第2話 夜の灯火

 「もう、明日から来なくていいから。」

 いつものように掃除を終えて調理場を後にしようとしていた時だった。工場長から呼び止められ、投げつけられるような口調で唐突に告げられた。

 「...え?」

 突然の言葉に、坂辺 美莉愛(さかべ みりあ)は頭を強く殴られたような衝撃を受け、大きな目を見開き固まってしまった。

 『どうして?』

 何か悪いことをしてしまったのか?そんなことを言われる理由を回らない頭をグルグル回転させながら一生懸命考えた。

 「ど、どうしてですか?」

 頭が真っ白になりながらなんとか言葉を絞り出した。工場長は、フードキャップにマスクをしていて、表情が分かりにくかったが、どこか不機嫌そうに腕を組んでいる。質問に対して返答はなくて、まるで「言わずとも思い当たることがあるんでしょう。」と言っているかのように感じた。

 『怖い』そう思って、工場長の顔を見ることができず、胸元あたりで目を泳がせた。だんだん頭がのぼせたように熱いのに、手先がどんどん冷たくなっていくような感覚がして、気持ち悪くなってきた。

 「じゃあ、申し訳ないけどそういう事だから。」

 沈黙を断ち切った工場長の返答は期待していたものとははるかに違っていた。

 「え、まっ…!」

 とっさに引き留めようと右腕を伸ばしかけたが、工場長に触れる前に胸元へ引き戻した。

 工場長はお構いなしにスタスタと背中を向けて小さくなっていった。

 『何か言わないと。』『引き留めないと。』そう思って懸命に声を出そうとするも、言葉が喉でつっかえて出せなかった。

 とうとう何も言い出せず、工場長はスイングドアの中へと消えていってしまった。一人、取り残された調理場には、スイングドアがキュウキュウと悲しげに鳴いていた。

 どうして突然そんなことを言われたのかはわからなかった。でも、工場長は私に『くび』だという事を伝えたという事はわかった。

 『なんで?どうして?』少しずつ働き始めた頭で考えてみても、わからないことがたくさんありすぎた。でも、どんな理由であっても、もうここに来ることができないという事は変わりないことに悲しくなった。

 気付いたら、ぽろぽろと瞳から大粒のしずくが零れ落ちていた。びっくりして、あたりを見まわしたあと、とっさに壁に向かい合ってしゃがみこんだ。

 『ここで泣いたらだめ』

 そう思って必死に堪えようとしても、都合よく涙は止まってくれなくて、どんどん溢れて出してきた。

 肌荒れでザラザラした手で目をごしごし擦ると、瞼を引っかいて、ぴりっと痛みを感じた。痛みを感じないよう、手のひらに変えて優しく拭った。

 暗くなった調理室内はシーンと静まり返っていて、少しの物音でもよく響いた。誰にも見つかりませんように。そう祈りながら、冷え切った工場の隅で漏れそうになる嗚咽を必死に唇を噛んで堪えた。


                 


 蝉がミンミンと泣き叫び、何もしなくてもジメジメとした汗が滲み出て不快感を感じる季節。終業式も終わり、クラスのみんなは浮足立っているのを気にする素振りなく、先生が夏休み前の注意事項を説明している。

 私はそんな浮かれた雰囲気にはとてもなれず、窓の外をぼんやり眺めてため息をついた。

 『また長い夏休みが始まってしまう...。』

 そう思うと気持ちが一層暗くなった。私にとっての夏休みといえば、蒸し暑い娯楽のない室内で暇を見て余すことが毎年の恒例だった。そんなことで時間を過ごすくらいならエアコンの効いた教室内で授業を聞いていた方がましなのに。

 そんな事なんて関係ないといわんばかりに、夏休みが行事として自動的に組み込まれていることが恨めしくてたまらなかった。

 「ねぇ、バイトどうする?どこか一緒に行こうよ!」

 話し声につられて右前方を見ると、クラスメイトの女の子が楽しそうに友達と机の下で求人誌を見ている。

 私は気になって、ついつい2人の話に耳をそば立てて聞いてしまった。

 「んーでも、私部活あるからなー。」

 「土日だけでもいいじゃん?一緒の所で働いたら、仕事帰り遊びに行けるよ!」

 「それ楽しそう。でもこの学校バイトしてもいいっけ?」

 「バレなかったら大丈夫だよ~。」

 こそこそと楽しそうに話しているクラスメイトの様子を教壇で話している村井先生が怪訝そうな目で見ていた。

 「えー、わかっていると思うが、アルバイトするには学校に申請が必要だからな。無断でするなよ。」

 先生は話していた内容を聞いていたぞと言わんばかりに釘を刺した。2人はバツが悪そうに、さっと机の中へ求人誌をしまい、身体を正面に向きなおした。私も一緒に注意されたような気がして、姿勢を正して視線を教壇に向けた。

