10:猫になりたい
愛知県に入り、しばらく走った道中でのこと。
助手席の窓から、ぼーっと終末の景色を眺めていたアヤカが、それに気がついた。
「猫がいる……」
「え?」
アクセルをゆるめ、アヤカの視線の先を見ると、黒白のぶち猫が道路の向こうで歩道に座り、あくびをしている。
「へえ……珍しいな。まあ、生き延びた飼い猫が、まだいたんだろうな」
「違うの。さっきから、いるの。いっぱい」
「あ、ほんとだ」
猫への餌付けを禁止し、世界で初めて野良猫がいなくなった国として有名な日本では、今では室内で飼われている個体しか見ることはない。なのにこの街では、あちこちで猫がウロついているではないか。
「可愛いな」
「うん、すごく、可愛い。……でも、この子たち、どうやって生きているのかしら?」
「犬と同じように、野生化したんじゃないの?」
「世界中にいる猫って、イエネコって言って、狩りなんて、もうできないのよ。人間にごはんをもらうしか、生きてゆく方法はないの」
そうなんだと頷く。野良犬に襲われ続けたせいか、アヤカは犬は怖いようだが、猫は好きのようだ。
猫の数はどんどん増え、道路の上で寝転がったり爆睡するようになった。その光景に唖然としながら、轢かないようにゆっくり走ってゆくと、道から少し外れた先に、煙が立ち昇っているのが見えた。
「あそこに、誰かいる……!」
間違いない。生き残りだ。まだ他にもいたのだ。
一旦車を止めて、どうする? とアヤカに聞く。
ちょっと待ってと、カーナビの操作をし、大丈夫そう、とアヤカは言う。
「この車、あそこに立ち寄ってる履歴がある」
不安を感じながらも、僕らはそこに近づかずにはいられなかった。
田んぼの中に現れたのは、高い塀に囲まれた豪邸であり、広い庭には竹林が見えていた。
開け放たれている立派な門の前の路上で、ドラム缶で焚き火をしている人物がいて、近づいてくる僕らのキャンピングカーに気がつくと、笑顔で手を振ってくる。
「あれえ? アカリじゃない……?」
車を急停車し、アヤカとふたりで情けない声を漏らしたのは、サングラスをかけた背の高い女性が手にしていた長いものが、銃だと気がついたからだった。
「へえー、子供じゃん。……あなたたち、アカリのとこのひと?」
通りのいい声が、開けたままの窓から聞こえてくる。僕が首を振ると、女性はレンズ越しの見えない目つきを、すっと険しくしたような気した。
「この車、どうしたの? 乗ってた女のひと、あなたたちが、どうかした?」
銃口を向けはしないが、大きな猟銃を軽々と担ぎ、首を傾げるように覗き込んでくる女性は、妙に肌が露出したレザーの上下に、編み上げのブーツと、開拓時代のアメリカ映画にでも出てきそうな、ワイルドな恰好をこざっぱり着こなしており、なんだかえらく迫力がある。
「……あ、あの、この車、道に捨ててあって、誰も戻ってこなくて……」
「ねえ、あなたたち、どこから来たの?」
サングラスを指で上げながら聞いてくる女性。そこには、はっとするほどに美しい、僅かに内斜視の大きな目が現れた。
東京ですと答えると、京都じゃないんだ、とつぶやく女性は、なぜか僕から目をそむけ、アヤカを見ている。
「猫、あんなに……」
緊張を通り越して、緊迫していた僕の隣で、アヤカがあさっての方向を見ながら、興奮した口調でつぶやく。
女性の背後、屋敷の敷地内には、もう至る所に猫がいて、寝るなり伸びるなり転がるなり、好き放題している。
「猫、好きなの?」
女性が僕越しに聞くと、好きです! と快活に答えるアヤカは、星空や富士山を眺めていた時のように、目を輝かせている。
「見ていく? 膝にも背中にも乗っかってくるよ」
女性にそう言われたアヤカは、脇目もふらずに車から飛び降り、促されるまま家の敷地までついていってしまう。
「ちょ、ちょっと待って……」
「ふんふん。あなたたちも、電気が使える家を見つけて、生き延びてたんだね。アカリたちの、京都の拠点もそうだって。ないと、なにもできないもんね」
「こんなに大きな家じゃないですけど……」
広い芝生のある、庭の木陰のテーブルで、僕は女性と話をしている。
