作品3『かすみ玉』

安乃澤 真平

作品3-1

 商店街の一画にある喫茶ア・ジョージは、今昼休憩の最中である。この店の店主は妻を食材の買い出しに走らせる一方で、午後の開店に備えて仕込みをしていた。予約に予約が重なりコースの準備に忙しなく、悠長に昼食をとっている時間はない。包丁がまな板を打つ音や、皿の打ち鳴る音がしきりに響いている。


 すると、その作業を遮るように電話がなった。店主は やれやれ と思いつつ、水気を軽く拭いた手で受話器を取り お電話ありがとうございます などと慣れた挨拶を告げた。しかしそれを全て言い切る前に、電話の主が話し始めた。



「お前の妻を預かった。」



 料理に明け暮れ、頑固に生きてきた店主である。妻を妻と呼ぶことはない。そもそもプロポーズだってまともにしていない。だから電話の先から つま と聞こえても、それが

妻 のことであるとすぐには気づかなかった。


「はぁ。」


などと気の抜けた返事しか出ない。電話の主は再び、


「お前の女だ。妻だ。今しがた預かった。」


と語気を強めた。


 刑事ドラマで見るような電話。いざかかってきてもその被害者のように取り乱す店主ではなかった。ただのいたずらと思ったからである。


「返してほしければ3億円用意しろ。猶予は1週間。せいぜい急ぐんだな。」


 電話の主はそう続けた。身代金を目的とした誘拐犯であるらしい。料理に忙しい店主は、持前の強気でそれをあしらった。

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