郷愁擦過

彼方セカイ

第1話

 正午を過ぎた十二月の公園にはその日一番の暖かな日が差したが、それでも真夏の彩度には遠く及ばず、北欧の絵画のように暗く凍てついていた。

 北風に身体を丸めながらベンチに腰を降ろすと、普段よりも強く心臓が脈打っていた。駅から休まず歩いてきた身体はコートのなかでじんわりと温まっていた。耳を裂き、カシミアのストールの僅かな隙間から侵入してくる風をなかに送りたくて俺は、コートの胸元を掴んで引っ張った。

 日曜日の公園は、大いに賑わっていた。散歩に来た老人や外廻りのサラリーマン、テニスを楽しむ中年女性、自重トレーニングをする若者などが、多種多様な人間が共存するなかで人目を引いている。そのなかでも一際目立っていたのは子供達だった。彼らは自分たちが日曜日の主人公とでも言うようにけたたましい奇声をあげて走り回っている。危険を知らない無邪気な様子はこちらが心配になってしまうほどだった。

 いったいどこにあんな元気があったのだろうか。彼らを見ていると、自分もかつて同じ子供だったことが信じられなかった。

 無尽蔵なエネルギーに一歩引いて見てしまっている自分に気づいたとき、ふと淋しいと思った。

 遠くで談笑しながらも子供たちに目を光らせる女性の集まりを横目に、スマホを取り出す。一時十二分。待ち合わせの時間まであと十八分ある。アプリを開くと今電車に乗ったという友人からのメッセージが五分前についていた。

 返信せずにそのままスマホをしまい、代わりにコートのポケットから文庫本を取り出す。本を持っていれば、空いた時間は退屈ではなくなる。俺はもう片方のポケットに手を突っ込んでウォークマンの電源をつけ、そこで絡まっているイヤホンを取り出した。

 耳につけようとしたところで、手が止まった。

 赤いコートを来た女の子が宙で揺れていた。

 遊具の群から離れたところにあるブランコに女の子がいた。彼女は遊ぶには物足りない加速でブランコをこいでいる。その隣はおろか、周辺には誰もいない。

 俺は彼女を見たことがある。なんとなく、そう思った。

 公園と言ってもそこはほとんど自然公園のようなものだった。危ないからという大人たちのくだらない理由で昨今は自分が子供だったころよりも遊具が少なくなっている。この公園はまだマシなほうだったが、ジャングルジムやシーソーはなく、かわりにテニスコートやゲートボール場が隣接し、それらを植林された人工的な自然が覆っている。そのなかの数少ない遊具で一人になっている彼女のシルエットは、痛いくらい目を引いた。

 赤い小さなコートとクリーム色のミニスカートに黒のタイツだけという寒そうな格好に、思わずストールを巻いてあげたくなる。もし俺が彼女と同じくらいの年齢なら隣に座って話し相手になってあげただろう。しかしすっかり大人になってしまった俺はそんな簡単なこともできなくなってしまった。

 しばらく彼女を見ていると、忘れていた記憶が蘇ってきた。そうだ。彼女も同じようにあの日、一人で寂しそうにブランコをこいでいたっけ。

 ほとんど溶けてしまってどこにいったか分からなくなった飴を舌を伸ばして味わい確かめるように、俺は確かにあったはずの記憶を思い出した。



 それは十何年も前の四月のことで、当時俺は小学三年生になったばかりだった。

 小学三年生といえば一年前にすべての土曜日が休みになり、ポケモン金銀をやりつくして飽きていたころだ。そして両親の離婚が決まった年だ。

 

 当時の俺は両家に板挟みにされ、今まで当たり前だったことに集中できず、地に足のつかないふわふわとした生活を送っていた。時代と田舎というせいもあってか、長男の俺をめぐって両家で親権の争いをしていた。

