08:夏のまぼろし

「長い夏バテだな」

「冷や麦とか、そうめんがあればいい。肉はちょっとパス」

「あたしはかき氷ー。他いらないー」

 三人だけで過ごす、終末の世界の夏を、つかの間楽しんでいたけれど、ちょっと不安なことがあった。

 遊び過ぎのせいか、トシキとアヤカの体調がすぐれない日が多くなったのだ。旺盛にあった食欲が減退し、寝床から起きられないこともあった。しばらく休めば元気になり、どうということも無かったけれど、医者も病院も無くなったこの状況で、どうしたものかと案じられた。

「それより、お風呂入りたい。暑いし」

 リビングでタオルケットをかけて転がり、携帯ゲームをやりながらアニメを見ているアヤカが、背中をかきながら言う。

「最近ずっと、雨降らないしな」

 小林邸の貯水タンクも空になり、料理や飲料水はペットボトルでまかなっていたけれど、風呂に使う多くの水は難しく、一度ミネラルウォーターで風呂を張ったけれど、二度とやるまいと思った。

 そこで試してみたのは、天水だった。雨水だ。

 山ほど集めてきたバケツやタライを、庭や道に並べておくと、雨が降ればすぐに満杯になった。口に入れるには適さないが、風呂にして浸かる分には問題なく、入浴剤を入れれば匂いも全く気にならなかった。

 トイレの水洗や洗濯にも、天水を使った。下水は電力が失われてもしばらくは機能するようで、水さえ流せばいくらでも流れてくれた。

 ところが、ここ最近の晴天続きのおかげで、トイレの水洗にミネラルウォーターを使っている有様だった。

 前からなんとなく考えていたことを、よしと頷き実行することにした。

「トシキ、夏休みだな!」

「……どこか壊れた?」

「旅行へ行くぞ」

「え?」


 雲ひとつない八月の空の下、夏の雰囲気が似合いそうで選んだ4WDの車を走らせ、ひとの消えた街道を神奈川方面へと南下する。

「そういやこっちの方って、海あるよね」

 助手席に座るトシキが、倒したシートでふんぞり返りながら言ってくる。

「海なんて、東京にもあったし、トシキの住んでたとこにもあっただろ」

「僕らの地元の海には、何もなかったもん」

「そうだよね。なんか夏でも、閑散としてるの」

 後部席をフラットにして転がり、せっかくのドライブ中にも関わらず、携帯ゲーム機に夢中になっているアヤカが応える。

「海の家とかがいっぱいある、湘南とか江の島みたいな、あんな感じの海が見たい」

 そういえば僕も、都内で見るコンクリート作りの海がどうも好きになれず、あちこちウロつきながらも、近づくことはなかった。

「海の家もなければ、海水浴客ももういないってば」

「それでもいいの。雰囲気だよ」

 トシキのこういう子供らしいところは、僕を楽しくさせてくれていた。

「あれ……」

 そろそろ海が見えてきたあたりで、異変に気付く。

「車が、いっぱい」

「なにあれ?」

 がらんと空いていた国道の路肩に、車が並び出したのだ。それも、一列ではなく、詰め込むように乱雑に止まっており、それが海岸沿いにずっと続いている。

 奇妙な印象を受けたのは、全ての車のドアが開きっぱなしになっていることだった。

「みんな、海に来たお客さんで、待ちきれずに飛び出したのかな」

「違法駐車にもほどがあるだろ」

 世界の終わりや、崩壊した文明にふさわしい眺めが、ようやく現れた気がした。

「海沿い、危ないし走り辛いな。道、変えるか」

「海、見ていかない?」

 アヤカの言葉に、そうだなと車を止める。

 防砂林を抜けると、すぐに砂浜にたどり着く。念のために周囲を警戒する僕を置いて、ふたりは軽い足取りでさっさと潮風に導かれてゆく。

「わあ」

「誰も、いないね」

 夏草が薫る先で、がらんと空が開けている。風と波音が心地いい。

「どれくらいぶりかな。今度は、泳ぎに来るか」

「アヤカも楽しそう。……あれ、なんか呼んでる」

 波打ち際ではしゃいでいたアヤカが立ち止まり、僕らを呼び寄せる。

「え……?」

「うわ」

 近づいてゆくと、アヤカの足元に、白骨化した人間の死体があった。

「見て」

 アヤカが指差す先には、打ち上げられたような屍が、彼方までずっと並んで続き、波に洗われていた。

「……海水浴は、やめとこうか」


「最高かー」

「最高だよー」

 最高級の温泉宿の、遠くに富士山が眺められる広い露天風呂で、屋根付きのプールみたいな湯船につかり、暮れてゆく空を眺め、ほっこりとした気分を壁越しに伝え合っていた。

 電気が止まっているためか、ボイラーで温めたり汲み上げたりしている温泉はカラになっており、源泉かけ流しの場所に来る必要があったのだけれど、その中で一番近いのが、ここ箱根だった。

