青年は安全な株を・・・

@amaki_fujito

第1話

「青年は安全な株を買ってはならない。」


 この言葉は、私にとって座右の銘のようなものだった。

 99年に大学を卒業したときに、私を待っていたのは就職氷河期だった。

 地方の国立大学のマイナーな学部を卒業したのはよかったが、全くといいほど求人が無かった。あったのは、勉強した学部とは関係ない畑違いの業種の企業だけだった。就職担当の教授は、ここならオマエを入れてもらえるように話をすることはできる。と険しい顔で言った。卒業して就職浪人をすることには抵抗があった。1年待ったら就職難の状況がよくなるとは思えなかったし、1年浪人をすることにより、自分の経歴にキズが付くと思った。とにかくこのタイミングで就職しなければ、状況はもっと悪くなるに違いない。私は、ぜひお願いします。と教授に頭を下げた。


 就職氷河期で同じような境遇の同級生はたくさんいた。私のように希望するものではない企業にしぶしぶ就職するものもいたが、就職をあきらめて浪人するもの、就職のタイミングを延ばすために大学院に進むものもいた。彼らは職を探すのに苦労して、後にニートになったり派遣社員になったりした。国立大学を卒業した経歴からしたら不当な扱いである。それに比べて私はまだマシだと思っていたが、そうではなかった。就職した会社は自動車部品を製造する工場で、工学部でも工業高校でもなかった私には全く縁がなかった世界だった。はじめは製品のことを理解するために現場で研修することになったが、そこでは散々苦労した。ウエス持ってきて!先輩社員から言われても、まずウエスとは何かが分らない。モンキーや、ペンチ、ニッパーなどの工具もどれがどんな形なのか分からない。

「こんなことも分らんのか。」

「なんのために大学出てん。」

「役立たず。もう自分でやったほうが早いからええわ。」

 そのような言葉を何度も掛けられた。

 入社して3カ月くらいの段階で、私の評価は

「どうしようもなく使えないダメ社員」

 だった。

 それでも、選択肢の少ないなかようやく入れた会社である。なんとか頑張ろうと一生懸命仕事を続けた。学生時代にみたドラマを今でも覚えている。エリートサラリーマンのダメ息子が親のコネで就職するが、全然仕事についていけない。それでも体当たりで困難に立ち向かって一人前の会社員に成長していくというストーリーだ。その中で、主人公が上司から言われる言葉がある。


「青年は安全な株を買ってはならない。」


 若いうちは楽なほうに逃げずに嫌なことでも真正面からぶつかってとことん苦労しなさい。そういうニュアンスのメッセージだった。


 私は、新入社員のころから会社員としてそうありたいと思って仕事をした。現場では散々怒られながら、周りからダメ社員と思われながらそれでもなんとか仕事を続けた。いずれ現場での研修期間は終わり営業に異動となった。異動してからは、さらに違う試練が待っていた。2000年からの10年間、00年代に自動車業界に携わった人なら理解してもらえると思うが、そのころの労働環境は劣悪だった。私と同じように、同年代の人たちは就職で苦労して狭き門をかいくぐって働いていた。能力より安い給料で昇給も少なく、残業代もつかないブラック企業も多かった。それでも彼らは自分の存在価値を見出すために必死に働いていた。少しでも品質をよくするために、部品の単価を安くするために、深夜まで働くのは当たり前。徹夜も厭わない。休日も休まず、どれだけの時間仕事をしているかをどこか誇らしそうに語る人が多かった。世間では、就職氷河期が社会問題となり、ニートと呼ばれる働かない若者が増えた。働くことはできても非正規で派遣社員として働くことを選択する人も多かった。当時、国のリーダーは、これは痛みを伴う改革だと声高に叫んだ。仕事がない、給料が安い、それは自己責任といった風潮が世の中にあふれていた。せっかく掴んだ仕事は二度と離さないように、周りとの違いを出すためにより長く、より厳しく働こうとする人ばかりだった。皆が職を失う怖さにおびえていた時代だった。そういう風潮の自動車業界に、御用聞きとして放り込まれた私は壮絶な時間を過ごした。お客さんからは無理難題を頼まれた。翌朝の生産に間に合わさなければならないから、すぐに持ち帰って修理して翌朝再納品しろ。つまり徹夜で修理しろと言われるのは日常茶飯事だった。また、納品した製品に不具合があれば、夜昼問わず、すぐに作業者を呼んで朝までに直せと言われた。自動車の製造ラインは24時間動いている。そして、部品は在庫を置かないのがトレンドだった。部品がなくてラインを止めることを異常に恐れていた。私は24時間365日かたときも携帯電話が手放せず、いつ電話がかかってきてもいいように待機していた。お客さんからの厳しい要求は私にとって大きなストレスだったが、さらに大きな問題があった。自分の会社の社内調整である。お客さんからの無理難題を社内に展開して対応してもらうことは困難を極めた。まだ若い、現場研修のときにダメ社員だった営業がお客さんの要求を社内に伝える。工程を管理する部署の担当者は20歳以上年上で頑固で偏屈な人間だった。彼は私のほうを一瞥もせずに、

