拝啓、不器用な透明人間様。

おぎおぎそ

拝啓、不器用な透明人間様。

「もしもーし、聞こえますかー。聞こえたうえで無視されてるんですかー。もしもーし」


 ダメだ。参拝客に片っ端から声を掛けてみたが、全滅だ。どいつもこいつもてんで反応を示さない。


 これはもしかしたらアレかもしれんな。若い頃映画やなんかで見た記憶があるが、まさか自分がその張本人になろうとは。


 それにしても急な話である。昨晩、向かいのゲンさんに暮れの挨拶をしたときは何とも無かったのだ。今朝になってレトルトの雑煮をかきこんでから初詣に来たらこのざまである。参列の順番は抜かされるし、甘酒はもらえない。何やら様子がおかしいと気がつくのに、時間はかからなかった。


 どうやら俺は透明人間になったらしい。



 境内へ伸びる石段に腰かけながら考える。

 しかしまあ困ったものである。こんな突飛な状況、若い時分なら助平心に歓喜もしようが、今さら女風呂なぞ覗く気にもなれない。齢八十八にもなると、他人に認識されない不便さの方にばかり気がついてしまう。血圧の薬、来週の分ちゃんともらえるのだろうか。ありゃ俺の命綱だぞ。

 買い物だってロクにできないだろうし、下手すりゃ痴呆を疑われて家族に失踪届すら出されかねん。


「いや……しかし……」


 頭によぎったのは息子の顔。アイツならひょっとすると失踪したことにすら……まあいい。今はとにかくこの奇怪な状況を解決する方法を考えねば。


 そうと決まればここでただ座っているのは時間の無駄だ。

 俺はここ数年慢性的にズキズキと痛む、文字通り重い腰をゆっくりとあげた。



 **********



 意外と満喫できた。


 まずは腹ごしらえ、と回転寿司に向かったのだがこれが最高だった。誰にも見られないものだから、無料で取り放題食べ放題である(※犯罪です)。食べ終えた皿は元のレーンに戻すもよし(※犯罪です)、他人の皿に重ねるもよし(※犯罪です)、挙句一、二枚持ち帰ってきても御咎めなしだった(※有罪です)。


 買い物もこれまた最高だった。いや、買い物と言っては正しくないな。何しろ全て無料で貰えるのだから。ガハハ。


 ところが娯楽系がイマイチだ。


 まずパチンコ。他人の玉をパクって打つには打てるが、傍から見たら無人の台が勝手に動くのだから不気味だ。しまいには店員が駆けつけてきて、「故障中」の札を掛けていってしまう。


 カラオケはまあまあだった。最初はタダで楽しく歌っていたが、これまた故障を疑われて機械を止められてしまった。それにマイクも声を拾ってくれないため、歌い甲斐というものがてんでない。


 しかしまあ不思議なものである。単なる透明人間であれば声が聞こえなくなる必要はあるまい。姿が見えさえしなければいいのだから。

 すると自分は今、思ったよりも厄介な状況にあるのかもしれない。ともかく、普通の透明人間でないことは確かだろう。普通の透明人間とやらに生まれてこの方出会ったことはないが。


 カラオケボックスを出た後、近所のボウリング場に向かったのだがこれがまずかった。


 ボウリング場では新年会と称して十名ほどの集団が盛り上がっていた。近づいてみると、その集団にはゲンさんを始めとして見知った顔がちらほらと見える。どうやら近所の老人会の集まりのようだった。


「ようゲンさん! どうだい、今日の調子は」


 知り合いを見つけて嬉しくなり、つい声をかけてしまった。


 しかしその言葉には返事がなかった。はっとなる。そうだ。俺は今、透明人間なのだ。ゲンさんが俺に気づくわけはない。


 その単純な事実がどうしようもなく俺の胸に突き刺さった。暗闇の中に突然一人で放り出されたような強烈な疎外感を覚えて呼吸が苦しくなる。


 俺は誰にも見られていないのに――それこそが問題なのに――誰にも見られないように足早にボウリング場を後にした。そもそもボウリングなど普段からやらないではないか、と言い訳のように呟きながら。



 **********



 冬の日は短い。

 ほの暗くなってきた道をあてもなく歩きながら考える。さて、どうしたものか。厄介なのは声すら届かないということだ。医者にかかろうにも、症状を説明することすらできやしない。仮にできたところで恐らく現代医療では解決しないだろうが。


 新年のご馳走だろうか。ふと道路に良い香りが流れてきて、俺は俯きがちになっていた顔を無意識に上げてしまった。


「……どうして、ここに」


 見ると、良い香りの発生源は綺麗な白い家。見覚えのある場所だ。

 やわらかく暖かな光に包まれているのは、息子夫婦の家だった。高校卒業と同時に家を飛び出したと思ったら、どこからか嫁を捕まえてきてノコノコと地元へ戻ってきた、親不孝な一人息子だ。


 妻が生きていたころ、二世帯住宅を視野に入れるという話で息子はマイホームを建てた。無論、こちら側も何割か負担している。

 だが妻が亡くなると態度が一変した。二世帯住宅の話はどこへやら、今やたまに孫の顔を見せにくるぐらいで、家族らしい交流もほとんど途絶えてしまった。


 ……しかし。


 しかし、なぜだろう。窓から覗く息子の顔は、俺が一度も見たことが無いほど幸せそうだった。何年も同じ屋根の下で暮らしていたはずなのに、俺が知るどんな表情よりも、息子はイキイキしていた。