 『アルバイトか...。』

 私もアルバイトは何度もしてみたいとは思ったが、働きに行っているお母さんの代わりに家のことをしないといけないから、できないな。と半ば諦めていた。何なら、今後もすることはないんだろうな。とさえ思っていたが、机の下からちらっと見える求人誌には、”夏休みにできる短期バイト特集”という単語がキラキラして見えた。

 『へえ、そんなアルバイトの方法があるんだ。』新たな発見に胸が少しわくわくした。

 『夏休みなら、いつも学校に行っている時間帯にアルバイトをしたら家事もちゃんとできるんじゃない?』

 それを思いついた私に『天才じゃん?』と心の中で褒めてみた。

 『これなら、もしかすると充実した夏休みを送れるかもしれない。』そう思うと、気持ちが少し明るくなって”夏休み”が楽しいものなんじゃないかと感じれる気がした。そうと決まれば、この学活が終わったらアルバイトの申請に行ってみようかなと思い立ち、時計の針を眺めては、先生の話が早く終われと念じてみたりもした。



 「んー、これじゃあねぇ。許可出すのは厳しいかな。」

 放課後の合図とともに足取り軽く階段を駆け下り、窓口で申請書を提出したものの、アルバイト申請書にさらりと目を通した窓口のおじさんが困ったような顔をしながら鉛筆の先で白髪頭をポリポリと掻いた。

 「どうしてですか?」

 まさか許可が出ないとは思っていなくて、窓口の机に腕をついて申請用紙を覗きこんだ。

 「ほら、ここのアルバイトをしないといけない理由がね。この学校は特別な事情がない限り許可が下りないからねぇ。君の理由は、そんな特別な理由には見えないんだよ。」

 おじさんが申請書を私の方に向けて机におき、鉛筆でグルグルと印をつけている。印がされている記入欄には申請理由と書かれていて、四角の枠の中に10本ほどの線が引かれていた。そこにアルバイトをする理由を書かなければならなかった。

 私は、時間もなかったのでとりあえず、夏休みを有効活用できるからと書いて提出した。

 「これは流石に短すぎない?なんというか、いまさっき急いで書いたのがまるわかりになっちゃってて。ほら、本当にアルバイトが必要なほどの理由があったらもうちょっと丁寧に書けると思わない?」

 おじさんは、小ばかにするような口調で、聞いてもないのに今の若い子は本を読まないからだとか、書類に関係ないことをくどくどと説教までしてきた。

 クラスの子がアルバイトの申請したくなさそうだったのはこれが原因か。と初めて分かった。てっきり、申請書を出したらあっさり許可が出るのかと思ったらとんだ誤算だった。止まらないおじさんの小言に心の中で舌打ちをした。

 「どうする?書き直してくる?と言っても、夏休み期間は窓口閉まっちゃうから、今日中になっちゃうけど...?」

 おじさんはそう言いながら、受付終了のプレートを目の前にポンと置いた。プレートに書かれた受付時間終了まであと10分もなかった。

 これは、時間厳守でしか受け付けてくれないという事なんだろうなと察した。

おじさんの小言が長いからでしょう!と少し思ったが、ぐっと堪えた。限られた時間でおじさんを納得させられるような文章を書ける自信もなかったし、このまま提出したいと言う勇気もなかった。

 「いいです。諦めます。」

 「あぁ?そう?なら仕方ないね。」

 そう言って、おじさんは申請用紙を机から持ち上げて私に差し出したのをしぶしぶ受け取り、小さくため息をついて学校を後にした。



 

 自転車を漕いで、ふつふつと悔しさや悲しい気持ちを感じながらアパートにたどり着いた。屋根と言っていいのかわからない雨漏りがする駐輪スペースの隅に自転車を停めて、ところどころ白色のペンキが剥がれ落ちて錆びがあらわになっている階段を上がり、廊下一番奥の薄いドアの鍵を開けた。