「なんやその仕事、言われた時点でその場で断れ。」

 と低い声で言った。お客さんの緊迫感を知っている私はそれで引き下がれるわけもなく、何度も何度もお願いした。さんざん長時間頼み込んだ挙句、現場にやれるかどうか聞いてみろと言われた。現場と直接交渉するなら、管理とさっきまで調整していた時間はなんだったのかと思うが一歩前進なのですこしホッとする。この偏屈オヤジを通さずに直接現場に話をしたら

「なぜオレを通さず現場と話をするんだ。オマエの仕事はもう二度としない。」

 とヘソを曲げられるからだ。そして、現場に話を持って行く。ここにもクセが強い職人が何人もいて誰に頼んでも面倒なことになる。現場研修中に「大学でてるのになんでそんなことが分らないんだ!」とどやされた人たちに工事をやってもらえないかお願いしに行く。そこでも何回も頼み込んで、ようやく工事をやってもらえる。そういう調整だけでまる1日かかることはザラだった。中には最後まで断られてお客さんにこの日程ではできません。と断ることもあった。そのときはお客さんからこっぴどく怒られて自分の上司に連絡が入る。上司が現場と調整して工事を入れてもらい、そのあと上司と一緒にお客さんのところへ謝りにいった。お客さんと社内との板挟みで途方にくれた。コンビニの駐車場に停めた社用車のなかで頭を抱えていたこともある。現場の調整がうまくいかず、見積や提出資料は夜になってから作り始め、帰るのが12時を回る日がほとんどだった。深夜お客さんに呼び出され、一晩中修理をして朝すぐに新幹線にのって他のお客さんのところへ出張に出かけたこともあった。20代の若くて元気な時期のほとんどは仕事をするか寝るかというような生活だった。


 お客さんとも社内とも、交渉が決裂してたびたび問題を起こしている私に、上司はこう言った。

「イヤな人を避けていたらダメだ。イヤな人、嫌いな人にこそ会いに行って話をしろ。そうすればいつか仲良くなって自分のお願いを聞いてくれるようになる。」

 なるほど。私はそれを信じて、イヤな人とどう接すればお願いを聞いてくれるのか?という研究を始めた。そして3つの技を編み出した。まずひとつ目、要件から入らずに雑談から入ることを心がけた。お客さんがどれだけ急いでいて緊迫感があろうが、頼む人が私の話を聞いてくれる気持ちになっていなければいくら話をしても無駄だ。その人の家族の話や好きな野球チームの話など、世間話をしてから本題に入ることを心がけた。「最近、阪神強いですねー。」そこから会話を始めると機嫌がよくなってずいぶん話がスムーズに進むことが分った。私は、苦手な人の趣味や家族構成、出身地、学生時代やっていたスポーツ、子供は何歳か、など会話のネタになりそうなものは全て覚えるようにした。次に2つ目、粘らずすぐに引き下がることを心がけた。無理だ!と言われたら、そこを何とか・・・と食い下がっていたが、それをやると逆効果であることが分った。あんまり粘らずにそうですか・・・お客さんと相談してみますといって一旦引き下がった。何十分もかけてその場で決着をつけるより、時間を置いて2時間後にもう一度話をしたほうがいい結果になることが多いと分った。お客さんとは話をしてないのに、

「さっきまでお客さんと話してたんですけど、大変でした。このタイミングでの工事は絶対無理って何回も言ったんですけど生産が止まって困るからなんとか助けて欲しいって言われてるんですよ。なんとかなりませんか?」

