新月の子は空を見上げない

伏見津におん

第1話 真夜中の白猫

 静まり返った事務所で、頭上の薄暗い蛍光灯を頼りに安藤 潔歩(あんどう ゆきほ)は黒髪を後ろで結び、夜食で買っておいたおにぎりを片手に頬張りながら、パソコンのキーボードをたたいていた。

 潔歩は大学卒業後、地方公務員に入庁し、6年目となった。仕事は慣れてきたものの、職歴とともに増えていく業務量でいつしか残業が当たり前の生活となっていた。

 ふと時計を見ると、午後11時30分を過ぎようとしていたのを思わず二度見し、時計を凝視した。

 「もうこんな時間か。」

 終業時間以降、作業しっぱなしだった手をとめて、大きく伸びをしながら天井を仰ぎ、息を漏らした。

 電車で通勤しているため、終電の時刻が仕事を強制終了させるタイムリミットとなる。まだしないといけないことはあるが、終電を逃して役所に泊まることだけはごめんだ。

 「やばい。明日の準備だけでもやっとかないと。」

 土壇場で、会議資料を印刷しておかなければならないことを思い出して、机から勢いよく立ち上がり、原本を持って印刷室へ走った。人数分の資料に予備も印刷して、机の上に置いた。

 時計を見ると、タイムリミットまであと数十分。優先順位をつけ、焦る気持ちで最低限の仕事をすすめていった。

 時間ギリギリまで仕事をしても、自分の納得いく所まで作業を終えられず、名残惜しい気持ちを抱えながら、机の近くに置いていた石油ストーブの火を消した。先程までストーブの上でしゅんしゅんと音を立てていたやかんが静かになったのを確認してから急いで出口へ向かったが、窓の鍵が開いていたら大変だと思い、事務所まで引き返し、建物内を歩き回って一つ一つの窓に鍵がかかっている事を確認してから、職場を後にした。

 裏口の扉を開けると外は、凍えるような寒さで、風が吹くと身が凍るようだった。

「さむっ」

 たまらず声を出して、肩をすくめた。

 なるべく肌が外気にあたらないよう、適当に巻いていたマフラーを口元まで締め直し、徒歩20分ほど先にある最寄り駅までパンプスをカツカツ鳴らしながら小走りで向かった。


                 ❄


 改札を通り抜け、駅のホームに着くと、今日は金曜日だというのに、人はまばらで、仕事帰りと思わしき中年の男性がホームで列を作っていた。電光掲示板を見ると、8分後に電車が来るようだった。

 「結構、余裕で着いたな。」

 プラットホームで待つ時間としては少し長いように感じて、休憩所で暖をとるか悩んだが、身体は歩いたおかげで温まっていたので、降りる駅の出口から近い場所で電車を待つことにした。

 足踏みしながら待っていると、到着時刻ぴったりに軽やかな音楽が流れ出して、各駅停車が速度を落としながらホーム内へと滑り込んできた。

 ぷしゅーと気の抜けた音がなると、ホーム柵が開き、電車の扉が開いた。

 駅員が、停車している電車に乗ろうと階段を駆け下りてくる人たちを横目に終電であることを拡声器でアナウンスしている。

 私は、心の中で「これに乗り遅れたらどうするんだろう。」と、どうでもいいことを考えながら車内に入った。

 中の乗客は数えるほどしかおらず、自由に席を選べそうだった。私は、外からの冷気を感じないよう、車両の真ん中で窓際の席に座った。

 座席に座った瞬間、身体の力が一気に抜け、体重を背もたれに預けた。窓に頭をもたれさせ、長めに息を漏らしながら流れていく景色を横目にぼーっと眺めた。

 今日は新月のようで、窓から月は見えなかった。ふと窓に映った自分の顔に目をやると疲労感が滲み出ていて、一気に老けたのではないかと目を疑った。悪あがきで無理矢理口角を上げて笑ってみるも、窓ガラスに映る顔は暗い表情に見えた。

 ふう。と鼻でため息をつき、頬杖をついて流れていく風景に目をうつした。

 世間から見て立派だと思ってもらえるからと決めた仕事だったが、毎日夜が更けても業務に追われ、くたくたになって寝るだけの毎日が待っているとは入職時の私は夢にも思わなかった。予想通り、職業を言うと、周囲は手放しでこの仕事を立派とほめてくれるが、父は国家公務員で母は教師。それと比べられてしまうとどうしても霞んで見えてしまうし、子供が公務員を選択するのは当然と周りから思われてしまうのも事実だった。