 帰る家が二つあった。父親の実家の隣に建てた家があったので、当然それまでは学校が終わるとそこに歩いて帰っていたが、母親が家を出てからは週の半分くらいは彼女の実家に帰っていた。

 帰る家が分からなくなることもあった。そのときの不安と苛立ちをどうしたらいいのか俺は分からなかった。家に帰るというごく当たり前のことだけでも、俺は小さな頭をいっぱいにさせたものだった。

 もっともまだ小学三年生だった当時の俺には、大人の思惑や事の重要性をしっかり受け止めて考えることができなかった。だから仕事終わりの母親を学校で待っている時間は楽しい時間だった。

 放課後はバスの時間まで待機しているバス通学の子供達と、学校の近場に家がある子供たちが運動場で居残って遊んでいた。父親の実家はバス通学にはぎりぎり足りないくらい遠かったので、時間いっぱい遊んでいる彼らがうらやましかった。

 俺はいつも上級生に混ぜてもらってキックベースをしていた。同級生に外で遊ぶのが好きではない子が多かったというのもあるが、なにより身体が二回りも大きい彼らに思い切りぶつかりたかった。その瞬間だけは、あらゆる抑圧から解放されていた。

 母親が迎えに来るのはかなり遅かった。仕事が終わるのは十八時で、働いていた場所は学校よりも少し遠かった。四時を過ぎるころにはすべての子供たちは下校する。彼らがいなくなると、舞い上がった土煙が落ち着きはじめ、コロッセオよりも賑わっていたグラウンドは途端に静かになった。退屈な時間がはじまるが、そのときの俺は一人ではなかった。


 茜色の夕日が射す放課後の学校に彼女はいた。彼女は一つ年上で、少し背が高い女の子だった。話したことはあるが、特別仲がいいというわけではない、そういう子だった。

 彼女はグラウンドの隅にあるブランコに乗っていた。全力で遊んでいながらも横目に彼女の存在を確認していた俺は、一人でブランコに乗っている彼女の姿が気になっていた。

 みんなが帰ってもブランコをこいでいる彼女に話しかけた。

 帰らないの? と聞くと、彼女は帰りたいけど帰れないのと答えた。お母さんの仕事が終わるのを待っているのだと言う。俺も待っていると答えると、彼女はまるでドラマのワンシーンのように辛いねと言った。

 俺は吹き出しそうになるのを我慢した。彼女の大人を模倣したような言い方がどうにもくすぐったかった。その頃は妙に大人を意識しだした年齢だったから、彼女のように無意識に背伸びをした言動をする子がいた。俺はそれを見るたびに昨日まで母乳を飲んでいた赤子が突然酒を飲みたがるように思えてならなかった。

 それを強調するように、彼女が着させられている学校指定の制服は少し大きく、ブランコの鎖を握る手をブレザーの袖が呑み込んでしまいそうだった。俺の制服も成長を見越してあらかじめ大きいサイズを用意していたが、制服を新調したばかりの彼女とは違い少し窮屈になっていた。

「まあ座りなよ、暇つぶしになるよ」

 彼女に促されたので隣のブランコに腰掛けると、目線が下がるのと同時に視野が広くなった。

 そこからは学校全体が見渡せた。遠目に見てもすす汚れで白には見えない外壁に、いつまで経っても二分早いままの時計を内包した校舎が、遊具よりも樹木が多いグラウンドを見下ろしている。スカスカになった桜の木が端から端まで間隔をあけて生えている。その間隔が驚くほど均一なことにも、桜がすべて散ってしまったことにも、俺ははじめて気がついた。


 俺は足を折り曲げてブランコを漕いだ。だんだんと勢いが増してくるが、それを抑えることはない。

「危ないよ」

 隣で彼女が言った。

「危なくないよ」

 俺は漕ぎ続ける。そしてもうすぐで一回転してしまいそうな勢いになったところで手を離した。

 ブランコのエネルギーを感じた瞬間身体が宙に投げ出される。そこでは俺は無防備で、着地の準備をすることしかできない。校舎まで届きそうだと思えたのはほんの僅かな時間だった。足の裏で滑るように着地すると、土煙を巻き上げながら両手を広げてバランスをとった。