 と相談に行く。ウソも方便である。いったん引き下がって時間を置くと、その間に現場に

「営業からこんな話がきてるからもしかしたら無理やりやらされることになるかもしれない」

 と話をしてくれていることが多かった。そうでなくても、その時間に最悪のケースを想像して心の準備が出来ているから比較的すんなりと受け入れてくれた。悪い知らせは徐々に知らせるというやり方を学んで、交渉はかなりうまく進むようになった。最後に3つ目は、その人を褒めること。

「この前は、無理な工事を調整してやって頂いてありがとうございました!お客さんもすごい喜んでくれました。」

 お客さんはなにも言ってなかったとしても、そう言ってその人を褒めることを心がけた。〇〇さんにしか出来ない仕事ですよね。などとその人がやっている仕事がいかに難しいか、その仕事をこなしていることがいかに大変か、というような言葉をかけることでその人が気分よく話を聞いてくれるようになった。ウソも方便である。時には大げさにやりすぎて逆効果になることもあったが、大体の場合、以前より交渉がスムーズになった。それらの技を駆使して、なんとか自分ひとりの力で社内調整をやり切ったときには心の底から嬉しい気持ちになった。

「頭脳戦を制して自分が思い通りの結果に導いたぞ。」

 そう心のなかで叫んだ。

 1日中、時には2日以上時間をかけて交渉しても上手くいかなかった社内調整が初めてうまくいったときの喜びは今でも忘れられない。こういうお客さんと社内との調整をお互いがイヤな気持ちにならないような話術、話すタイミング、押し引きや時間の使い方など、頭の中をフル回転させてようやくやりたい仕事が出来た。やっていることは、ただお客さんの要望を社内に展開しただけである。それでも、これは仕事を続けてきたなかで最高の成功体験となった。



 私が料理を作るようになったのは、結婚してからだ。共働きだったので、妻は休みの日が外食に行きたがった。私はお金を節約したかったから、休日は料理を作るようにした。妻は、自分が食事を作らなくてよければ満足だった。夕食は、唐揚げやハンバーグを作ることが多かった。食べきれないほどの量を作って余ったら翌週の常備食になった。レシピはクックパッドなどインターネット上のレシピを参考にした。ナツメグや、すりおろしたニンニク、ショウガ、玉ねぎ、時にはリンゴやトマトなども下味に使った。レシピにこれを使うと味が格段によくなると書かれているものは大体試してみた。料理酒、みりん、塩、砂糖、酢、しょうゆの配合は難しかった。大さじ〇杯という分量を混ぜる。合わせた調味料は煮たせたり、冷ましたり、とろみをつけたり、料理には細かい工程が多いことが分った。そういう苦労やひと手間が料理を美味しくしているのだなと思った。作った料理は、妻にはおおむね好評だった。いつも美味しいといって食べてくれる。私が食べるときは恐る恐る口にいれる。作った料理の工程を全て知っているから、このやり方でどんな味になっているのだろう?ということが気になるからだ。口のなかでゆっくり味わって、入れた材料、調味料の味が感じられるかどうか集中する。強く主張する材料もあるが、全く入れたことに気づかない材料もある。今度は生姜を少な目にしたほうがいいかな?玉ねぎはもう少し細かく切ったほうがいいかな?そういうことを考えながら食べた。次に同じものを作るときは、そのときの反省を生かして改良した。そうやって、作るたびに少しの変化が生まれること、少しずつ美味しくなっていくことに喜びを感じるようになった。

 子供が産まれてからは、やることが増えた。毎朝2合分の米でおにぎりを作ってから会社に行くようになった。乳児の世話で忙しい妻のための朝ご飯と昼ご飯を兼用するおにぎりである。少しでも食欲が増すように、妻の好きな肉味噌おにぎりを作った。みじん切りにした玉ねぎとひき肉を味噌と醤油とみりんで炒める。それを、炊けたご飯の入った炊飯器のなかに投入する。いりごまとネギを入れたあと全体をしゃもじで混ぜた。それをお椀の内側にラップを敷いてご飯をよそおって全体をラップで包んだあと三角形に握った。2合のごはんから5~6個のおにぎりをつくった。母乳にはシソの葉がよいと聞いてからはラップの底にシソの葉を敷いて握ったりもした。おにぎりも、毎日作るなかで少しずつ工夫を加えた。みじん切りのニンニクやショウガを加えたり、砂糖や塩、酢を加えてどのように味が変わるかを確かめようとした。家に帰ってから妻に、「今日のおにぎりどうだった?」と聞くのが日課になった。妻は、「いつもとおんなじで美味しかったよ。」と言った。微妙に味付けを変えたことは、滅多に気付いてもらえなかった。そして、めちゃくちゃ美味い!と言われることもなかった。プロが作るような特別に美味しい料理というのは、さまざまな要素が絶妙なバランスで作られているのだろうと思った。それを目指すことは難しく大部分は普通の味に落ち着く。特別に美味しい料理というのは、プロの料理人が何年もかけて試行錯誤した末、偶然も味方につけて生まれる奇跡なのだろう。そして、その領域に自分が到達するのは到底無理だと思った。