 「この仕事でよかったのかな。」

 窓ガラスに映る自分の顔にぼそりと疑問を投げかけてみるも、もちろん回答はなく、ただ、自分の顔が吐く息で白く曇るだけだった。

 おもむろにスマホの画面をタッチし時刻を見ると深夜の12時27分。役所の最寄り駅から自宅の最寄り駅まで最終電車は50分ほどかかる。車内のポスターをぼんやり見ていると、車内の温かさと5日連続の残業が堪えたのか、眠気を催してきた。最寄り駅につくまで少し寝ようと、目を閉じた。


                  ❄


 扉の閉まる音ではっと目が覚めた。背もたれから状態を起こして、何駅まで来たのか確認しようとした。窓から外をのぞき込み、駅名が書かれた看板を探すが、寝ぼけた頭と動き出した電車も災いして、瞬時に情報を拾うことはできなかった。

 力なく背もたれに身体を預けて車内を見渡すと、眠ってしまう前まではちらほらといた人が、現在は2人ほどになっていた。普段では考えられない人数で、急に不安感が駆り立てられた。

 たまたまだと信じて心臓をドキドキさせながら車内の液晶に目をやると、見慣れない駅名が書かれていた。

 『…やってしまった…。』

 どうやら降りる駅を見逃してしまったようだ。降車駅に気づかず眠りこけていた事実を突きつけられて、焦りと後悔が込み上げてきた。

 何とか平然を装おうとしても動揺が隠せず、しぐさの中にたどたどしさが表れてしまった。

 とりあえず、次の停車駅で降りようと決め、車内アナウンスに意識を集中させた。先ほどまでの眠気はとうになくなっていた。

 急いで降りたホームは、小さくさびれた駅で、改札が一つだけポツンと設置されていた。時刻は深夜1時43分。当然、引き返す電車もなかった。

 「どうしよう。」

 途方に暮れて、ホームの壁に手を当ててうなだれた。とりあえず、取れる手段としては、タクシーで帰るか、近くのホテルに泊まるかになるんだろう。

 明日は休日ということだけが、不幸中の幸いだと思い、金曜日に感謝した。そうすると、少し余裕が生まれてきて、どちらか取れる手段をとろうとポジティブに考えられるようになった。

 とりあえず、情報収集のためベンチに腰掛けてスマホを操作しようとしたが、近くで駅員が掃除していたり、営業終了の看板を設置していたので、いたたまれなくなり、そそくさと改札を出た。

 駅の外に出るとほとんど人影がなく、街灯も所々にあるが、電球が切れていたり、チカチカと点滅していたりして、薄暗く、少し不気味だった。

 ロータリーには、こじんまりとしたバスの停留所はあるものの、タクシーの姿はなかった。

 「思ったよりまずい所で降りちゃったかなぁ。タクシーは、ないし。ホテルもなかったらどうしよう。」

 見渡した限りそれらしき建物は見当たらない。こんな所なら、もうちょっと開けた場所まで乗っていたほうが良かったかもしれないと後悔した。

 急いでスマホで近くのホテルを調べようとしたが、足元から伝わるコンクリートの冷たさのせいで、指先がかじかみ、操作どころではなかった。

 どこかで暖が取れないか周囲を探すと、前方を少し進んだところに自動販売機を見つけた。とりあえず温かいものを飲みながら調べようと思い、何を飲もうかと考えながら灯りを目指して足早に歩いて行った。

 自動販売機の商品は、季節柄、背景色が水色の飲み物は上段に追いやられていて、オレンジ色の背景色の飲み物が多くラインナップされていた。私は、ホットのストレートティーを選ぼうとしたが、夜はカフェインは控えた方がいいと聞いたことがあったため、思いとどまりノンカフェインと書かれたお茶のボタンを押した。

 ガコンと鈍い音がして、緑のラベルのペットボトルが出てきた。屈んで拾い上げ、両手でペットボトルを包み込み、冷たくなった手を温めた。

 キャップを開けて一口飲むと、おなかからじんわり伝わる温かさで、身体の冷えが少し和らぎ、ほっとした。

「はあー。沁みる。」

 つい、感想をつぶやいて息をはいた。

 お茶を飲みながらふと横を見ると、2メートルほど先にトタンでできた屋根とベンチが建物の影からちらりと顔を覗かせていた。あそこで腰掛けて宿泊場所を探そうと思い、進んでいった。