 振り返ると彼女は驚いて身を外側に寄せていた。立ったまま着地するのはなかなかできる人間がいなくて友達のあいだではできるやつの証だった。しかし彼女にはその凄さが分からないようだった。

 乗り手を失ったブランコが予測不能な動きをしていた。彼女に当たってしまうかもしれないと思い、すぐに戻って鎖を捕まえた。

「危ないからじっとして」

 ブランコに再び身体を預けた俺に彼女は言った。

 俺はおとなしく揺られていることにした。

「どっち?」

 しばらくすると彼女が言った。見るとそれが当たり前のような顔をしている。彼女の言いたいことが分からなかったので言い淀んでいると、再び彼女のほうから口を開いた。

「お母さんとお父さんどっちにつくの」

「分からないよ」

 言いながら、ようやくそこで彼女の言いたいことを理解した。でも何故わざと分かりにくい言い回しをするのか理解できなかった。「どっち?」という一言で離婚後の扶養先を答える人間は限りなく少ないだろう。

「分からないの? 自分で決めなよ」

「たぶんお母さんについていくよ」

 俺は不用意に押された意思のない子供の烙印を消したくて言った。両親のどちらについていくかなんて本当は決まっていたのに。

「たぶんねえ」と彼女は含ませるように言った。それから考えても仕方がないというふうに「まあいいんじゃない」と言った。

 俺は彼女のセリフを何かの映画で見たことがあるような気がして頭のなかにある記憶を辿った。

 俺は彼女に話しかけたのを後悔していた。彼女とは委員会で一緒になった際などに話したことがある程度であまり仲がいいわけではなかった。彼女は校舎ともグランドとも言えない一点の空間を見つめていて、彼女と目が合うことはあまりなかったから、だんだん迷惑しているんじゃないかとも思えてきた。でもすぐにそれは杞憂だったことが分かった。

「私もママかな」

 彼女は聞いてもいないのに話し出した。

 俺は黙って話を聞いた。彼女は短時間で多くのことを話す天才だった。

 彼女も俺と同じで両親の離婚が決まっていて、仕事終わりの母親が迎えに来るのを待っていた。離婚の原因は父親の浮気ということだったが、彼女曰く、母親もしているとのことだった。彼女の祖父母はどちらも優しくて、何故そういうことになってしまったのか分からないと彼女は言った。将来や両親のことよりも転校先の学校が一番不安だとも言った。彼女の口からは一度話し出すと止めどなく言葉が溢れた。

「本当は仲良くしてほしいんだけどね」

 最後に彼女が言ったとき、一瞬目が合った。

 しばらく俺たちは黙ってブランコを漕いだ。

 なんとなく彼女の不規則なやる気の無いペースにあわせてこいでいると、背後からひそひそ話をする声が聞こえてきた。 学校を覆うようにして囲っている木々の向こうの道路で三人の女の子が歩いていた。生徒は皆帰ったと思っていたけれど、まだ残りがいたのだ。