 子供が大きくなって、妻の余裕が出来てくると私が作る料理は、

 ①  土曜日の朝食

 ②  土曜日の昼食

 ③  日曜日の朝食

 ④  日曜日の昼食

 ⑤  日曜日の夕食

 ⑥  平日の妻の弁当に入れる常備おかずの作り置き

 この6種類。休日の食事のうち、唯一土曜日の夕食だけは外食である。

 休日の朝食は、おにぎりを作り、昼食は余っている野菜を使ってパスタやラーメンを作った。せっかく作るのだから少しでも美味しい料理を作りたい。インターネットでレシピを調べて作った。美味しくできるときもあれば、そうでないときもあった。ある時、YOUTUBEで料理研究家のチャンネルを見つけた。リュウジと名乗るその男は、ハイテンションでまくしたてながら、いかにも簡単そうに楽しそうに料理を作っていた。見てるだけで楽しく料理が出来そうなチャンネルだった。私はそのチャンネルの料理を作ってみることにした。最初に作ったのはチキン南蛮だった。チキン南蛮など作ったことはなかったが、簡単そうで美味そうにみえたから作ってみたくなった。タルタルソースを自作したことはなかったが、初めて自分で作ってこんなに美味しくできるものかと感動した。ピクルスを買ったのも初めてだったし、タルタルソースや甘酢タレにケチャップを入れるなど私の今までの料理の常識を覆すものばかりで新鮮だった。出来た料理を妻と娘に食べてもらった。そのとき、今までと明らかに違う反応があった。「めちゃくちゃ美味しい!」「これでお店だせるんじゃない?」「今まで食べたチキン南蛮のなかで明らかに一番美味しい。」「また作って!」妻から今まで言われたことのなかった賛辞を並べられて少し恥ずかしくなった。娘は父親とはあまりしゃべりたくないのか、なにも喋らなかったが出されたチキン南蛮を黙々と食べていた。なぜこんなにも出来栄えが違うのか?考えた結果、動画で見ることによる効果が大きいと思った。リュウジは野菜を切ったり調味量を加えるときに手元を写してくれる。全てのやり方を見せてくれるし、大事なところは強調して教えてくれる。視覚によるイメージがつきやすいところがよかった。よくあるレシピだと、砂糖大さじ1、しょうゆ大さじ2、みりん大さじ2、こしょう適量、合わせ調味料は★印の調味料を混ぜておきます。と書いてあるだけでどのように入れるのか?どのくらいの量になるのか?イメージが全く湧かなかった。動画で料理の作り方を見られるというのは、こんなにも世界が変わるのかと驚いた。このときの成功体験から、リュウジの動画のとりこになった。いろんな料理をマネして作った。リュウジのレシピは全てが妻と娘から好評だった。何回も作っていると、妻から「これ、リュウジ?」と聞かれた。リュウジの料理を作るようになって気付いたことが何個かある。熱を加える料理で、にんじん、大根の皮は別に剥かなくてもいいこと。ジャガイモも場合によっては皮をむかなくていいこと。砂糖・塩・醤油・料理酒・みりんなどを使う合わせ調味料は、場合によっては白だし麺つゆポン酢などで作ったほうが簡単に美味しくなること。ニンニク、バター、コショウを入れると簡単に味の深みが増すこと。灰汁は取らなくても別に味が変わらない場合があること。野菜は炒めて焦がすとそれが旨味になること。リュウジからは、簡単で効果的な料理のテクニックを教わった。それらは、いままでの常識とは全く違う裏技のようなものだった。そして、それを知ることで自分なりにアレンジした料理を作ることができるようになった。これらはリュウジのやり方を参考にして自分で考えたレシピである。いくつか紹介したい。