 清涼飲料水会社のロゴが書かれたプラスチック製のベンチに腰掛け、購入したお茶を傍らにおいてスマホを操作した。調べてみると、徒歩5分の場所に1件ビジネスホテルがあった。

 「よかった。助かった。」

 その情報があるだけで、救われた気持ちになった。予約状況を見ると、今日は電話で確認しないといけなかったが、明日以降の日程はすべて余裕ありのマークとなっていた。

 これなら特別なことがない限り満席になっていることもないだろうと思ったが念のため、ビジネスホテルに連絡してみると、快く部屋を確保してくれた。とりあえず寒い夜をふかふかのベッドで寝ることができると思うと安心した。

 まだ温かいうちにお茶を飲み切ってからビジネスホテルに向かおうとお茶の方に目を向けたとき、視界の外から気配を感じ目線を上げた。

 ホテルを探すことに頭がいっぱいだったので、同じようなベンチが横に等間隔で並べられている事を始めて気が付いた。薄暗い灯りの中、2つ先のベンチに長い黒髪の女の子が膝を抱えて肩を震わせているのが目に入った。


                  ❄


「え。」 

私は目を疑った。見た目は18歳から20歳くらいに見える。こんな寒い夜中に何をしているんだろう。率直な疑問が浮かんだ。よく見ると、家から急いで出てきたのか、着古したスウェット上下にフランネル生地のパーカーを着て、履物はスニーカー。今日の気温にはふさわしくない服装だった。もしかしたら震えているのは凍えているからかもしれない。

「どうしよう。」

 正直言うと気付かなかったふりをしてこの場を立ち去りたかったが、首をぶんぶんと横に振った。とりあえず落ち着こうと、お茶のキャップをあけ、一口含んだ。

 女の子と飲み口を交互にちらちらと目を移しながら、深夜で働かない頭をフル活動させて考えた。

 やはり今できる最善は、警察に連絡し、保護をしてもらうことだろう。おそらく、女の子も不本意だと思うが外で一人だと何かあっては大変だ。

 そう決めて、スマホを手に取るものの、迷いが生じてなかなか決めきれない自分がいた。

 本当にそれでいいのか。まだ他に案はないだろうかと、懸命に考えたが思いつかず、きっとこれが彼女にとって一番の方法だと言い聞かせた。

 ここをそっと立ち去り警察に連絡することもできるが、保護を見届けるまで一人にしない方が安全だろうと思った。私は勇気を振り絞ってベンチから立ち上がり女の子に近づいた。

 「こ、こんばんは。」

 女の子が座るベンチの前までゆっくり歩いていき、膝をついて声をかけた。緊張のあまり声が詰まってしまい恥ずかしさで逃げたくなった。

 その声に反応して、女の子が顔を上げた。どれだけ長時間泣いていたのか白い肌と瞼は真っ赤に腫れていたが、ビー玉のような丸くて大きな瞳と長いまつ毛は涙のしずくが光を反射してキラキラと光り綺麗だった。


 私は、彼女を子猫の白猫みたいだなと、つい見とれてしまった。女の子は、気まずそうに顔を背けた。

 「ご、ごめんね。急に声をかけて。こんな時間に何してるのかなと思って。」

 声をかけてみたものの、最初の切り出し方までは考えておらず、慌ててしまった。いっそのこと警察に連絡することを単刀直入に伝えようとも思ったが、もしかしたら私の杞憂かもしれないと思い、念のため事情を聴いてみることにした。

 彼女は私の顔を見て、何か言いたげそうに口を動かしたが、ぐっと飲みこみうつむいた。

 「…別に。お構いなく。」

 声を震わせながら、女の子は答えた。時折、鼻水をすすりったり、嗚咽を我慢している様子で、これは、軽い事情というわけではなさそうだと察した。

 「そ、そっか。」

 私は、どうしたら良いかわからず、とりあえず女の子の隣に腰掛け、スマホを手に取った。

 自分がこの状況だったら警察に連絡されたくないだろうなと考えると余計切り出しにくくなり、無意味にスマホのロックを開いて画面を眺めていた。時刻は深夜2時30分に差し掛かろうとしていた。