 扉を開くとワンルームの室内は真っ暗で、ムワっとした空気が部屋中に立ち込めていた。

 「うわ、あつー。」

 たまらず靴を脱ぎ捨て、一目散にカーテンと窓を開けた。夕方の和らいだ光が部屋の中に入ってきて、目を細めた。

 窓を開けたついでに洗濯物を手際よく取込んで、部屋の中に置いた後、扇風機の風量を強にして、汗でべたべたになったセーラー服の裾をパタパタさせて中に風を送り込んだ。汗で湿ったインナーが冷たくなって心地よかった。

 インナーのべたべた感が少しマシになったところで、長い黒髪をきれいに後ろで括りなおし、手際よく洗濯物を畳んで元の場所に片付けていった。蒸し暑い室内は、数歩歩いただけでも汗がジワリと滲み出た。たまらず、取り込みたてのタオルを首に掛け、汗をぬぐった。使い込まれてザラザラになったタオルに顔をうずめると、お日様と柔軟剤の香りがふわりと香った。

 部屋に掃除機をかけ終わるころには、さすがにタオルも汗を吸ってしんなりしていた。お風呂場に向かい、セーラー服を脱ぎ、首にかけていたタオルで身体の汗を拭き取って洗濯機に放り込んだ。引き出しを開けて、1番上にあったTシャツとハーフパンツを着ると、針金ハンガーにセーラー服を掛けて、カーテンレールに引っ掛け風にあてた。

 家事も一段落すると、急にお腹が空いてきて、そろそろ晩御飯を買いに行こうと思った。今日は、スーパーでコロッケが半額になる日だったので、絶対行こうと決めていた。あそこのコロッケは、おいしいし、食べなれたお弁当と一緒に食べると満足感も感じられたので好きだった。

 足取り軽く、普段お金が置いてあるローテーブルに近づくと、封筒が数通、無造作に置かれていた。

 なんだろう?と気になったが、コロッケを早く買いに行かないとという気持ちが競っていたので、封筒の上に置いてあった千円札をさっと取って、アパートの階段を駆け下りた。

 急いで自転車を漕いでスーパーにつくと、切れる息をこらえながらまっすぐ総菜コーナーへ向かった。コロッケが残っているのを確認できると、ほっと胸をなでおろした。

 売り切れてしまう前に、トングで1つ掴み、プラケースに移し替えて買い物かごに入れた。そして、いつものように割引シールが貼られているお弁当を物色し、1つだけ残っていた唐揚げ弁当を手に取った。買い物かごの中身を見て、揚げ物ばかりだな。と思ったけど、何も見なかったことにした。朝ごはんのパンを1つ適当に取ってレジに向かった。

 レジの順番を待っていると、受付カウンターに貼っている求人募集のポスターが目に入った。

 「スタッフ募集…。レジ…。高校生可」

 受付カウンターにいる店員さんに気付かれないよう、注意しながら求人広告の内容を目で追っていった。目が合いそうになると、サッとまっすぐ向き直って、何も見ていないような素振りをしてみるが、もし気づかれていたらと思うと、少し恥ずかしくなった。

 もし、ここでアルバイトできたら、日中働けるし、家からも近いし、いいな。と思ったが、ついさっきアルバイトの申請が通らなかったことを思い出して、悲しくなった。

 『黙っていればバレないんじゃないかな...。』そう思ったが、ここから学校も近いからクラスメイトに見られるかもしれないし、レジなんてばれてしまう可能性が高いに決まっている。そう思うと、冷静になってきて、止めておこうと思った。

 「公立高校に合格さえできてたらな...。」

 そんなどうしようもない後悔をしているうちにレジの順番が来て、淡々と手慣れた手さばきでレジ打ちをしている学生服の上からエプロンを身に着けている店員に代金を支払った。


 スーパーを出た頃には空が夕焼けと夜色で混じり合っていた。暑さもマシになっていて、すっかり冷房で冷えた身体を心地よく溶かしてくれるようだった。

 自転車の前かごにお弁当を入れて勢いよくペダルを漕ぐと、顔で捉えた風が心地よく髪の毛をなびかせた。その感覚が気持ちよくて、グイッとペダルに力を込めて漕ぐと、お弁当を入れたビニール袋がバサバサっと大きな音を立てたので、びっくりしてブレーキをかけた。そっと袋の中を覗き込んで、お弁当がひっくり返っていないことを確認すると、振動に注意しながらゆっくりと自転車を漕いで帰った。

 アパートにつくと、お腹はもうペコペコだった。買ってきたお弁当をレンジに入れてあたためボタンを押した。空腹を我慢できずに、コロッケをかじりながら、まだかな、まだかなと回転しているお弁当の様子を観察した。

