ベージュヘアに未来を馳せて

名苗瑞輝

ベージュヘアに未来を馳せて

「婆ちゃん、週末に姉貴たち帰ってくるからよろしく」


 こう言ったのは孫の雄輔ゆうすけだ。三人姉弟の末の子で、上の二人はとうに結婚して家を出ている。しかし雄輔もまた結婚しており、今の我が家には三世帯が暮らしていることになる。

 孫娘二人は年の瀬や盆といった節目に顔を見せることはあるけれども、今は春の麗らかさが見え隠れするこの三月に帰省するようなことは滅多に無かった。どちらか一方ならば何か用事でもあるのだろうけれど、二人ともとなると何か理由があるに違いない。


「何かあるの?」

「ほら、もうすぐ母さんの誕生日だろ? 今年で六十だから還暦祝いやろうってさ」

「ああ」


 雄輔の母とは、つまり私の娘のことだ。二人居る娘の下の子で、名を由紀子ゆきこと言う。

 由紀子の誕生日のことなんて、すっかり忘れていた。彼女が生まれた日を最後に祝ったのは一体いつだったか。

 それにもう六十というのにも驚いた。しかし冷静に考えてもみれば、孫たち(彼女にとっての娘息子)は結婚して子供もいる。そんな彼女もとうの昔にお婆ちゃんなのだ。


「それならを用意しないとね」

「それ母さんに言ったら要らないって言われたんだよなー」


 雄輔はそう言うけれど、私には彼がちゃんちゃんこを買うつもりだと確信がある。やんちゃだった雄輔は、ダメだと言ったこともやってしまうことがよくあった。しかし本当にダメなことはわきまえているようで、笑って許される程度のことにそれは限られていた。最近は落ち着いてきたと思ったけれど、子どもが生まれてからその悪癖がぶり返したように思う。


「ま、そう言うわけだからこの日は空けといて」

「はいはい」


 私の二つ返事を受けた雄輔は、それだけの要件だったようで部屋をあとにしていった。遠巻きに「よしよし」と声がしたので、何か企てているのかもと、心の片隅に思った。


 ◇


「やっほー、婆ちゃんただいまー。元気してたー?」


 週末になって、もう一人の孫、由紀子にとっての長女である七海ななみが帰ってきた。その傍らには彼女の娘である唯花ゆいかの姿もある。


「もう聞いてよー。来る途中でさー――」


 七海は聡明な子ではあったけれど、少しかしましいのが玉にきずで、ここに来る道中での出来事を雄弁に語る。

 彼女は私にとっての初孫で、つい甘やかしてしまう事も多く、そのせいもあってか最もよくなついていた。学校から帰ってきた後、今と同じようにその日の出来事を語ってくれていたのもつい昨日のことのように思い出せる。


「ママちょっと話長い」

「ごめんごめん。そうそう、お婆ちゃん今年数えで八十八だよね?」

「えっと……」


 自分の歳がいくつだったか、直ぐに出てこなかった。そんなことあまり気に留めなくなったからで、物忘れでは無いと信じたい。ましてや数え年なんて、昨今あまり使われないのだから。

 さて、確か由紀子が今年還暦だから――。


「確か昭和十年生まれでしょ? 違った?」

「ああ、合ってるよ」

「なら大丈夫だね、良かった。これ米寿のお祝い」


 そう言って七海は熨斗のしのついた箱を差し出してきた。

 それを受け取ろうと手を伸ばしかけたところで、部屋の入口に人影が見えた。


「ちょっとナナねえ、早いって!」


 部屋に来るやそう叫んだのは、三人姉弟の真ん中の綾音あやねだった。彼女の顔を見るのはなんだか久しぶりに思えて、ついまじまじと顔を見てしまう。


「って婆ちゃん何その髪、真っ白じゃん」

「何言ってんの綾音。こんなだよ、ね?」

「そうね。最近はもう真っ白よ」

「最近どころか結構前からだって」

「そんなこと言われても、最近は来れなかったから会うの二年ぶりくらいだし」


 そんな何気ない綾音の言葉に驚かされた。綾音とはあまり会っていない気はしていたけれど、まさか二年も経っていたとは。そう言えば、外出自粛だなんていう世の中になって久しいものね。


