子陣が連れて来た二十人ばかりの護衛は姿を消し、残ったのは長身細マッチョが一人。顔に傷があり、剣を片時も離さないので、子陣の部下なのだろう。

秦影しんえいと申します」

 ガン見した凜に向こうから名乗ってくれた。「影」という名前は彼にぴったりだった。黒髪に漆黒の目。全身黒衣で、子陣の後ろを歩く。

「凜です。よろしくお願いします」

 凜が話しかけると、子陣の大きな手が凜の後頭部をつかみ、自分の方へ回転させる。彼の顔は笑っていなかった。

 どうやら淑女たるもの不用意に男と話してはいけないらしい。凜はそれが面白くない。

「お幾つですか?」

 秦影にわざと話しかけると、秦影は子陣ににらまれて小さくなる。

「あいつに気があるのか」

「ただ話しかけただけよ」

「気があってもあいつとは身分違いだ。慎みというものも忘れたとはな、妹妹」

「だから違うって言っているでしょ」

 足早に店の前の階段を上ろうとする子陣を、凜は追いかけた。だが、店の中が七色の布であふれかえっているのを見つけると、彼のことなどどうでもよくなった。絹の輝きは宝石のようで、織物の技術の高さが窺える。

 上客が訪れると聞きつけた小間物を扱う店主も来ており、釵やら腕輪やらで店内はいっぱい。もちろん貸し切りだ。

「いらっしゃいませ、南さま」

 店主が手もみをしながら近寄ってくる。子陣は軽く頷いて凜に告げた。

「好きなものを選べ」

 おそらくきんが入っていると思われる巾着きんちやくを主人の手の上にどしりと置き、秦影を連れて二階へと行ってしまう。

 陳炭鋪を見張るために凜をだしにしてこの店に来たのだろう。

 ――いったい、あの巾着の中身は幾らくらいするのかな……。

 金が現在一グラム七千円くらいするのは、母からもらった金のネックレスを、パソコンを買うためしかたなく売ったので知っている。つまり、現代が金高だとしてもあれだけの金があれば、凜は山のように絹を買うことができる。

「こちらはいかがですか」

「どれも素敵!」

 金がないないと言う成王府の事情を知りながら買い物するのは申し訳ない気もしたが、おそらくこれは子陣のポケットマネーだろうと気づき、捜査費として使わせてもらうことにした。

「お嬢さま、これなどいかがですか」

 小葉は南凜の好みに合わせてか、地味なものを薦めてくるけれど、凜はこの南の国の空に合う鮮やかな色の絹がよかった。

 青や黄色、緑、目の覚めるような赤が美しい。

 凜は成王府の部屋にある青磁に似た澄んだ青の反物を選ぶと、耳を澄ました。二階はしんと静まり返っていた。

 ――なにを調べているんだろう。

 彼女は、改めて今回の事件について思いを巡らせた。

 ――それにしても陳炭鋪の店主はなにを考えているの? 息子を殺されたのに、捜査に協力したがらないなんて絶対おかしいでしょ。

 一度気になってしまうと、ショッピングどころではなくなる。採寸が終わるのを待って、子陣が張っている二階へと行ってみることにした。

 部屋に入ると彼は窓際に椅子を置いて外の様子を窺っていた。

「なにかわかった?」

「いや。宮廷に卸す荷を運ぶのを一度、見ただけだ」

 凜もとばりをめくって外を見た。向かいの陳炭鋪は固く扉を閉ざし、静まり返っている。時折、客が炭を分けて欲しいと頼みに来るが、戸を開けることはない。かといって、殺された息子、陳赫の葬儀のしたくをしているようにも見えず、もく芙蓉ふようが鮮やかな桃色に咲くばかりだった。

「確かになにかありそう」

 凜は探りを入れている子陣の部下たちが陳炭鋪の裏口を窺うのを見下ろした。

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