 ピーピーと温めが終了したと知らせる音が鳴った。もうその時にはコロッケは食べ終わっていて、扇風機にあたりながらテレビを見ていた。

 「まってました。」

 鼻歌を歌いながら素早くレンジの前まで行き、扉を開けた。白い湯気が箱の中に広がっていて、ふわりと唐揚げのいい香りがして、余計にお腹がすいた。

 「いい匂い。」

 早く食べたくて、ジュウジュウと音を立てているお弁当を何も考えず、素手で掴んだ。

 「あっつ!」

 思っていたよりも容器が熱くて、とっさに手をひっこめた。手をひらひら揺らしながらレンジの中を見ると、お弁当の容器が少し歪んでしまっていた。

 「あちゃー。温めすぎたかな。」 

 中身が大丈夫か心配になったが、次は熱くないようにお弁当の端っこを指先で慎重に持って、ローテーブルまで運んだ。机に置いてあるものが汚れないように肘を使って机の隅に寄せて、お弁当を置いた。

 座って食べるところに扇風機の風が当たるように位置を調節し、スーパーでもらってきた割り箸を割って唐揚げを一口頬張った。衣は、温めすぎて少しガリガリしていたが、鶏肉がジューシーでおいしかった。何度も食べているが、やっぱり唐揚げは飽きないなと少し関心しながら、湯気を立てる白米も一緒に口に入れた。次は何を食べようか箸を迷わせていると、温める前に取りだすのを忘れて熱々になった沢庵やポテトサラダを見つけて、やっぱりとりわけ分けとけばよかったかな。と少し後悔しながら、一口齧った。食べれないこともない味だったが、次からはちゃんと取り分けておこうと小さく決意した。

 お弁当はあっという間に食べ終わってしまったが、物足りなさを感じて、空になったお弁当の容器を見つめてみるが、食べられるものがあるはずもなく、小さくため息をついてお腹を撫でた。

 「今日はコロッケを食べられたからいいや。」

 自分を励まして、お弁当容器を捨てようと立ち上がろうとした時、ふと、封筒のことを思い出した。ローテーブルの隅に追いやられた数枚の封筒を手に取り、宛先を見ると全てお母さん宛てだった。送付元を見ると、私の学校からの手紙が1通混ざっていた。

 「学校から?」

 お母さん宛ての手紙はいつも私が持ち帰って渡しているものだけだと思っていたから、きれいな封筒に入れて自宅に来るのは珍しいなと思った。何が入っているのか気になって、裏をひっくり返すとすでに開封されていた。

 「あ。開いてる。」

 『中を見れる。』そう思った。本当は人の手紙を見ることなんてダメなことなんだろうけど、私の学校からだし。と、都合のいい理由をつけて中に入っている紙をすべて抜き取り、恐る恐る内容を見ると啞然とした。

 手紙の内容は、後期の学費の振込依頼だった。そこまでは良かったのだが、問題はその値段だ。

 「ひゃ...くまん。」

 振込用紙に記載された値段は想像をはるかに超えていた。しかも、振込期限は夏休みが終わるまでだった。

 「こんな大金払わないといけなかったなんて…。」

 振込用紙を握ったまま、目の前が真っ暗になって、固まってしまった。後期という事は、前期もあったはず。お母さんはこんな大金をあと3年間払わないといけないのかと思うと、胸のあたりがざわざわした。

 私立高校にしか受からなくて、涙を浮かべる私を責めずに優しく「仕方ないよ。大丈夫。」と頭を撫でてくれたお母さんの顔が蘇ってきた。

 「だから、帰ってこなくなったのかな。」

 そのあとくらいから、いつもなら深夜に帰ってくるはずなのに、どんどん帰ってくる時間が遅くなっていっているのを薄々気づいていたが、まさか私のせいで夜遅くまで働いているんじゃないかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 「私が失敗なんてしなかったら、お母さんはもうちょっと...。」

 はっと我に返って、ドクドクいっている心臓を落ちつかせながら、そっと手紙を封筒の中へ戻し、他の封筒の一番下にして、元の位置に戻した。

 落ち着かない気持ちを紛らわせるように、目に入った空のお弁当容器をごみ箱に捨てに行ってみたり、意味もなくテレビをつけてみたり、チャンネルを変えてみたりしてみたが、気持ちのざわざわは消えなくて、いつも楽しく見ているはずのテレビの内容は頭に入ってこなかった。