「前みたいに染めてるのも若々しくて良かったけど、白髪も結構様になってるね」

「ありがとう。最近は自粛自粛で出掛けられもしないから、見た目を気にしなくなってしまってね」

「だよねー。私もそれで出不精でぶしょうになっちゃって、最近やっと髪切ったんだよね」


 そう言われて目を向けた綾音の頭は、よくよく見ると以前とは違うことに気がついた。

 記憶の中の彼女は、黒々とした長い髪だった。しかし今は肩ほどの長さになって、色も明るい茶色のような色合いになっている。


「ここ最近はまとまった時間取れるようになったし、何より今度卒園式だからいい感じにしてきた」

「ちょっと明るすぎじゃないかしら?」

「大丈夫、こんなもんだって。ね、ナナ姉」

「流石の私も、ベージュはどうかなって思う」

「アラフォーのオバさんに聞いたのが間違いだった」

「一歳しか違わないじゃない」


 昔から二人は、こうして言い合いこそすれど、仲の良い姉妹だった。それは今も変わらないようで、つい二人のやりとりを微笑ましく見守ってしまった。

 しかし、さっき綾音は何と言っただろうか。確か卒園式? 


「綾音、礼音れおんは春から小学生なの?」


 礼音というのは綾音の子、私から見た曾孫ひまごになる。春から小学生というのなら、お祝いが必要になる。


「うん、そうだよ」

「もっと早く言いなさい。何も準備してないじゃない」

「あれー、ユースケ話してないの? ま、今日の主役はお母さんとお婆ちゃんだからさ、礼音のことは今度でいいよ」


 でも、と言いかけてやめた。曾孫の事を気にかけなかった私にも非があるのだから。


 ◇


 その日の晩、由紀子の還暦祝いが執り行われた。

 本当は料亭でも予約したかったけれど、このご時世なのでと家で催されることとなったようだ。


「はいこれ」


 綾音が由紀子に箱を手渡した。先ほど七海から受け取ったものより大きく、熨斗には『還暦御祝』と書かれている。

 七海から貰ったのは黄色いカップだった。曰く『米寿は黄色いものがいい』とのことだ。


「婆ちゃんにも」


 気づくと私にも同じ大きさの箱が差し出されていた。こちらは『米寿御祝』と書かれている。

 早速中を空けてみると、黄色い何かが入っていた。由紀子の方に目を向けると、そちらは赤色で同じものだった。


「えー、いらないって言ったのに」


 由紀子が取り出したそれはちゃんちゃんこだった。嫌そうな言葉とは裏腹に、口ぶりは軽く、楽しそうに笑っている。

 となると、私のこれも同じだろう。私も箱からそれを取り出すと、案の定それは黄色いちゃんちゃんこだった。

 少し戸惑いながらも、由紀子が羽織るのを見て、私もそれに倣った。付属していた帽子を被って、最後に扇子を手にすると、孫たちは感嘆の声を上げた。

 そして各々がスマートフォンを手にして写真を撮り始めた。


「遺影はこの写真にして貰おうかな」


 写真を見た由紀子がそう言ったので、私もそれに「それがいいわ」と迎合した。

 しかし七海はそんな私たちに「ダメダメ」と言い放つ。何が気に入らないのかと思えば、彼女はこう続けた。


「二人ともまだまだ長生きして貰わなきゃ」

「ホント。次は卒寿、その後白寿と祝いたいよね」

「白寿の前に唯花の成人祝もよろしくねー」

「その頃にはナナ姉はアラフィフだけどね」

「それはあんたもでしょ」


 そんなやりとりをして姉妹は笑い合った。その様子を一歩引いた雄輔が呆れたように見守る、昔から見慣れた光景。

 この光景をあと何度見られるかはわからない。けれど、これで終わりにはしたくない、そう思う。


 ◇


「うわっ、婆ちゃんどうしたのそれ」


 あの日から暫く経って、大型連休を期に綾音がまた帰ってきた。

 彼女はあの人同じように、私の姿を見て驚くような声を上げた。

 あれから私は久しぶりに髪を染めた。綾音と同じような、明るい薄茶色。


「やっぱり私はこっちの方が好きだよ。それに若返ったみたい」

「少なくともあと三年は生きなきゃいけないからね」

「いやいや、あと二十五年くらい生きてくれなきゃ。私たちが還暦したところも見てもらいたいからね」

「無茶言わないの」


 そうは言いつつも、そんな未来を迎えられることに期待を抱くのであった。

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