女性がひとりで住処にしているというこの家は、規模といい広さといい、ちょっと豪華過ぎて、なにか尋常でない感じさえする。
「あの、さっきから、アカリさんってひとの名前が出てきますけど、あの車の持ち主なんですか? そのひとは、京都に住んでて、そこには他にも、生きてるひとがいるんですか?」
出されたコーヒーを飲みながら、質問を返すと、女性は掌を向けて、まあ待てと言う。
「お互い、聞きたいことはいっぱいあるだろうけど、ゆっくりやろう。世界は終わったんだし、時間を気にする必要もないでしょ」
はあと答え、ちらりと庭の先を見ると、アヤカが猫に囲まれ、膝に乗られたり、甘噛みされたり、体当たりされたりと、思う存分じゃれつかれている。やられているアヤカの顔には、見たことのない満面の笑みがこぼれ、少しおかしくなっているのがわかる。
「それにしても、まだこんなに、猫がいたんですね」
「あたしがあっちこっちから拾ってきたの。ひとがいなくなっちゃってからすぐに。家の中やペットショップとかで閉じ込められてた猫を、探せるだけ探して」
ようやく見つけたこの、もうひとりの生き残りは、なんというか、かなりの変わり者のようだ。
「あれって、ああいう風にじゃれるように、しつけてあるんですか?」
「いじめなければ、猫は勝手にああなるよ」
海外の動画などで見る、警戒心のない猫の姿そのものだった。
「外に出しちゃって、逃げたり、どこかへ行ったりしないんですか?」
「猫は外出するものなの。人間もそうでしょ。夕涼みしたり近所にお邪魔したり夜に集会に参加したり。でも、追い出したって締め出したって、あいつら帰ってくるよ」
へえと頷く。昔の漫画には、そんな様子の猫が描かれていた気がする。
「以前は日本でも、みんな放し飼いしてたし、ごはんをもらう野良だらけだったの。何千年も前から、人間と猫はそういう関係だったの。でも、自分の理想通りに、何かをいきなり変えたがるひとっているでしょ。そういうひとたちが規制させちゃって、見なくなったよね」
椅子にもたれて、長い足を投げ出している女性は、印象的な笑顔をずっと浮かべ、なにかとても愉快そうに話す。
「ま、そんな中で、人間いなくなったじゃん。好きなことできるじゃん。こりゃチャンスだわと、閉じ込められてた子たちを集めて、念願だった猫との暮らしをしてるの。思わぬ効果で、ネズミよけにもなるの」
なるほどと頷く僕。これだけの数のご飯はどうしてるんですかと聞くと、キャットフードはみんな保存が利くので、山のように溜めてあるよと女性は答える。
「ここ、すごいですね。建物もそうですけど、発電と蓄電の設備も立派で。僕らのいた東京の家は、雨になると一日くらいで蓄電が無くなってました」
「節約して使えば、何日でも保つよ。なによりさ、井戸があって、電動でも手動でも汲み上げられるから、風呂にも洗濯にも困らないの」
そんなのあるんですかと驚く。一体どういう家なのか。
「最悪、立てこもれないと、いけないからね」
「立てこもる?」
「ここ、極道さんの、組長さんの家」
やたらと高い塀と、頑丈そうな建物の作りに納得させられる。
「家の中、すげーもん色々出てきたよ。その中のひとつが、この猟銃。今はすっかり猫屋敷にしちゃってるけどね」
家の中には壺やら提灯やら日本刀やら、なんだか不穏な物が目についたけれど、もれなく猫が乗っていたり入っていたりしたので、怖い雰囲気はそう感じられなかった。
「妹さん、猫好きなのね」
「あ、妹じゃないんです」
「あら、そうなの? いやだ、あなたたちそういうカップル? お姉さん興味しんしん~」
はしゃぐ女性に、これまでの流れをざっと説明するが、ほんで? それからどうした? などと、受け答えが子供じみていて、最初の怖さはどこかへ消えていたけれども、代わりに若干イラっとしてきた。
「アヤカが言ってたんですけど、猫は犬が天敵だって……」
「そうだよ。だから、あたしがこいつで、野犬追っ払ってるの。当てたことはないけどね。今ではこの近所に近づいても来ない。犬って頭いいよね」
映画でしか見たことのないショットガンをひょいと持ち上げて言う。様になり過ぎていて怖い。