 気づけば、さっきまで見ていたはずのバラエティー番組は終わっていて、アナウンサーがニュースを読み上げていた。時計を見ると21時を回っていた。

 「いけない。早く寝る準備しないと。」

 そう思って腰を上げようとしたが、明日から夏休みという事を思い出して再び座りなおした。

 「そっか。夏休みだった。」

 明日から私は休みなのに、お母さんは関係なく働いている。そんなことを思うと、罪悪感でいっぱいになった。

 「せめて自分の食べるものだけでも自分で出せたらな。」

 そう思っても、学校に申請なんてできないし、どうすればいいかを考えてみてもいい案が浮かばなくて、ドサリと寝転がり、天井を見上げた。

 「この理由だったら絶対あのおじちゃんも納得だよね。絶対申請なんて余裕で通ったのに。」

 どうしてこんな事情を今さら気づいたのかと少し悔しくなって、通学カバンを睨んだ。

 『バレなければ大丈夫だよ~。』突然、クラスメイトが言った言葉をふっと頭をよぎって、上体を起こした。

 「...そっか。バレない所でバイトをすればいいのか。とりあえず夏休みだけだし。もし、ばれても、学校が始まるころにはやめているし...。理由も、仕方ないことだし。」

 本当はいけない事だとわかっていても、無断でアルバイトをするための言い訳は不思議とどんどん湧いてきた。そんなことを考えていると、なぜか自分にとって都合の良いことを考えているはずなのに、それが正しいことと錯覚してきてしまう。

 「でも、やるしかないし。仕方ないもん。」

 頭の中では、やめた方がいいと言っていたが、肯定的な言葉で上書きした。心臓がドクドクと音を立てて、少し不安だと言っているが、知らないふりをした。

 早速、何か動かないとと思ったものの、明日にならないと何も動けないことに気づいて、少し肩の力が抜けた。

 「よ、よし。とりあえず、明日。探しに行こう。」

 そう思うとなんだか安心して、身体が汗で気持ち悪いことに気が付いた。

 「とりあえず、お風呂に入ろ。」

どっこいしょと立ち上がり、洗面所で服を素早く脱ぎ、シャワーで汗を流した。ぬるめのお湯で髪の毛を洗うと、ひんやりして気持ちよかった。なるべく短時間で終わるように手短に身体を洗った。最後に水を浴びて脱衣所へ出ると、外の気温がひんやり感じて心地よかった。

 洗いたてのパジャマに袖を通して、濡れた髪のまま、押し入れから二人分の布団を出して、定位置に枕とタオルケットを並べた。

 キッチンで歯磨きを済ませてから、電気を消して窓際の布団に寝転がった。窓からそよそよと入ってくる夜風を背中で受けながら、瞼を閉じた。



『シャーーー。』 

お隣さんがシャワーを浴びる音がして目が覚めた。

 じんわり湿った腕で瞼をこすりながら隣の布団を見るが、お母さんの姿はなく、昨日の夜に布団を敷いた時のままだった。

 ゆっくりと身体を転がして、寝転がったままカーテンを引っ張り開け、日の光を室内に入れた。

 「うぅ。」

 思いのほか日光がまぶしくて、タオルケットを頭までかぶった。日光を浴びると死んでしまうドラキュラの気持ちを何となく想像してしまった。

 だんだん光に目が慣れ始めたところで、むくりと起き上がり壁時計を見ると、午前10時を回ったころだった。

 「よく寝たなぁ。」

 両手を上げて伸びをすると、身体にじんわりと血が回ったような感覚になった。学校があるときはこんな時間まで寝ることができないから、なにより特別感があってうれしかった。

 部屋の中を見渡すと、ローテーブルの上に1000円札が置いてあって、お母さんが帰ってきたんだなとわかった。昨日あったはずの封筒たちもすべてなくなっていて、少し気持ちが重くなった。

 「早く見つけないとなぁ。」

 アルバイトを探すには、求人誌を見つけないといけないことはわかっているも、どこにあるかはわからなかった。

 「まずは、求人誌を見つけにいかないと。」

 小さくため息をついて、罪悪感と、使命感、不安感も一緒に押し込むように、布団を押し入れに無理くり突っ込んだ。

 汗でべたついた顔を洗って、昨日買っておいたパンを冷蔵庫から取り出し、一口齧った。外に置いておくと腐ってしまう気がして冷蔵庫に入れているが、食べてみるとおいしくなくて、早く食べ終わるように口の中にパサつくパンを頬張った。

 テレビをつけると今日も猛暑で最高気温が例年よりも高くなっていると天気予報士が伝えていた。隣でアナウンサーが熱中症に気を付けないといけませんね。とか水分補給をしっかりとしましょうと話しているのを聞き流しながら、コップに水道水を入れてパンを流し込んだ。