「休日朝のおにぎり」

 ①  3合のご飯を炊く

 ②  炊きあがったご飯のうえに天かすをご飯の大半が見えなくなるくらい乗せる。

 ③  天かすのうえから白だし・麵つゆを天かすにしみ込ませるようにかける。

 ④  カツオぶし4gのパックを少し開けて電子レンジで1分温めてご飯の上に乗せる。

 ⑤  鰹節のうえにマヨネーズを少量かける。

 ⑥  しゃもじで混ぜる。味を見て薄いようならアジシオをかけて調整する。

 ⑦  庭で育てているネギを切って、キッチンばさみで細かくきって乗せる。

 ⑧  すりごまをのせる。

 ⑨  お椀にラップを敷いて味付け海苔を載せたうえにご飯をよそおって、ラップで包んで握る。


 これは、まな板も包丁も使わない炊飯器のなかだけで完結する料理である。握るときのお椀も基本的にラップをのせて使うので洗う必要がない。娘が乳児のときにつくっていた肉みそおにぎりは、フライパンもまな板も包丁も使ったがそのときの手間に比べてはるかに簡単である。そして味も間違いなく美味しい。3合のご飯にたった4gの鰹節でこんなにも香りがたつのか?と作り手の私がいつも感動するおにぎりである。ツナマヨと、おかかと、天むすのいいところを集めたような味だった。朝ごはんとして食べて、お昼まで余っていたら、卵を入れたフライパンに余ったおにぎりを投入して炒める。塩コショウで味付けしてチャーハンとしてリメイクする。これも美味しい。


「らくらく唐揚げ」

 ①  鶏モモ肉1枚を5等分にキッチンばさみで切る。

 ②  切った鶏肉をボウルに入れて、焼肉のタレをかけてもみこむ。

 ③  肉の上にラップを敷いて1時間以上待つ。

 ④  漬けこんだ鶏肉に片栗粉をたっぷりつけて揚げる。


 唐揚げは料理を初めてから定期的に作る料理である。漬けダレに入れるものは様々なものを試した。ニンニク、ショウガ、ごま油、ラー油、酢、料理酒、みりん、リンゴ、玉ねぎ、カレー粉など、隠し味にコレを入れたら美味しいと言われているものはほとんど試した。しかし、それらの材料を入れることでそれ程劇的に美味しくなるものではなかった。むしろ奇抜な材料を隠し味として入れるとき分量を間違えるとバランスを大きく崩すこともあった。あるとき、スーパーで焼肉のタレの原材料をみたときに、ニンニク、しょうが、りんご、はちみつ、ゴマ、ゴマ油など、唐揚げの漬けダレに入れたい材料がズラリと並んでいた。しかもメーカーが試行錯誤を重ねて美味しい味になるようにそれぞれの原料が絶妙な配合バランスで入っているハズ。試しにコレだけで漬けダレにしてみたらどうだろう?と思って試しにやってみたのがこのレシピである。こんなに簡単で今までの手間をたっぷりかけた唐揚げと同じくらい美味しくなったら儲けものだと思っていた。そして、出来た唐揚げを食べて驚いた。ザクザクした衣を噛むと、さまざまな素材の味が口に広がる。鶏肉に繊細な味付けがされている。ニンニク、しょうが、唐辛子などの薬味の味を感じるが、それぞれが主張しすぎることがない。ビールやレモンサワーがすぐに無くなりそうなスパイシーな唐揚げである。こんなに楽に美味しい唐揚げが作れるのかと驚愕した。妻からは「この唐揚げ、お店で売れるんじゃない?」と言われた。このレシピも、まな板、包丁は使わない。ボウルとフライパンだけで出来てしまう。鶏肉に塩コショウで下味をつける、鶏肉に味がしみ込みやすいようにフォークで穴をあける、衣は片栗粉に卵の白身を混ぜてペースト状にしてつける、などのやり方を試してみたが、手間の割に効果があまり感じられなかった。肉の臭みは焼肉のタレが十分に除去してくれている。フォークで穴をあけなくても十分に下味がついている。衣に卵を混ぜると少しべちゃっとした触感になった。結局、最もシンプルで簡単な作り方が一番よかった。