「この子たちがいる限り、死ねなくなったから、まあ、生きられるだけ生きてます。たまにこうやって、お客さんが来てくれるしね。……あなたたちにもさっそく、付き合ってもらうわよ」
「え? 付き合うって、何をですか?」
「……君、いくつだっけ?」
「じゅ、十九歳」
「全然大丈夫だわね」
女性の名前を聞くと、ココだと答えてくれた。年齢も尋ねると、なんだか曖昧にごまかされ、なぜかアヤカにつねられた。ココはこの家を、橘屋敷と呼んでいた。
橘屋敷のリビングには、本革のふかふかなソファに、自然木のような一枚板のテーブルが、本物の毛皮の絨毯の上に据えられていた。
「わかるかなあ……、この、神がかり的な品揃えを。もう犯罪よ、犯罪。このへんなんて、レストランで頼んだら、ボトル十万円じゃきかないわよ?」
酒飲もう、と言われて、席についていたテーブルの上に、ずらりと並べられたワインの数に、僕もアヤカもぽかんとさせられる。
「ワインセラーがあってさ。どうもここの組長さん、ワインにうるさかったらしくて。そりゃお金も暴力もあるもん。とんでもないのが揃ってたのよ。酒好きのあたしゃ、もう神様に感謝しながらいただきましたよ。で、すぐに気がついたの。ここだけじゃなく、街中の、日本中のいい酒、飲み放題じゃん? って。翌日からもう、猫と一緒に、デパートやら酒屋を、酒を探して回りっぱなし」
銘柄や葡萄の種類ごとの説明をされるけれど、未成年の僕らがわかるはずもない。ご飯も出してくれたのだけど、チーズやらハムやらと、ワインのつまみにしか見えないものばかりだった。
「食べ物はどんどん劣化してゆくけれど、酒はそうじゃないの。ものによっては逆なの。ワインとか醸造酒、それに泡盛なんかの蒸留酒は、時間が経つほど美味しくなるの。冷蔵庫なんかない時代からそうだもん。酒倉庫に使ってる地下室、もはや宝の山よ。それをこの先もずーっと、あたしが独り占めして、飲み放題なの」
けけけと笑うココに出されたワインを、薄くて大きなワイングラスで飲んでみる。隣を見ると、アヤカもそっと口をつけている。
「あら、飲めるわね。その歳で感心感心。飲んでたの?」
「いえ、全然……。だって、これ……」
飲んだことがないわけではないけれど、今飲んでいるものは、僕が知っているものとは、全然違う。
「これ、濃いブドウジュースですよね? なんか全然、甘くないけど……」
アヤカがほっと息をついて言う。ココの頬が緩む。
「いいねえ~そのリアクション! そういうのを聞きたかったの」
酒とは、飲みにくいものではなかったのか。これなら、子供でも飲めそうだ。水よりも飲みやすい上に、とんでもなくいい香りがする。アヤカは僕よりも早いペースで、グラスを空けてしまう。
ココはアヤカの飲みっぷりに喜び、今度は白ワインを出してくる。こっちも信じられないくらに飲みやすい。
「おいしい。液体の宝物みたい~」
くいくい飲んで、口調とテンションがおかしくなってゆくアヤカ。止めた方がいいのではないかと心配になる。
「全然大丈夫よ。江戸時代なんか、赤ん坊にも酒飲ませてたし、月代を剃る頃には大酒飲みがいっぱい育ってたって」
「それ、福沢諭吉の話ですよね?」
「あら、物知りねえ。アカリみたい。……あなたたちの話によると、アカリはもうこないかもだから、出しちゃおっかな」
興が乗った様子のココが、キッチンのワインセラーではなく、地下まで行って何やら取り出してくる。
「ロマネ・コンテェだ……」
ラベルを見て、アヤカが驚く様子を見せる。僕も驚く。
「え? アヤカ知ってるの? もしかしてその歳で、ワイン通?」
「おっ、わかるのね。まあ、名前くらいは聞いたことあるかな」
にわかに緊張した様子のアヤカを見て、僕も緊張しながら口をつける。
「……これも、ジュースみたい。でも……」
「世界が終わらなかったら、絶対飲めなかったようなものよ。名古屋のホテルで見つけた時にゃ、もう手が震えたわ」
まあ、ワインの王様かな、というココに、無粋なことを聞いてみる。
「これ、いくらですか? 買ってたら」
「一杯で? ボトルで?」
「……ボトルで」
「五百万円」
十万円分くらいのワインを吹いた。
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