 汗がにじみ出るのをタオルで拭いながらいつものように洗濯物を干して、昨日掛けっぱなしだった制服を畳んで押し入れの中にあるクローゼットの中に直した。

 掃除機をかけ終わるころには、パジャマが汗で湿っていたので、たまらず脱いで、適当な服に着替えた。

 時間を見ると、12時に差しかかろうとしていた。お昼ご飯を食べようと思ったが、昨日の買い物の時にそのことを考えていなくて、何も買っていないことに気づいた。

 「あー、あの時買っとけばよかったな。」

 コロッケを買うことに必死になっていた昨日の自分に後悔しながら、昨日のお釣りを握りしめてスーパーへ向かった。

 外に出ると、じりじりと照り付ける太陽が暑くて、肌が焼けるようだった。自転車ならすぐにつく距離でもいつもよりずっと遠く感じた。

 スーパーにつくと、中は冷蔵庫のように冷えていて気持ちよかった。何を食べようか歩き回っていると、冷やしうどんがおいしそうに見えて、これにしようとかごに入れた。レジに向かう途中、特売品でレモン味の甘い炭酸飲料が売っていて、買ってもいいか悩んだが、喉が渇いていたので一緒に買った。

 レジを抜けると、商品を詰める台の上にクラスメイトが見ていた同じデザインの求人誌が置いてあった。今まで何回もスーパーに来ているはずなのに、どうして知らなかったのか不思議だったが、探す手間が省けて、得したなとうれしい気持ちになった。

 取っているのを誰かに見られるのがなんだか恥ずかしくて、人がいない台に近づき、一冊箱からとって足早に店の外へ出た。

 自転車置き場で、求人誌の表紙を眺めて”夏休みにできる短期バイト特集”と心の中で読み上げると、ドキドキと、わくわくした気持ちが込み上げてきて、こそばゆい気持ちになった。

 早く中を見たいと思うと、ジュースを飲む時間も惜しいと感じて、買い物袋の中に求人誌を丸めて入れてペダルを力いっぱい漕いで帰った。

 



 ローテーブルの前にぺたんと座って、不貞腐れながら天かすがふやけたうどんをチミチミすすった。

 うどんを食べる前にどうしても気になって、求人誌を最初のページから丁寧に読んでみたが、期待していたものとは違っていた。

 「ええ、高校生はダメってこと?」

 「ここ!いいっ...て、遠いなぁ。」

 「あー、出勤時間早いなぁ。」

 求人とにらめっこしては、一喜一憂して、最後のページまで丁寧に見たはずなのにペンで丸を付けることができた求人は2つだけだった。もっとたくさん働ける場所があると思っていたのに、裏切られたような、残念な気持ちになった。

 もしかしたら、見落としがあったかもしれないと思ってもう一度見返してみたりもしてみたが、丸が増えることもなかった。

  「この2つに連絡してみるしかないか。」

 めんつゆを吸って茶色くなってしまったうどんを食べきり、ごみを捨てたあと、気分は乗らなかったが子機を手に取ってローテーブルに戻ってきた。

 1つ目は家から一番近いコンビニ、2つ目はいつも行くスーパーの敷地内にあるアパレルショップ。

 まずはコンビニに電話しようと思った。勇気を振り絞って電話機に電話番号を間違えないよう慎重に押して、耳元にあてた。プルルルルと発信音が聞こえてくると、心臓がバクバクしてきて、不在着信になればいいのにと思った。

 「はい。」

 ガチャと音が聞こえた後、少しダルそうな声の男性が電話に出た。

 「あ、すいません。求人を、見て。あの、電話したんですけど…。」

 急に声が聞こえたので、びっくりして頭が真っ白になってしまった。要件を一生懸命伝えようとしたが、自信がなくて声がだんだん小さくなっていってしまった。

 「あー。ちょっとお待ちください。」

 男性はか細い私の声でも要件を察してくれたのか、軽やかなメロディーが流れだした。

 「もしもし。お電話変わりました。アルバイトの件ですね。」

 しばらくすると、中年の男性の声が受話器から聞こえてきた。

 あたふたするも、とんとん拍子で面接の日程が決まった。

 電話を切ると、なんだかすがすがしい気持ちになった。

 「明日の11時から。」

 忘れないようにつぶやいた。初めて仕事をしている人と話して、予定を立てることができた嬉しさで顔が少しにやけてしまった。この勢いのまま2つ目のアパレルショップに電話をしようと思った。

