一日だけ二十歳になったら

鏡りへい

特別な一日

 いつも通り午前四時四七分に目を覚ました徳三は、いつもと違いがばっと布団の上に身を起こしたまま、しばらく固まっていた。

 ――おかしな夢を見た。

 八八歳の老人は、今見た夢をしばらく反芻した。

 ――あれは神様だ。

 そうとしか思えない、神々しい人間のような何かだった。神々しい何かは徳三に向かってこう言ったのだ。

 ――一日だけ二十歳に戻してやろう。

 ――一日というのは、起きてから寝るまでの間だ。

 ――願いを叶えるがよい。

 その言葉の意味をしばらく考えた後、はっとして自分の体を見た。両手であちこちを探る。

 張りのある皮膚、硬い筋肉、頭頂部にもたっぷりある頭髪。

 ――もしや。

 徳三は慌てて洗面所に鏡を見に行った。見に行く時点で、変化には十分に気づいていた。

 動きやすい。

 八八歳の体は何をするにも一苦労だというのに、この時の体は羽根でも生えたように自在に動いた。

 いきなり動いても関節が痛まない。手も足も油を差したようになめらかに動く。眼鏡がなくても視界がはっきりしている。

 鏡を見る。映っているのは豊かな黒髪の、シミ一つない瑞々しい肌にキラキラ輝く瞳を持った青年だった。

 徳三はしばらく鏡の前で、顔を触ったり、体を捻ったり、腕をぶんと振ったりして、それが自分であることを確かめた。

 本当は一目見たときから理解できていた。記憶にある若い頃の自分と顔がそっくりだったからだ。けれど感動が彼におかしな動きをさせた。

 ――こんなにきれいだったのか。

 涙がこみ上げるほど幸せだった。

 徳三は特に端正な容姿というわけではない。若い頃はむしろ、周りと比較して顔立ちに悩みを抱えたりもしていた。

 年を取った今となっては、顔立ちなどはささいな問題に過ぎなかった。それよりも、若さそのものが何にも増して美しい。何より、自由に動ける。

 ――こうしてはいられない。

 寝室に戻ると慌てて布団を畳み、押し入れからバッグを取り出して出かける支度を始めた。

 まだ朝の五時だ。今からなら昼前に目的地に着く。

 支度をする間も、体が何の痛みもなく思った通りに動く快適さに涙が出そうだった。年を取ってみるまでは、そのことに感謝をしたことさえなかった。

 ――失ってから気づくというのは本当だな。

 感傷に浸っている場合ではないのに、ついそんなことを思う。

 徳三はスマホを持っていない。ガラケーだ。ガラケーはいずれ使えなくなると聞いたが、それより先に自分のほうがいなくなると思っているから変えていない。

 ガラケーも通話専用だ。まさに「携帯する電話」でしかない。だから時刻表を調べたりチケットを予約したりは、アナログな方法でしかできなかった。

 引き出しから取り出した一枚の年賀状をじっと見る。

 住所はわかる。徳三と彼女が共に育った街だ、新幹線と電車を乗り継いで駅までは行けるだろう。ひょっとしたらそれより早く着ける飛行機があるのかもしれないが、乗り方がわからない。

 飛行機について調べるか、わかる方法で出発するか……。

 その前に、相手に連絡をするべきだろう。

 まずは相手に連絡をして、伺っていいかを確認し、日時を決めてから訪ねる。それが本来だと思うが、その余裕も方法もない。

 電話番号はわからないのだ。

 彼女――桂子は、一度結婚して地元を離れ、また地元に戻った。その際、実家ではなく自分たちの家を購入して暮らし始めた――というのは毎年届く年賀状で知った。そこに電話番号が書かれていたことはない。

 今から郵便で確認を取るわけにもいかない。

 わずかに逡巡した後、徳三は無計画に家を出た。駄目元で行って、駄目なら諦めるだけだ。

 ともかくも駅に向かって歩きながら、自分の格好を気にする。

 当然若者の服など持っていないから、きれいげなTシャツを引っ張り出して着た。確か四〇年ほど前に、人生で一度だけ行ったハワイで記念に買ったものだ。ビーチの写真がプリントされていて、数回しか着ていない。

 下はジーンズだ。脚の関節が痛み、手に力が入らなくなってからはぴったりしたジーンズを穿くのが大変になったのでやめたが、それまではジーンズばかり穿いていた。取っておいてよかった。

 鞄はやはり四〇年ほど前に買ったリュックにした。旅行用に買って何回かしか使っていないので、汚れてはいない。デザインも無難だとは思うが、最近の人から見てお洒落ではないだろう。

 お洒落でないのはかまわない。しかし、二十歳の若者が持つにしては違和感があるだろうか……?

