死の柱から
@ao-nori203
第1話
薄暗い森の中で身体を起す男が居た。足には朽ちた枷が嵌っている
横に倒れた死体のポーチから鍵を抜き取り、枷を外してフラフラと森を彷徨い出す。時折同じ格好をした死体に蹴躓き膝を擦り切らせながら森を進む
「……水だ」
泥水の溜まった水溜りを見つけ口に含んだとき水面の縁に蝿の集った人間の頭部が視界に入ったが気にせず啜り続けた
「どうしてこうも寒いんだ……ここどこだよ、気味悪いな」
濃い霧が立ち込める森の中、あるものが目を引いた。幅1メートル、高さ2メートルほどの岩だ。周りには痩けた土が殆どだが、この岩は異質に感じられた
「氷か…いや。硝子の粒か?」
拭った岩肌から手に貼り付いた結晶を払い辺りを見回す。暗さに目が慣れつつあるが先の木の輪郭もおぼろげな姿だ
その中で何かが蠢いている事に気が付いた。人間のシルエットがフラつきながらゆっくりと迫ってくる。少し声を抑えながらそのシルエットへと声をかけた
「大丈夫か? ……怪我をしてるのか?」
駆け寄った彼の胸により掛かった女の腕は小さく震え、小さい声を短く発している
「……ひどい怪我だ、随分と膿んでーー」
掴み上げた腕の傷口には蛆が集り、持ち上げた衝撃で蛆溜まりが足の上へと落ちる。蛆が抜け落ちた腕は張りを失い、大きく窪んでスカスカになっていた
「ーーえ?」
至近距離で目にした彼女の顔の半分は腐敗し崩れた黄ばみきった白目が首筋を じっと見つめている
呆気に取られたその一瞬に、既に女は鋭利な歯が生え揃った口を大きく開き首を齧ろうと顔を寄せていた
「ぬぅ……!」
咄嗟に左腕で首を守ったが、代わりに齧られた腕からは啜りきれなかった血が滴り落ちている
辺りを確認し退路を探すと、状況が更に悪い事が判った。蹴躓いた遺体も同様に蠢き、同じ怪物が何体も集って来ようとする最中であったからだ
右手で左手首を掴んで、噛み付いた怪物を奥へと押しやりつつ距離を取った。木の幹に叩きつけると軽い音が鳴り、真っ黒な血液が滴るのを股の間から見てしまった
「気色が悪い……!」
臓器の一部が混じった、その血溜まりを踏みしめながら、腕を徐々に押し続ける。
石膏にヒビが入った時の様な軽い音と共に次の手を打つ。下顎に手を掛けて首元に押し込み、外した顎骨を払い、側頭部を拳で殴り飛ばしたのだ
「うぅ……!」
男が膝に噛みつき、彼は堪らず片足を地面に預けた。周りの怪物達は先程の数倍の速度で這い回っております、少しの距離など、なんの意味も持たないと判る動きだ
目を動かすだけの間に、背中にしがみつかれた。至近距離で大きく映る腐った顔面がこの世で見る最後の景色であると確信した
遅く流れる景色の中、細長い物が視界の端から中心へと現れる。その影が額を貫くとともに微細な飛沫が舞った
衝撃で引き剥がされた怪物の逆方向に視線をやる頃には、馬に跨った革マスクの人物が足元の怪物に剣を突き立てていた
「早く乗れ。食われて死なれるのは目覚めが悪い」
怪我した腕を構わずに伸ばすと馬の鞍の揺れを感じた。さっきまでそこにあった地獄を置き去りにした
餌に逃げられた怪物たちは、金切り声を上げてばかりで追い回すことはしなかった。呆気に取られていると、徐々に腕と膝の傷が、熱を持ち腫れ始めているのを感じた
「丈夫なやつだ。鞍袋に処置袋がある。……その腕じゃ無理か。少し待ってろ、直ぐに霧を抜ける。……質問は後だぞ。先ずは逃げ切る事に専念しよう」
後ろを見ると赤い瞳の残像が糸を引きながら揺れ迫っていた。先程の怪物たちよりも素早く攻撃的だと言うことは、後ろから鳴る 多くの短くて軽い足音が教えてくれた
「お前は落ちない様にしてろ。直にギャップに着く」
見事な操馬術だった。道に横たわる怪物や廃材をスルリと抜け続けて、辺りの霧が赤く染まりだした頃に安堵した溜息が聴こえてきた
生き延びたのだ。そう思ったとともに、指の力が緩みバランスを崩しそうになった
まだ早いと胸ぐらを掴まれたまま霧を抜け、馬が止まるとともに、背の低い草原に背を向けて倒れ込んだ
「見た目は酷いが、死にはしない。軽く処置をするが、動き回ると傷が開くから、耐えて」
軽くと言っていたが、首にぶら下がっていた懐中時計では既に1時間以上は過ぎていた。
その間気絶していたせいで、短針が一瞬で1目盛り進んだように錯覚したが、軽い処置で済んでいない事は自らの返り血で汚れた目の前の人物の姿を見れば明らかだった
「おい。聴こえてるか? 脚の方が思ったよりも酷くてな……一瞬死んだと思ってビビったよ。医薬品なんて貴重な物まで使って死なれたら損だし」
「……ありがとう。ところで、この後はどうするんだ」
「移動はせずにここでキャンプをする。さっきの奴らは気にするな、霧の中から出てきた事は知る限りない」
手早く焚き火を設営したのだろう、一瞬眠って起きた時には、マスクをつけたままコーヒーを啜っていた
「お。まったく、眠ったり起きたりと忙しいやつだな。……まぁ食うと良い。口の中パッサパサになるが栄養はある。……飲み物が先か」
「あぁ……すまない。いただくよ……ところであれはなんだ。あんなのは見たことがない」
「今までの事を覚えているのか? 名前は?」
「それは当然……妙だな、あれ?」
「随分と霧に晒されていたらしい。記憶障害が起きてもおかしくはない。お前を食おうとしたのはカニバルと呼ばれてる」
「どうしてあんなものが居るのかと言う質問なんですが……」
「あぁ。よく知らんが、一つだけ知ってる事実ってやつはあるよ。アレのせいだ」
指さされた空を見つめると、妙な景色が広がっていた。抜け出た霧がこのキャンプを避けるように晴れており、目の前の白い壁が天高くまで伸びている
その壁は空の果てに向かってゆくと共に細くなっているが端が見えないほど高く伸びている
「コイツのせいで色々変な事が続いてる。まぁ、コレのおかげで階級制度が崩壊し貴族連中は北へと逃げた、自由とは素晴らしいものだ。お前もそうだろ? その脚、枷で痣になってる。近くの鉱山に送られる予定だったのかもしれんが、あの身のこなしからして剣闘士用だったりするかもな」
「そうかも……ところで北には何が」
「聖地ヴェルナとか呼ばれる安住の地があるとか無いとか、日頃遊んでる連中の脳味噌は単純愉快で羨ましい。……なんだその顔。あぁ、いいや無いよ。そんな楽園はこの世に無い。聖書に書かれてる夢想の産物さ」
「……なんで助けてくれた?」
「質問攻めだなぁ……はは。まぁ……可能性が高いからさ。詳しくは明後日くらいに詳しく説明してくれるよ」
「とにかく、災難だったな。今は休め明日は遅めに出発する予定だから、極力長く休むに越したことはないだろう」
「……そうだね。」
手元の半開きにした小説を見ると察したかのように男は飲み物に口をつけた
冷える外気に吐かれた白い息を目で追い、煌めく星と白い柱の様な煙を眺め続けた
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