 「よし、いっちゃえ。」

 さっきよりも緊張が和らいで、ボタンを押すのが簡単になった。受話器から誰かが出るのを緊張しながら待っていると、ガチャリと声の高い女性の声が聞こえた。

 「はい。お電話ありがとうございます。」

 さっきと同じセリフを言った。今度は、声が小さくならずにいう事ができて、よし!と心の中でガッツポーズをした。

 女性は何か考えるような感じでどこかへ移動していき、今日の17時に面接に来てほしいという事だったので行くことにした。

 電話を切ると、ふーっと一息ついて頑張った自分をほめた。なんだか一つ大人になった気がした。

 「どうしよう。即日採用されちゃったら。」

 そんな事を想像してみたり、早く17時になってほしいなとか、行きたくないなとかいろんな気持ちが込み上げてきて、なんだか気持ちがそわそわ落ち着かなかった。




 夏休みが始まって1週間が経った夕方。ローテーブルの上に子機を置き、着信音が鳴るのを今か今かと固唾を飲んで待っていた。

 2つのアルバイトの面接が終わり、採用なら今日の夕方までに電話が掛かってくるはずなのに、待てど暮らせどいっこうに連絡が来なかった。

 『夕方って何時までなんだろ?』

 『まさか不採用?いや...。まだ決まったわけじゃないし...。』

 そんなことをグルグル考えながら、いつまでたっても鳴らない電話に気を揉んでいた。

 とうとう、午後7時を回っても連絡が来ることはなかった。

 「ふぅ。仕方ない。ご飯買いに行こう。」

 落ち込んでいる自分をなんとか慰めて、気分転換に外に出ようと重い腰をあげた。

 いつもはスーパーとか、コンビニで割引しているお弁当を買うことが多いけど、アルバイトに落ちた手前、お店の中に入る度胸は当然なかった。

 「少し遠いけど、違う所に行くか。」

 家から距離はあるけど、駅を通り抜けたところにスーパーがあることは知っていたので、そこに行こうと思った。

 どうせ落ちるなら、遠いところの求人に応募したらよかったなと後悔しながら、自転車を走らせた。いつものルートで進んでいると、採用面接で落ちたコンビニの前を通ることに気づいて、それはなんだか気まずく感じて、いつもなら大通りをまっすぐ行くところを、あえて路地の方へ曲がった。

 「あれ?おかしいな。」

 方向的にはあっていると思って進んでいたが、いっこうに見慣れた道にたどり着かなくて同じような風景をグルグルさまよっているように感じた。

 「もしかして、迷っちゃった?」

 そう思うと、急に不安な気持ちが込み上げてきた。

 『大丈夫。』と自分を励まして自転車を漕いでみるも、日が落ちて雰囲気が変わった街並みが余計に不安感を増長させた。

 闇雲に自転車を走らせていると、奥の方で看板が光っているのを見つけた。導かれるように向かうと、そこはこじんまりとしたお惣菜屋さんがあった。

 白色の看板にレトロな赤色の文字で、”キッチン あい”と書かれているどこか懐かしさのある木造のお家。1階がお店のようで、まだ営業中なのか店内の明かりが暗い道を照らしていた。

 「こんな所にこんなお店があったんだ。」

 不思議とさっきまでの不安は少し軽くなって、新しく見つけたお店に興味が出ていた。

 自転車から降りて、店中が丸見えの出入り口から覗き見ると、奥のレジで腰の曲がったおばあちゃんが何か作業をしていた。

 店の前に自転車を停めて、出入り口の引き戸をゆっくり引いて中に入ると、昔ながらの扇風機の風が顔を撫でて、おばあちゃんの家に来たような懐かしいにおいと、いろんなおかずの良いにおいがふわっと香った。

 お店の中は、壁際と真ん中に机があいてあって、等間隔に値札が置いてあったが、閉店が近いからなのか商品はほとんどなかった。

 「ごめんなさいね。もうほとんど売り切れてしまって。おねえちゃんが好きなやつはないかもしれないわ。」 

 置いている商品を見て歩いていると、おばあちゃんが申し訳なさそうに声をかけてきてくれた。

 「あ、いえ。こちらこそ閉まっちゃうときにきてすいません。」

 こっちも申し訳ない気持ちになって、何となくぺこりと頭を下げた。もう少し何が並んでいるか見たかったが、おばあちゃんの視線が気になって、近くにあったお惣菜を1つ取ってレジに向かった。