 木々の隙間から一人の女の子と目があった。一つ年上の細田美佳という女の子だった。足が速くて、出っ歯で、嫌みな子だったからよく知っている。

 彼女達はひそひそ話と言ってもわざと俺たちに聞こえるように、あいつら付き合っているなどと言って笑いながら帰って行った。

 かあっと顔が熱くなるのを、彼女の冷たい声が防いだ。

「気にしない方がいいよ。疲れるから」

 彼女は眉一つ動かさず、虚空を見つめながら言った。

 俺は何も言わなかった。

 今度は模倣ではなかった。それは強がりではなく、どちらかというと呆れに近いものだった。

 先ほど心の内で笑っていた彼女が急に頼もしく思えた。そして彼女の心の底から出た言葉の鋭さに、嘘や偽りとは一番遠いものを感じて親しみを覚えた。

「なんで仲良くできないんだろうね」

 彼女は少し俯いて息を吐いた。言葉と同時に少し多めに吐き出されたその息は、きっと心の内から出たものだった。それに釣られて俺は、

「なんでだろう」

 と、本当に思ったことを言った。

 どういうわけかこの世界はなんでだろうと思うことがたくさんあった。教科書ではほとんどの問題は解決するのに、身の回りで起きていることは解決しようがない。どうして人は意地悪をするのか。どうして人は仲良くできないのか。どうして両親は離婚するのか。どうしてそんな両親のもとに生まれたのか。どうして自分は存在しているのか。考えてもきりがないほどだ。

 俺は彼女に自分のことを話した。家の話をしたのは彼女がはじめてだった。彼女はよく喋る女の子で、一度話し出すと止まらなかったけれど、そのときは黙って俺の話を聞いた。

 彼女とは多くの共通点があった。それは両親が離婚することや母親についていくことから始まり、自分のことを友達にあまり話さないということや、はやく大人になりたいということ、最初のポケモンは草タイプを選ぶことなどにまで及び、俺は自分と同じような思いをしている人間がいるという喜びを知った。残念ながら転校する小学校は一緒じゃなかったけれど、彼女がいなくなるまでのあいだ静かになった放課後の時間は退屈しなくなった。

 日が落ち始め、足元が暗くなると職員室の明かりだけが校内に灯った。学校に残っている先生の影が時折窓を行き来する。それを見つめながら俺たちはブランコを漕いだ。まだそこには届かないけれど、いつかきっとそこにたどり着けることを信じて俺は、加速する勢いを殺して力を溜めた。

 

「来たかも」

 彼女が言うと背後で車が通り過ぎ、隣の幼稚園の駐車場で止まった。そこには運動場から出入りできるため、俺の母親も迎えにくるといつもそこに車を止める。

 彼女の母親らしい女性が車から出てきた。首を長くして学校を覗き込む。

「ママだ」

 彼女は母親に手を振った。母親も手を振り返す。

 俺は何かを言おうとしたが躊躇った。おそらく誰よりも早く家に帰ることを望んでいたはずなのに、彼女がしばらくその場から動かなかったからだ。

「ごめん、迎え来ちゃった。先に帰るね」

 彼女はずっとその身を預けていたブランコから立ち上がり、側に置いてあった赤のランドセルを拾い上げる。

 彼女は振り返った。

「もうすぐ暗くなるから気をつけるんだよ」

「うん」

 俺はうなずいて、手を振った。「またね」

 彼女ははじめて頬を緩ませた。

「またね」

 彼女は胸の前で小さく手を振ると、母親の元に向かって駆けていった。



 公園では相変わらず子供が奇声をあげて走り回っていた。

 電話が鳴っていた。

 コートからスマホを取り出すと、友人からだった。画面の右上に、十三時三十三分と表示されている。

 俺は開いてもいない文庫本をしまい、イヤホンを耳の穴に押し込んだ。立ち上がり、踵をかえして歩きだす。

 ブランコの彼女の方を見た。彼女は依然として遊ぶには物足りないスピードで宙を行き来している。そのシルエットはかつて同じ学校の生徒だった女の子とそっくりだ。


 俺はあの四月の記憶を今でも覚えている。ほとんど散ってしまって裸のようになった桜の木も覚えているし、十七時を過ぎると途端に陰になって肌寒くなった空気も覚えている。運動場の舞い上がった砂埃の匂いも覚えているし、意地悪な女の子の出っ歯も名前だって覚えている。でも隣でブランコをこいでいた彼女の名前は、思い出せない。

 彼女はいまどこでなにをしているのだろう?

 十二月の午後の公園をあとにしながら、名前も分からない彼女のことを想った。彼女は本当に存在していたのだろうか。

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