「温泉には効用があるからさー、きっと、体調も治るぞー」

「別に、大丈夫だよー。そんなに具合悪いわけじゃないからさー」

 声をかけ合いながら、岩の上に座り、風を受けて身体を冷ます。この景色と広い湯舟をひとり占めできるのは、平時でなくとも得難い体験だろう。向こうの女湯からも、兄妹での貸し切りにはしゃいでいる声が聞こえてきて、ここまでやって来た甲斐があったと思わせてくれる。

 洗い場に並ぶ鏡が映す、相変わらず無駄に肉がついているくせに弱っちい自分の身体を眺めながら、ふと、幾度か目にした、トシキの華奢な身体を思い出す。妹同様の色白の肌と整った顔立ちは、なにか痛々しいほどだった。

 ああいう男らしくないキャラが流行った風潮も、一時期あったそうだが、それが許され受け入れられたのは、結局のところ半分といったところで、残りの半分はトシキと同じ、得物としての境遇を強いられ、その多くは自殺という形で姿を消していた。

 トシキの言うところの、プログラムに抗えられなかった、というところか。それが時に、人間を禽獣に回帰させていた、本能の正体か。

「トシキー」

「あーい」

「無事かー? アヤカの声、聞こえてこないけど、のぼせてないかー?」

「大丈夫だよー。なんか内風呂の、打たせ湯とか見に行ってる」

 目の届かない所に行かせていいのかと、心配がよぎるけれど、そんな不安も全部ひっくるめて、社会も不審者も消えている。どれも終わったことなのだ。

「……トシキ、やっぱり言っておくな。僕さ、そうしないようにしてるけど、発作的にいきなり、自分で死んじゃうかもしれないんだ。だから、それに備えておいて欲しい」

 発作的にそうした時もそうだけれど、発作的でなくてもやれるものならやりたい。それができる環境を早めに整えておきたい。

「やだよー、そんなの……」

「やだ、じゃないよ。誰がいつどうなるかわからないだろ? ひとりでもアヤカを守れるようにしておいた方がいいぞ」

「……うん」

 素直でいい奴だ。露天風呂から眺める夕空という、ありがちなチュエーションは、大事な決意をさせるのに有効なのだろう。

「よーし。まずは、車を運転できるようにならないとな。帰ったら、練習するか」

「でも、僕らにはもう、晶が」

「おにいちゃーん!」

 アヤカの叫ぶような声が聞こえ、どうしたのかと耳を澄ます。

「湯舟の向こうに、猿がいた! 怖い!」

「え、やだな。男湯の方行くか」

「そうしよ」

 僕は驚き、あわわと戸惑い抗議する。

「ちょ、ちょっと待てー、来るなよ、お前ら」

「なんで?」

「なんでって、僕がいるだろ!」

「あー……。別に、いいじゃん」

「いや、ダメだって、やだ、……おい? ……おいったら、こら!」

「入るよー」

 入口からアヤカの声が聞こえると同時に、僕は湯船から飛び出し、ふたりとすれ違う際もそっぽを向いて、脱衣所まで走る。


「なんでローソクなの?」

「楽しくない?」

 充電式の持ち運び用LEDライトも持ってきたけれど、こっちの方が雰囲気が出る。

「けっこう明るくなるのね」

「そりゃ、こんなに何十本と立ててりゃ……。換気とか、大丈夫なの?」

「ちゃんと窓、網戸のとこ開けてるよ。心中させる気じゃないから安心しろ。ここらは山の中で涼しいから、ちょうどいいよな」

 基本、夜には行動しないように決めていたので、今夜は箱根のこの旅館で、夜を明かすことにした。

 せっかくなのでと、一番高いであろう部屋を寝床に選んだけれど、豪華な室内はもはや、幽霊いらっしゃいといわんばかりの、怪異な様相を呈している。夜食を済ませたら、もうこれしかないだろうと、怪談大会を始める。

 年の功として、僕の方が怖いネタを持っているはずと思い、覚悟しろよと始めたのだが、どういうわけかトシキもアヤカも、企画したのを後悔するくらいに、ものすごく怖い話ばかり披露してくる。僕は布団をかぶりながら、もうやめようと懇願するはめになった。