「……あぁ……」


 ふと気づく。


 俺は息子の笑顔をほとんど知らないのだと。


 そうだ、俺は何も見ていなかった。


 思えば俺は、こうなる前から透明人間のような暮らしをしていた。


 妻を嫁にもらった頃から、仕事ばかりで家庭を顧みない男だった。自宅を飯の出るホテルのようなものとしか考えておらず、妻には随分と寂しい思いをさせた。愛想を尽かされなかったのが不思議なくらいだ。


 子供が生まれると状況はますます悪化した。昇進して仕事が忙しくなったのも相まって、家庭で過ごす時間はさらに減った。帰ってきても子供はすっかり寝入った時間、唯一朝食を食べている時に顔を合わせるかどうかといった程度で、息子の得意科目すら把握していなかった。

 たまの休みにも取引先との接待ゴルフか、そうでなければ仕事と称した同僚との飲み会。息子とは遊園地どころか、キャッチボールさえもしてやらなかった。


 別に家族が嫌いだったわけではない。生活費はきっちり稼いできたし、何不自由ない暮らしもさせてきたつもりだ。


 ただわからなかったのだ。わからなかっただけなのだ。父親としての在り方が、振る舞い方が。だから逃げ続けていた。


 そんな俺は家族にとって、いてもいなくても変わらぬ存在だっただろう。まさに透明人間だ。


 かといって家庭外では皆に愛される存在だったかというと、そういうわけでもなかった。

 老人会のボウリング大会。俺はそんなものが開催されることすら知らなかったのだ。俺は誘われていなかったのだ。


 別にこの歳になって仲間はずれを恨むような、そんな幼い人間ではない。


 ただ、気づいてしまった。俺の築いてきた人間関係は、歩んできた人生は、社交辞令のようなものだったのだと。友情も愛情も、その本当の意味を知ることなく、俺は八十八まで生きてしまったのだと。


 暖かな光の前に立ち尽くしたまま、動けない。


 はじめから俺のことなど誰も見てはいなかった。俺が誰も見ようとしなかったから。

 はじめから俺の声など誰も聞いてはいなかった。俺が誰にも語りかけなかったから。


 この透明で薄黒い孤独感は、残酷な疎外感は――。


 自らが作り上げたものだったのだ。俺は、自ら透明人間に成り下がっていたのだ。



「いいえ違いますよ、あなた」



 聞き覚えのある優しい声が、抱きしめてくれているかのように響いた。

 振り向けばそこには、妻がいた。死んだはずの妻が。


「あなたは透明人間なんかじゃありません」


 妻は何がおかしいのか、クスクスと楽しそうに笑った。生前もよく着ていた、あまりオシャレとはいえない紫色のセーターもつられて優しく揺れた。

 ようやく、俺は自分が寒さを感じていないことに気がついた。日はすっかり暮れていたが、不思議と風の冷たさは感じなかった。


 ああ、そうか。そういうことか。


 死んだはずの妻が見える。感覚がなくなっている。姿が見られない。声が届かない。

 この状況への解は一つだけ。俺はすでに死んでいたのだ。


「そうです。あなたは今、幽霊になってるんですよ。慌てて餅なんか食べるから」


 まだしばらくは来ないと思っていたのに、と妻はたしなめるような口調で言った。


「それに、あなたは透明になんかなりませんよ」


 妻はそう言うと、紫のセーターを誇らしげに指差した。


 はっとする。そうだ。そういえばそのセーターは、昔俺があげたものだった。

 まだ若くお金にも余裕がなかった頃。誕生日のお祝いにと妻に贈ったのだ。


 そんな古いものを、ずっと大事に……。それなのに俺は……。


「ほら、あの子もああ言ってますよ」


 妻に肩をポンと叩かれ、息子の家から漏れ出る声に耳を傾ける。


「……親父の所にも、明日顔出しに行こうな。あの人、ああ見えて寂しがり屋だから。寂しがりで、不器用で、優しい、大切な親父だから」


 息子の言葉が、くっと涙腺を突きあげてきた。こんな親からよくもまあ立派に育ってくれたものだ。


「あなたの不器用な優しさは、ちゃーんとみんなに届いていましたよ」


 俺が泣きそうになっているのを察して、妻はそっとハンカチを差し出した。本当に自分にはもったいないほどいい妻だ。


 満ち足りた気持ちだった。死んだ今になってようやく、自分がどれだけ幸せを貰っていたのかを知ることが出来た。それに、もしかしたら少しくらいは他人を幸せにできていたのかもしれないとも、思うことができた。


「さあ、そろそろ行きましょうか」


 妻が手を引く先には、クリーム色の霧のような光が広がっていた。あの世、というやつだろう。旅立ちの時が来たようだ。


 ふいに一歩先を歩く妻が振り返った。


「あ、そうそう。これ、郵便受けに入ったままでしたよ」



 妻の手の中で揺れていたのは、老人会のボウリング大会の出欠確認のお知らせだった。

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