「作り置き鶏ハム」「作り置き味玉」

 ① 卵10個のお尻の部分に画びょうで穴をあけて水に漬けておく。

 ② 鶏むね肉3枚の皮をはがし、塩コショウをかけておく。

 ③ 鍋にお湯を沸かして、沸騰したら卵を入れて10分茹でる。

 ④ 卵を茹でている間に、胸肉をキッチンばさみで1枚を4つに切ってジップロックに詰め込む。

 ⑤ ジップロックに白だし、ポン酢、オイスターソースを入れて全体が浸かるように空気を抜いて閉じる。

 ⑥ 鶏肉を入れたジップロックを炊飯器にいれて、ゆで終わった卵の湯を炊飯器に投入し、保温ボタンを押す。

 ⑦ 10分茹でた卵は殻を剥いてジップロックに入れて塩コショウをかける。その後白だし、しょうゆ、酢をいれて、空気を抜いて閉じる。

 ⑧ 鶏肉は、炊飯器で2時間保温したら、保温をOFFにして裏返す。余熱であと1時間熱を加える。

 ⑨ 卵はジップロックに入れたまま冷蔵庫で保存。

 ⑩ 鶏肉は1時間の余熱が終わったらタッパーに入れて冷蔵庫で保存。


 これは、会社に食堂がないので毎日お弁当を作ってもって行く妻のために作っている作り置きのおかずである。鶏ハムと味玉を弁当の中に入れて昼ご飯に食べている。私も夜に酒のつまみとして食べることがある。妻は鶏皮が嫌いなので、鶏皮が好きな私は、タッパーのなかから鶏皮を取り出してフライパンで少し焼いて食べるのが楽しみなのだ。最初はもっとシンプルな作り方だったのだが、週の後半になると鶏肉も卵も臭いがすこし気になるようになる。それの対策として塩コショウを掛けておくとだいぶマシになることが分った。どんなレシピも肉にコショウをかけて下味をつけることが多い。これほど臭みを抑えてくれていたのかというのは、このレシピを作る過程で初めて気付いた。コショウは偉大だと分かった。ポン酢や酢を加えるのは、腐敗を少しでも抑えたいからで、鶏ハムのほうが旨味を加えたいからポン酢とオイスターソース、味玉はシンプルな味にしたいから酢としょうゆをつかうことにした。妻は、「毎週食べても全然飽きないし美味しい。しかも朝のお弁当を作るのがすごい楽で助かる。」と言ってくれる。かなりの量を作るので平日に食べきれずに次の週末まで余っていることが多い。そのときは、休みの日の昼ご飯に、袋ラーメンを作る。鶏ハムを薄く切ってチャーシューのように乗せる。味玉は半分に切って乗せる。ちょっと豪華で彩りが豊かなラーメンが完成する。鶏ハムのタレも、鶏の脂が混ざってよい調味料になる。チャーハンを作るときに混ぜたり、おにぎりに混ぜたりして使った。鶏ハムは、炊飯器で低温調理する。時間がたっても胸肉とは思えないほど柔らかかった。白だしの旨味が適度にしみ込んでいて噛むたびに旨味があふれ出てくる。味玉は、中まで塩の味がしてそれだけでも美味しく食べることができた。そして、これらのレシピも包丁もまな板も使わない。鍋も炊飯器も茹でるために使うので汚れない。洗い物もほとんどない後片付けも簡単な料理だ。


 このように、作るのが楽で美味しいレシピがいくつかできた。何回も作っていると、こういうときは何を加えたらいいか分かってくる。白だしやバターやうま味調味料を入れるだけで味が格段によくなった。たまに、こんなに楽に美味しいものを作れてしまっていいのかなって思う。味見をするときに、今まで苦労して作ってきたものは何だったのだろうと、少し寂しい気持ちになることがある。あれ?これと同じような寂しさを他でも感じたことがあるような気がする。何だっけ?



 会社で私は、役職もついて年齢も上から数えたほうが早いくらいになっていた。相変わらず、お客さんと社内を調整するのが主な業務である。自分より若い他部署の人に、相当に面倒なことを頼むことがある。若いころに同じことを頼んだら、調整は1日では終わらないだろうと思える内容だ。しかし、私は若いころ習得した様々な技を駆使してこれを頼むことができる。だからさほど気が重くはない。

 最初は普通に頼んでみる。

「この内容なんだけど、明日までにやっておいてもらえないかな?」

 明日までに終わらせるには相当タイトな内容である。相手は露骨にイヤそうな顔をして、断ってくるだろう。しかし、そこから相手を納得させて仕事をやってもらうのが私の腕の見せ所だ。ところが、