「ネットでよく、探してたもんね」

「実話系の殿堂入りのやつとか、一緒に動画で観てたよね。それに、いじめられっ子の居場所は図書室で、友達のいない子の拠り所は、本って決まってるもん」

 こんなプロの兄妹に叶うはずなかった。話題を変えようと話をそらすうちに、なんとなく昼間に、海で見たものの話になってゆく。波打ち際を埋め尽くしていた、屍の群れ……。

「……以前だったらさ、あんな数の死体を見たら、パニックだったよね」

「うん。でも、なんかもう、見慣れてきちゃってる」

 ふたりも閉じ込められた場所で、死体をたくさん見てきたのだという。閉じ込められずどこかへと行った人間が、あれなのか。

「ようやく、消えちゃった人間、見つかったね」

「でも、あれだけだと、少なくない?」

「うん。……今さらだけどさ、なんで、人間がみんな、消えちゃったんだと思う?」

 それを知りたいという気持ちは、特になかったけれど、ふたりが歳のわりに、妙に博学であることがわかり、興味の湧きついでに聞いてみる。

「フィクションじゃなくても、人間が集団で消えちゃう事例って、昔からあるらしいんだ」

「へえ」

 風もないのに揺れる、ろうそくの炎の灯りを受けて、トシキが続ける。

「童話で有名な、ドイツの笛吹き男の物語は、基本実話だし。中国では、ある村の住民が全員、ひと晩で消えちゃった事件なんかももあるし。戦争中にイギリスの兵隊が、一個連隊丸ごと、丘の上で消えた例もなんかもある」

 ネット上の都市伝説などで、聞いたことのようなある話だ。尾ひれどころか、背びれ胸びれまでついた内容なのだけど、実際に多くの人間が消えてしまったのだけは、どれも事実であるようだ。

「でも、そういう事件があったとしても、多くても何百人とかだろ」

「うん。だからそれが、世界中で一斉に起こったんじゃないかな……」

 怪談の続きのようで、なにやら背筋がすうと、うすら寒くなる話に思えた。

「だとしても、私たちはどうして、消えなかったのかしら」

 そうだよな、と頷く。

「まあ、いいじゃん。僕たち、すごくレアだったってことだよ」

 それを結論として、話はそこまでになった。子供三人で考えたって、わかるわけがなかった。

「なあ、僕さ、ちょっと思いついたことがあるんだけど」

 何? と聞いてくるふたりに、僕は提案する。

「ここで泊まるのやめて、夜のドライブしない?」

「ドライブ? 今から?」


 4WDの車に乗り込み、街灯ひとつない箱根の峠道を走り出す。景気づけに大音量で音楽を鳴らし、満天の星空の下を縫ってゆく。

「あはは」

「やばい、怖い、楽しい」

「あー、今度は鹿! 轢いちゃだめよ」

「鹿肉食えるぞ。轢いちゃっていい?」

「絶対だめっ」

 これまで、危険を避けて、夜は車でも、一切行動しないようにしていた。

 怖い話と重い話に嫌気が差し、景気づけと初めて夜に走ってみてわかったのだが、山の中ということもあろうが、野生動物がいくらでもいるのだ。未知のジャングルを冒険しているみたいだった。