 考えて笑いがこみ上げる。

 ――何を心配しているのか。

 若者らしくない若者を見て、「あれこの人、本当はおじいさんなんじゃないの?」と気づく人がどこにいるというのか。「この人だけ神様に贔屓されてずるい」と見破る人がいるものか。

 単に「お洒落じゃない」と思われるだけだ。それが何の苦痛であるか。

 そう思うと不安が嬉しさに変わった。何だか、周囲の人をみんな騙しているような気になったのだ。

 みんな自分を二十歳の若者だと思うだろう。まさか八八歳のおじいさんだとは思わないだろう。それだけでとても愉快だった。

 ――桂子も。

 徳三を見て、始めて会う青年が訪ねて来たと思うだろう。

 何と言おうか。徳三の孫ですと言ってみようか。

 徳三は結婚したことがない。子どももいないから、孫がいるはずもない。それは桂子も知っている。

 でも目の前に若い頃の徳三そっくりの青年が現れて「孫です」と名乗る。桂子は混乱するだろう。

 ――たまにはからかうのも。

 面白いだろうなとほくそ笑む。そして自分たちしか知らないような子ども時代の話をして聞かせるのだ。そんなことができるのは徳三本人しかいないと桂子が気づくまで。


 最寄り駅の私鉄からターミナル駅に出て、無事新幹線に乗れた。

 親が生きていた頃はこうして帰省するのが年中行事だった。その実家はすでに跡形もなくなっているから、慣れていたはずの乗り換えももううろ覚えだ。駅の構内も、記憶にあるのとけっこう変わっている。懐かしいような、新鮮なような。

 窓の景色を眺めながら、頭の中では幼い頃の思い出が再生されていた。

 桂子は隣に住む同い年の幼なじみだ。同じ小学校に通い、学校から帰った後も休日も、一緒にいるのがほとんど当たり前だった。

 初恋の人だった。

 その桂子は親が決めた相手と一六で結婚し、地元を離れた。徳三も就職のために上京し、その後ずっと一人で暮らしている。

 思えば長い年月だ。でもその間、年賀状のやり取りだけは絶えることがなかった。住所や家族構成が変わっても、二人の関係が変わることはない。

 地元の同級生は一人また一人と鬼籍に入っていく。自分もそう遠くないうちにそうなるだろう。それよりも徳三は、桂子の家族が知らせを送ってくることを恐れていた。

 生きているうちにもう一度会いたい。

 それがここ数年、特に歩くのが辛くなってからの願いになっていた。

 毎朝毎夕、神様に願っていた。それが聞き届けられたのだ。

 それはひょっとしたら、徳三にお迎えが近いことを意味しているのかもしれない。冥土の土産なのかもしれない。

 かまわない。今日が終わったら、桂子に会えたら――もう、この世に未練はない。

 夢で聞いた言葉を再度反芻する。

 ――一日だけ二十歳に戻してやろう。

 ――一日というのは、起きてから寝るまでの間だ。

 つまり、寝たら元の年齢に戻ってしまうのだろう。一日と言っても二四時間ではなく、実質一八時間くらいか。

 寝なければ二四時間以上、という捉え方もできるが。

 ――いや。

 そんなには無理だ。計算通り昼頃に桂子に会えたとして、夕方には別れることになるだろう。相手の体力がある。そう何時間もおしゃべりし続けるわけにいかない。

 むしろ、あまり話せると期待しないほうがいい。相手は何の準備もできていないのだから。

 ――会ったら何を話そう。

 話したいことは山ほどある。しかし優先順位をつけて話題を絞っておくべきだろう。どうしても話したいことから話す。

 ――一番大事なこと……何だ……。

 車窓を流れる景色を見るともなく眺め、車両の心地いい揺れに身を任せて、止め処もない思考を巡らす。

 ――桂子に一番伝えたいこと……。

 そのうちに徳三は、いつの間にか眠りに落ちていた。

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