「いいですよ。」

 相手は、特にイヤな顔をせずに普通に答えた。

「えっ?マジで?」

 こころの中で思った。若いころだったら、こんな仕事できるか!やるんだったらオマエも作業服に着替えて手伝え!と言われた。営業だって現場に無理を通すならそれなりの覚悟を見せないといけない。作業服を着て服を汚しながら深夜まで一緒に作業した。半分は現場に対するパフォーマンスだった。そうまでしてやっとできた仕事なのに、今やふたつ返事でやってくれるようになった。私は、無理難題をなんとかやってもらうための技を引き出しのなかに何個か持っている。しかし、引き出しを開けることなく終わってしまった。

「そっか、時間厳しいのに無茶な仕事やってくれてスマンな。」

「いえ、まあ仕事ですから。」

「ありがとう。ところで子供は元気?もう喋るようになった?」

 若いころのクセで、面倒なおっさんだけでなく、会社の後輩のことも家庭環境や趣味などは把握していた。彼は目じりを下げて、夜泣きが大変で夜寝れないとか、奥さんの親が頻繁に訪ねてきてウザイとか、ニコニコしながら話してくれた。

 仕事の調整がすぐに終わるのはありがたいことだ。余った時間を他のことにたっぷり使うことができる。しかし、時々寂しくなる。頑固で偏屈なおっさんと、ピリピリした会話のなかで、脳みそをフル回転させながらなんとか納得させて仕事をやってもらう。あのときの達成感が懐かしくなる。


「ああ、これだな。これと一緒なんだ。」


 今、私はリュウジから学んだことを参考にして簡単に美味しい料理が作れるようになった。昔は苦労して試行錯誤しながら、それでもうまくいかないこともあった。今では適当に作ってもそこそこ美味しいものが作れる。適当に仕事を頼んでも、すんなりやってくれるのと似ている。

 料理の世界では、楽をすることをよしとしない人たちがいるそうである。顆粒だしを使うのは邪道だ、煮干しや鰹節で出汁をとらないとダメ。昆布を1晩水につけて準備するのが当然という人もいるらしい。その人たちは、昔から試行錯誤しながら散々苦労して料理を作ってきたのだろう。簡単に美味しくなる調味料も無かったのかもしれない。でも、料理なんて楽に美味しくできるのなら、邪道でもなんでもいいんですよ。どんどん楽していきましょう。料理は楽しくやるものなのです!モニターの向こうでリュウジが語っていたことがある。確かにその通り。楽に作れることに越したことはない。


 でも、「そんな作り方は邪道だ。」という人の気持ちもちょっとだけわかる。

 その人は、大事な人に愛情をこめて料理を作ってきたのだろう。前の日から昆布で出汁を取って、干しシイタケを戻して、野菜は水にさらして、想いを込めて作ってきた人なのだと思う。手間をかけて上手くいかなくて悔しい思いをしたことも何度もあるだろう。かけた手間が愛情の証だと思っている人もいると思う。そういう人は、顆粒出汁や麺つゆ、電子レンジ、便利で簡単に作っている人を見ると文句を言いたくなるのではないか。時代の流れについていけずに、昔苦労して習得したことが尊いものだと信じている。私も同じだ。若いころ散々苦労して、そこから編み出した自分なりの仕事術は私の財産であり誇りだ。時にはスーツから作業服に着替えて油だらけになって働いた。深夜でも休日でも構わず働いた。しかし、今は働き方改革でそもそもそのような働き方はできなくなった。「昔は日付変わるまで働くのが当たり前だった。」そんなことを若い人に話すと、説教じみた老害だと思われて一瞬で嫌われるだろう。しなくてもいい苦労なら、しない方がいい。頭ではわかっていても、認めたくない自分がいる。娘が小さいころ、妻のために一生懸命作った肉みそおにぎりのほうが今作っている料理より尊いんじゃないかと思う時がある。それでも、目の前で私が作った唐揚げをほおばりながら、「仕事辞めたら唐揚げ屋はじめたらいいんじゃない?」という妻の言葉をきくと、それはやらなくてもいい苦労だったんだろうなと思う。若いころ仕事で散々苦労したことも、きっと今ではしなくてもいい苦労なのだろう。


「こんなの、皮むかなくても味変わんねーから!」

 モニターの向こうで、ぐでんぐでんに酔っぱらったリュウジが甲高い声で叫んでいた。


「青年は安全な株を買うべきだ。」

 今でははそう思う。

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