「今の何? イノシシの親子?」

「やだあ、また猿がいた」

「なんか一瞬、人間に見えなかった?」

「見えた! もしかしてとうとう、ゾンビが現れたか?」

「生きてる人間じゃないか? 乗せてくれって言ってきたら、どうする?」

「やだやだあ! 絶対乗せないで! 怪談はいいけど、リアル体験はやだっ」

 夜が明ける前に、山中湖が見下ろせる高台の駐車場に着き、休憩がてら星の洪水のような夜空を眺める。

「なにこれ……すごい」

「今までも、ひとが消えてからさ、星が奇麗だったけど、ここは何かもう、全然違うよ」

「寒い。高い所だからじゃないのかな」

 やがて夜が明けてきて、未明の美しさに目を奪われていると、雲ひとつない空の真ん中に、景色いっぱいの富士山が現れた。

「こんなに大きく……。絵みたい」

「近くで見ると、こんなに凄かったんだ」

 トシキとアヤカが、朝の風に小さな身体を震わせながらつぶやく。ずっと施設で暮らしていたというふたりは、旅行やドライブに行ったこともそうないのだろう。

「これを見てるのって、僕たちだけなのか」

「たぶん、そうだよね」

 この絶景の中にある全てが、僕らだけの貸し切り。

 明日のない僕たちに、今だけはせめて与えてくれるように、霊峰は静かに優しく見守ってくれている気がした。

 僕はどうでもいいから、どうかこのふたりを守ってくださいと、そこにささやかな願いを込めてみる。


「留守番よろしくな。ちゃんと寝てろよ」

「うん」

「起きてきて、ゲームするの禁止な」

 寝室の寝床の中から、アヤカがうらめしそうにねめつけ、はあいと答える。

「おにいちゃん、学校さぼった時の、お母さんみたいー」

 ふたりで車に乗り込み、移動の途中で、僕はトシキに聞いてみる。

「お母さん、いたの?」

「そりゃ、いたよ。木の股から産まれたわけじゃないんだから」

「だからなんだその、教養がにじみ出るような言い方は。いや、施設にいたって言ってたから……」

「八歳の時に、いなくなっちゃった。他の誰にも懐かないアヤカは、僕が守らなきゃいけないの。……晶にもすっかり、懐いてくれてるよね」

「そうだな。おっ、あそこの病院大きいぞ。入るか」

 九月も後半に入り、秋の気配が色濃く感じられてきた頃、アヤカはほとんど物が食べられなくなり、起きることも辛そうになっていた。

 僕らは連日、元気のつきそうな食糧漁りと、そして本屋を回っていた。

 何かの病気のようなので、家庭の医学などの本を読みまくり、必要な対処を探し、薬局などで効きそうな薬を入手してみた。けれども、間違った薬を与えることでの副作用の方が懸念され、結果としてビタミン剤を飲ませるくらいしかできなかった。

 今日も屍臭の漂う総合病院に入り、医学書を眺めてみるけれど、雲をつかむようでさっぱりわからない。

「どれ見ていいのか、見当もつかないな……」

「病院があっても、医者がいなけりゃ、あんまり役には立たないんだな」

「医者、どっかにいないかなー」

 なんだか初めて、他の生き残りを求めている自分に気がつく。

 僕のことだけならば、誰の世話にもならずに済ませられる。けれども、誰かを守ろうとしたら、ひとりでできることは、あまりにも限られていた。

「たしか薬もさ、使用期限っていうのがあるらしくて……トシキ!」

 長椅子の上で、トシキは倒れていた。

 駆け寄り、大丈夫かと尋ねると、大丈夫だよ、ちょっとだけと、トシキは苦しげに胸を上下させている。

 車までおぶり、急いで小林邸に戻る。

「だめだよ……、すぐに帰ったら、アヤカに怪しまれるよ」

 助手席でぐったりしているトシキの顔を見る。色白の顔が、うっすらと青黒い。どうして今まで気がつかなかったのか。

「同じか?」

「え?」

「アヤカと同じ症状か? いつから?」

「まあ、その、ずっと」

 無理をしていたのか。妹に心配をかけないように。

「お前らふたり、しばらく外出も、動くのも禁止な」

「だから、大丈夫だってば。少し休めば、すぐに」

「わかった。休め。すぐに」


 本好きのふたりの言うところの、枕が上がらなくなった、という状態の兄妹を寝かせて、僕はできることを探し、駆けずり回った。

 郊外などで畑を探すが、ほとんどが動物に根こそぎ食べられている。なんとか食べられそうな野菜を見つけ、飲みやすくスープなどにして出し、食欲の戻らないふたりに与えていた。

「食欲減退の他は、脱力感と、倦怠感……そのくらいか」

 他に症状があるかを聞いても、特に何も、と答えるばかりだが、ある時、トイレから出てきたトシキに、色は何色だったと聞く。

「なんだよお。何聞いてくるのさ、ヘンタイ」

 いいから言え、言わないなら次は流す前に確認するからなと脅すと、ためらいながら小声で、ずっと真っ黒、とトシキは答えた。

「たまに、上からも同じの出る」

 汚いだろと、けらけら笑うトシキは、頬がこけるほどにげっそりと痩せていた。

 風呂にも入れなくなった身体を拭いている時に、はっとした。あざのようなものが、全身のあちこちに広がっていたのだ。

 薬を飲ませようにも、口の中はボロボロで、水も受けつけなくなり、それから急激に、トシキの細い身体は、骨と皮のようにしぼんでいった。

 僅かな救いは、どこかが痛い苦しい、ということはなく、妹のアヤカの方は、少しずつ体調が戻っていたことだった。

「おにいちゃん、しっかりして」

「……大丈夫だって。……せっかく、ふたりきりで、誰にもいじめられない世界に来られたんだからさ、……これからもっともっと、いっぱい、楽しもうな」

 アヤカがバスルームに入っている時に、トシキが僕に言った。

「晶……」

「ああ」

「……アヤカを……」

 それ以上言わせないように、小さな手を握り、僕はただ頷いた。

 十月の終わり、高く澄んだ秋晴れの日に、トシキは眠るように死んだ。

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