 二人の間に沈黙の時間が流れていた。女の子は相変わらず顔を膝にうずめて黙っている。

 私は終電で寝ていなかったらこんなことにはならなかったのにと自分を恨んだ。

この状況をどうすればいいのかわからなくて、誰か助けが来ないかなと他力本願な事を考えていると、突然、私のスマホから着信音が鳴りだして、その場にいた二人ともびくっとした。

 何事かと画面を確認すると、見慣れない電話番号からだった。恐る恐る電話に出ると、相手はビジネスホテルの受付からだった。一向に姿が現れないので、心配して電話をしたという経緯だった。私は、小声で心配をかけたことを謝り、確実にチェックインすると伝え電話を切った。

 まだドキドキしている心臓を落ち着けようと一息ついて、心を決めて、本題を切り出そうと女の子の方に目をやると、落ち着きのない様子でちらちらと私の事を見ているように見えた。

「び、びっくりさせてごめんね。実は、終電で寝ちゃって家に帰れなくなっちゃって、近くのビジネスホテルに泊まろうとしていたんだけどチェックインしてなくて心配で電話かけてくれたみたい。」

 急に電話が鳴ってびっくりさせたのかもしれないと思い、とっさに電話の相手と要件を伝えた。女の子は、軽く愛想笑いして何かを考えているように下を向いた。涙はおさまっているようだった。

 私は、行くと答えたものの、果たしてホテルにチェックインすることはできるのだろうかと少し心配になった。朝までこのままだったらどうしようと不安を覚えていると、隣から声が聞こえた。よく聞こえなかったので、女の子の方に顔を向けると、私の方向に身体を向けてベンチの上で正座をしていた

 「きゅっ、急にどうしたの?!」

 何が起こったのかわからず、つい大きい声を出してしまった。女の子はガタガタと肩を震わせ、赤くなった小さな手を膝の上に丁寧に置いている。

 「あ、あの。迷惑なお願いとはわかっているのですが、今日だけ…。一緒に泊めていただけませんか。」

 女の子はうつむきながら、言葉を必死に絞り出していた。膝の上で小さな拳を固く握っている。

 「か、顔を上げて!」

 私はとっさに震える女の子の顔を覗き込んだ。さらさらした髪の毛の境目から見えた目からは今にも涙が溢れだしそうになっていた。

 私は女の子の背中を優しく撫でて落ち着かせようとした。

 「何かあったの?」

 質問を投げかけてみても、女の子は頑なに話さず、ひどく切羽詰まった様子でしきりに頭を下げた。

 おそらく理由を尋ねても言えない事情があるのだろうと察した。

 小さく震える女の子の姿を見ていると、どうしてか、これを断ったら女の子は消えてしまうのではないかという不安に駆られた。

 スマホを見ると深夜3時に差し掛かろうとしていた。

 これ以上ホテルのチェックインをしないのも申し訳ないと思った。

 「どうしてか事情はわからないけど、今日は寒いし。泊まれるかホテルに聞いてみようか。」

 私は、小さく息を吐いてベンチから立ち上がった。

 彼女は信じられないという表情で正座のまま固まっていた。

 「え、いいんですか。」

 「こんなところで夜を明かすのは心配だし。とりあえず、今夜だけはね。」

 本当にこれで良いのか分からなかったが、なるべく平然を装って答えた。

 このままだと、夜が明けてしまう心配があったし、早くこの状況を打開したいと思っていたのもあったから、こんな形でも解決できてよかったとさえ思った。

 「ありがとう。本当にありがとうございます。」

 女の子は、嗚咽とともに大粒の涙を流しながら深々と頭を下げた。

 「ここは寒いから早く行こう。」

 私は、優しく手を引いて女の子をベンチから立ち上がらせた。

 涙で濡れた女の子の頬を指で優しくふき取ると、氷のように冷えきっていて、私の手の方が暖かく感じるほどだった。

 ポケットからスマホを取り出し、ビジネスホテルまでのルートを調べ、方角を確かめた後、案内に従って歩いた。

 女の子も一定の距離を取りながら私の後に続いた。

 この道をまっすぐ行くとホテルに到着しそうな時、重要な事を聞き忘れていた事に気づいて、後ろを振り返った。

 「そういえば、お名前聞いてなかったね。なんていうの?」

 女の子は、戸惑う仕草をしていたが、もじもじと遠慮がちに口を開いた。

「さ、さかべ…、みりあ。」

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