 「はいはい。ありがとうね。」

 小さなおばあちゃんは目じりを下げてほほ笑んだ後、人差し指を迷わせながらレジのボタンを押した。レトロなレジの画面に”ニクジャガ”と表示された。

 「はい。124円ね。」

 ポケットから1000円札を取り出してコイントレーに入れると、皺が刻まれた小さな手が伸びてきて、お釣りを受け取った。

 「ちょっと待ってね。」

 おばあちゃんは机の下から小さなビニール袋を出して、優しい手つきで、汁が漏れないように肉じゃがが入ったトレーを包んでくれた。

 「今日はお使いかい?」

 「え、あぁ。まぁ…。」

 まさか話しかけられるとは思っていなくてびっくりしてしまった。お使いというわけではなかったけど、その場しのぎで答えた返答が歯切れ悪くなってしまって、気まずくなった。

 「そうかい。えらいね。」

 「あ、ありがとうございます。」

 商品を受け取り、ペコリと頭を下げてそそくさとお店を出た。自転車に商品を乗せ帰ろうとしたが、これでは絶対に足りない自信があってどうしようか頭を悩ませた。

 「どこかでもう少し買って帰ろうかな。」

そう決めて、自転車留めを蹴ってハンドルを握った時、目線の先に手書きのポスターが貼ってあることに気づいた。

 太字の黒マジックで、形はいびつだけど、優しそうなやわらかい文字。おそらくあのおばあちゃんが書いたんだろうなと思った。長い期間貼られていたのか、紙は日焼けして茶色くなっていて、四隅にとめているセロハンテープは乾いて今にも取れそうだった。

 ポスターを見ていると、お店の出入り口からおばあちゃんが出てきて、私の姿を見つけると、こちらの方へゆっくり歩いてきた。

 「よかった。まだいてくれて。はい、これ。もうお店閉める時間だし、残るともったいないから。よかったら持って帰ってくれると嬉しいんだけど。」

 おばあちゃんは、ラップに包んだ丸いものを2つビニール袋の中にそっと入れてくれた。

 「えっ、本当にいいんですか?」

 まさか心を読まれたかもと焦ってしまったが、そんなわけないと冷静になった。気になって中を見ると、海苔に巻かれた野球ボールくらいのおにぎりが入っていた。

 「美味しそう。」

 つい、ぼそりと心の声が出てしまった。はっとして、聞かれてないかおばあちゃんの顔を見ると、優しい目でにっこりほほ笑んでいた。

 「それは良かった。おいしいよ。」

 やっぱり聞かれちゃってたかと恥ずかしかったが、喜んでいるおばあちゃんの顔や声は不思議と安心感があってほっとした。

 「でも、二つしかなかったから、他の家族は当たらないね。」

 おばあちゃんは、どうしたものかと考え込むしぐさをしてお店の中へほかにものがないか探しに行こうとしていた。

 「あ、大丈夫ですよ。...お母さんほとんどいないし。私一人なので。」

 おばあちゃんにこれ以上の気を使わせないよう言った最大限の配慮のつもりだった。が、その言葉を聞いて振り返ったおばあちゃんの表情を見て『しまった』と思った。

 「...そうかい。」

 どこか悲しそうな目で口角を上げるおばあちゃんを見て、やっぱりこのことは言ってはいけない事なんだなと痛感した。

 「それはそうと、一人分でもこれは足りるんかい?」

 どこか気まずい気持ちでいると、おばあちゃんが前かごを指さしてほほ笑んでいた。

 「えっと、それは…。」

 どう返答すればいいのかわからなくて、一瞬固まってしまった。

 「私もね。毎日一人でご飯食べてるの。お店もう終わりだし、一緒に食べてくれる人がいると嬉しんだけどね。」

 「え、っと。」

 こんなこと言われたことがなくてどうしようと混乱した。おそらく、断るべきなんだろうけど、一緒にご飯を食べる事がおばあちゃんの嬉しいことだったら断るといけないのかもしれないと正解を導かれずにいた。

 「もしかして、迷惑だったかい?」

 「あ、いいえ。全然。」

とっさに答えた瞬間、先ほどまでの緊張感はどこかに飛んでいった。すると、ひょいと前かごからビニール袋が飛び出しおばあちゃんの手元でゆらゆらと揺れながら店内に吸い込まれていった。

 「ほれ。おいで。」

 あっけに取られていると、おばあちゃんが出口から顔を出し手招きをしていた。私は、急いで自転車を停めなおしてお店の中へ入っていった。




 

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