世界で一番好きな歌
乃上詩
歌と私
この歌が私は世界で一番大好き。
私は村上絵美(むらかみ えみ)。昨日から大学生の十八歳。
今日はクラスごとのオリエンテーションのため、浮き足立っている。クラスといっても、選択したコースごとに分かれているだけで、担任もいるが高校までとは違い、毎朝出席確認などはいない。コースの責任者の様なものだ。そんなことよりも、オリエンテーションには、絶対にあの一大イベントが待っている。私はそう確信している。学生を嫌というほど経験している私には分かる。あの"自己紹介"という避けては通れない、一大イベントが待っている。
大抵の人は自己紹介というと、あまり「やったー!」とはならない。でも私は皆とは違う。自己紹介は楽しみで仕方がない。それには理由がある。私にとって自己紹介の時間は、好きな物や事についていくら語っても文句を言われない時間だからだ。あの時間がとびきり好きだ。
今日は規定の登校時間より少し早く着くように、家も少し早く出た。
指定された教室の扉を開け、中を見回すが誰もいない。どうやら一番乗りのようだ。黒板に張り出された座席表を確認し、自分の席に着く。時計を確認すると、規定の時間までまだ二十分程余裕があった。
イヤホンを付け、洋服のポケットにしまっていたスマートフォンを取り出し、操作をして私が好きなあの歌をかける。机に伏せ、眼を閉じて歌の世界に入り込む。
この歌のリズム、メロディー、歌詞全てが好きだ。スイッチを押して流すだけで、私の知らない世界に連れ出してくれる。
私がこの歌に出会ったのは中学二年生の春だった。二年生に上がった時にしたクラス替えで、仲の良かった友人達とクラスが離れ、また一から友達をつくることにめんどくささを感じていた。そんな時私はYouTubeのおすすめに出てきたその歌のサムネイルが気になり、ついタップした。その瞬間見える世界が変わり、気づいたら歌が終わる度に何度も繰り返し聴いていた。
次の日学校に行くと、二年生最初の授業の教科があったため、やはり自己紹介の時間が設けられていた。ただその自己紹介の内容が少し変わったものだった。今一番おすすめしたい物、事について発表するという内容だ。私は正直になんてタイミングがいいんだろうと思った。早速自己紹介タイムが始まり、どんどん皆が自己紹介をしていく。順調に進み私の前の子が発表を終え、ついに私の番が来た。なぜか私は急に緊張し、口から心臓が飛び出そうな気持ちで、教壇に向かい、皆の前に立つ。呼吸を整え、深呼吸をし声を発した。
「私の今一番おすすめしたいものは歌です。この歌とは実は昨日出会ったばかりです」
私が話している間皆はこちらに視線を向け、真剣に聞いてくれていた。その時の私はいつも以上に視線に敏感になっていて、すごく緊張していた事を今でも覚えている。
授業が終わり休み時間に入ると、私の好きな歌を自分も好きだという子が声をかけてくれた。それから仲良くなり、今でも遊びに行く様な仲になった。
そんなことを思い出していると突然、肩を優しく叩かれ横から声がしていることに気がつく。
「ん、ん?」
顔を上げると心配そうな顔をした女の子が横に立っていた。
「大丈夫?体調悪い?」
一瞬何のことか分からず頭が真っ白になる。すぐに状況を理解した私は、誤解を解くために説明をした。
「全然平気だよ!音楽を聴いてたの。心配かけてごめんなさい」
女の子は目が点になってしまっていたが、すぐに自分の誤解に気づいたらしく、恥ずかしかったのか顔が赤くなっていた。
「そうだったのね、ごめんなさい!名前言ってなかったわね!私は池本由美。よろしくね」
彼女はどうやら私と同じ文学部で、同じクラスの池本由美(いけもと ゆみ)さんという人らしい。とても良い子そうだという印象を与える、柔らかい雰囲気の人物だ。
「こちらこそ紛らわしくてごめんなさい。ありがとう!私は村上絵美。こちらこそよろしく」
軽く自己紹介をして、会話は終わった。というのもその直後、他のクラスメイト達がゾロゾロと登校して来たため、それぞれの席に着く事にしたのだ。
規定の時刻になり担任が教室の扉を開き入ってくる。第一印象は優しいそうなおじいちゃんという感じだ。教室の前にあるモニターの前に立ち、挨拶を始めた。
「入学おめでとうございます。これからよろしくお願いします」
長々としたものではなく端的で最小限の言葉だって。それから所連絡や講義についての基本的な話を一通り聞き、ついにその時が来た。
「では、時間も余っているしこのクラスでやっていくので軽く自己紹介をしましょう」
私のクラスは意外にも、人数はそれほど多くない。自己紹介をするにもそこまで時間はかからないだろうという印象を受けたため、順番は後半だが、心の準備を始めた。
各々が自分の情報と好きな物や事を一、二分で発表していく。ほとんどの人が人気のアイドルグループや芸能人について、こういう機会でもなければ聞かない様な事を話してくれていた。中にはお店を紹介してくれる人もいて、次の休みにでも行ってみたくなった。そんな調子で次々に発表が終わっていき、そうこうしているうちに自分の順番が来てしまった。
「じゃあ次、村上絵美さん」
担任に名前を呼ばれた。
「はい!」
思いのほか大きな声が出てしまい自分でも一瞬驚いた。
席を立ちモニターの前に向かう。ゆっくり一歩ずつ慎重に歩き進め、モニターの前に着くと、教室全体を一度見回す。つい先程思い出していた光景に似ている。その時と同じ様に呼吸を整え、深呼吸をした。数秒の沈黙の後についに口を開く。
「私はこの歌が世界一大好きです。皆さんは心から好きだと思える歌はありますか?」
世界で一番好きな歌 乃上詩 @utanogami
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