バニラとムスクの甘い香り

曙雪

バニラとムスクの甘い香り

 オレンジ色の光が揺れて、銀色のカップが照らされている。ふくふくとカップの中から白い生地が膨らんで、きつね色に染まっていく。オーブンの光がケーキを染めていくようだった。

 明日はバレンタイン。好きな人に告白しようと思って、お菓子作りに挑戦中。

 色々悩んでカップケーキを作ることにしたの。お菓子言葉は「あなたは特別な存在」。難しいお菓子は作れないけど、カップケーキは簡単だって誰かが言ってたの。

 「ひなちゃん、デコレーション用のクリームを作ろうか。」

背後からゆき君の声が聞こえる。バニラとは何かが違う甘いムスクの香り。三つ年上の幸君はいつもいい匂いがする。

 昔、不思議に思って聞いた事がある。どうして幸君はいい匂いがするの?って。オードパルファムっていうんだって。香水の一種。一番香りが長続きするし、時間とともに香りが変わるんだって。今日も朝会った時には瑞々しい花の香りがしたのに、今はバニラのような甘い匂いがする。

 「うん!」

 顔が赤いの、気づかれてないかな。何か言われたらオーブンの熱のせいって言おう。

 キッチンの作業台の上にはバターと砂糖と卵がある。幸君はすでに卵黄と卵白を分けていた。綺麗に半分に割れた卵の殻で卵黄をコロコロと転がしていく。右、左、右、左。卵黄が卵の殻の間を二往復する頃には、卵黄だけが殻の中にいた。

 「幸君、すごーい!」

 何度見ても感動する。私にはこんな器用なことは出来ない。

 「ふふっ。ありがとう。」

 卵白だけ入ったボウルに砂糖と一つまみの塩を入れ、幸君はハンドミキサーを取り出した。

 「メレンゲは何度か作ったことあったよね?」

 「うん!メレンゲなら作れるよ。」

 先々週くらいかな。クッキーが作りたいって言ったら、幸君はメレンゲクッキーのつくり方を教えてくれた。素朴な味だったけど、しゅわっと口の中でとけていく不思議なクッキーだった。

 透明な卵白をツンと角が立つまで混ぜる。お菓子作りの表現って聞きなれないものが多いと思うの。ハンドミキサーをぐりぐり動かしながらそんなことを思った。だって薄力粉を混ぜるときの表現はどのレシピも、切るように、って書いてある。そんな表現じゃ全然わかんないと思うんだけどな。私も幸君に教えて貰わなきゃ理解できなかったもん。

 ガーガーというハンドミキサーの音に混ざって、しゅわしゅわという沸騰する音が聞こえる。隣を見れば、幸君が鍋を火にかけていた。何が入っているんだろう。

 「シロップだよ。グラニュー糖と水を煮詰めているんだよ。」

 疑問が顔に出ていたのか、幸君がそう教えてくれた。幸君には、私の考えは全部お見通しみたい。

 「メレンゲできたみたいだね。」

 そう言われて手元を見れば、透明だった卵白は純白のメレンゲになっていた。どうでもいいけど、メレンゲとゲレンデって似てないかな。真っ白なところもそっくりだと思う。

 「そのまま混ぜてて。シロップ垂らしていくから気を付けてね。」

 しゅわしゅわの音が小さくなった鍋を持ち上げて幸君が近づいてくる。もこもこしたメレンゲの山に透明のシロップが細く落ちてくる。

 ハンドミキサーは最速にして、シロップにあたらないように腕を小さく動かす。トロトロとメレンゲ濡れていく。濡れた部分を覆い隠すようにハンドミキサーが泡立てていく。

 「そう、その調子。上手だね。」

 ムスクの甘い香りがする。一瞬目線を向ければ、思ったより近くに幸君がいて心臓が跳ねる。

 その瞬間、手がずれた。ぴちゃんと熱いシロップが手にかかる。

 「きゃあっ。」

 反射で手が跳ねてしまう。支えていたボウルが宙を舞い、白いクリームが降ってきた。べちゃって頭から濡れて、最後にゴンってボウルが止めを刺した。

 「大丈夫⁉」

 ほっぺを白いクリームが伝っていく。左手はヒリヒリして、持ち上げて見るとちょっぴり赤い。

 「うーっ。」

 あんまりの事態にちょっと泣きそう。視界がどんどんぼやけていく。

 「あ、ああ。泣かないで。」

 幸君は、ほら、と促し、蛇口の水でやけどを冷やしてくれる。酷いやけどじゃないのか、赤みはすぐに引いていった。けどまだヒリヒリする。

 瞬きすると、ポロっと目に溜まっていた涙が転げ落ちた。慌ててぬぐおうとすると幸君に腕を掴まれ、止められた。

 するりと幸君の手が伸びてくる。親日で涙をぬぐわれたと思ったら、そのままほっぺのメレンゲも拭っていく。大きくて少しごつごつした男の人の手。長い指に白いメレンゲをまとわせて、そのままペロッて真っ赤な舌が舐めとった。

 見上げれば、幸君の顔がいつもと違う。優しいお兄ちゃんの顔じゃなくて、クラスの男子みたいな意地悪な顔をしている。甘い匂いが強くなったと思ったら、幸君の顔が目の前にあって。鼻がぶつかって、耐えきれなくて、ぎゅっ目をつむった。

 「ふ、ふふ。」

 笑い声が降ってきた。

 目を開ければ、幸君はいつもの顔で笑ってた。

 「ゆ、幸君の意地悪!」

 「ご、ごめんね。お風呂入ってきなよ。着替えは出しとくから。」


 促されるまま、お風呂に行き、熱いシャワーを浴びた。なんで私は好きな人に贈るお菓子を好きな人と作ってるんだろう。内緒でレシピの本を買ったのに、幸君にすぐ見つかって、一緒に作ることになった。幸君ていっつもそう。私のこと、まだ子供だと思ってるんだから。

 頬の火照りはちっとも治らない。


 お風呂から出れば、黒いシャツワンピースがあった。全体的におおきくて、着てみるとぶかぶかだった。幸君の匂いがする?ふっと思い浮かんだ考えに、ドキッとする。私ってば何を考えてっ。慌てて思考を打ち消して、幸君のところに向かった。

 キッチンに行けばデコレーション用のバタークリームは完成していた。ピンク色をしたバタークリームはかき氷のいちごシロップで色をつけたんだって。

 テーブルいっぱいに並んだカップケーキに、クリームを絞っていく。お花を描くようにひらひらとしたフリルを描いて。一個目、クリームがよれる。二個目、クリームが飛び出した。なかなかうまくできないな。三個目、失敗。四個目…。五個目…。……。

 私がクリームに四苦八苦してい間、幸君は正面でずっと見守っていた。

 「で、できたー!」

 ピンク色のカーネーションのようなお花。最後の飾りつけにハートのチョコレートを飾り付ければ、思い描いた通りのケーキができた。

 「幸君できた!」

 「すごいね。綺麗にできてる。」

 幸君は私の力作を見て、感嘆してくれた。

 あとは、袋に詰めて、ラッピングを施せばもっと素敵になる。ワクワクしていると、また甘い香りがした。

 「せっかく綺麗にしたのに、またついてるね。」

 テーブルの向こうから腕が伸びて、かさついた大きな指がほっぺをなぞっていく。どうやらまた、クリームが付いていたみたい。さっきと同じように、クリームは幸君の口の中に消えてった。

 「そういえば、誰に渡すんだい?」

 バレンタイン用のカップケーキ。気合の入り具合から、本命用だって誰でも気づくよね。

 「な、ないしょ。」

 「えー、いいじゃん。教えてよ。」

 プイッと、幸君から目を逸らす。幸君に渡すつもりだったっていえばどう反応するかな。きっと、困ったように笑っておしまいかも。だって幸君は私のこと妹としか思ってないんだもの。

 「雛ちゃん。」

 呼ばれてちょっと顔を上げれば、幸君はテーブルの向こうからこっち側に来ていた。何だかまた様子がおかしい気がする。さっきまでにこにこして明るい雰囲気だったのに、今の幸君はどこか暗い気がする。そんなわけないのに。

 幸君がもう一歩近づくと、切れ長の目がよく見える。幸君の瞳は吸い込まれそうな黒曜石のような色をしている。光を反射して、きらきら輝いて…。なんでかな、幸君の瞳に影が差してる気がする。

 頬に熱い感覚。幸君の瞳に目を奪われている間に、幸君に私は捕まっていた。幸君の左手がほっぺに添えられていて、右手は腰に回されている。そのまま幸君の顔が近づいて、カプリとほっぺを食べられた。右手はするすると身体のラインを撫でて、上ってくる。甘い香りにくらくらする。

 「ねぇ、雛ちゃん。」

 耳もとで囁かれて、身体が跳ねる。ぞわぞわと、何かが広がっていく。頭の中がぐちゃぐちゃで、ドクドクと音が鳴っている。もう一度、ふっと吐息が耳にかかって…。

 「ゆ、幸君にあげるの!」

 耐えきれなくて、どんと幸君の胸を押す。

 見上げた幸君は、きょとんとしたあと、とろりと笑った。

 優しいお兄ちゃんの顔でも、クラスの意地悪な男の子の顔でもなかった。どろりと瞳がとけていて、私の知らない男の人の顔だった。

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