兄の俺、帰る。異世界転生先の謎めいた火山島から

小早敷 彰良

第1話 異世界転生→能力判明

 まず目が覚めたとき、これが異世界転生かと俺は思った。

 白絹のような砂浜に、青く透明な海がどこまでも広がっている。地面はいつまでも寝ていられるほど暖かく、日差しは暑いものの不思議と不快ではない温度だ。

 どうやら自分は、横になっているらしい。まぶしい太陽に、手をかざす。

(ああ、やっぱり、これは俺の手じゃない)

 記憶の中にあるよりもずっと小さく白く、皺のない手を握りしめた。

 体の感覚は違和感だらけだ。

 具合は良いし、身が軽い。

 周囲のやたらと透明度の高い海面に、顔を映して確認をする。

(知らない少年だな)

 いぶかし気にこちらを睨んでいるのは、記憶にある自分の顔ではなかった。

 白い短髪に色白な肌、切れ長の目は真紅で、他に特筆できるのは清潔感といった顔。

 三白眼で人相の悪かった自分の顔とは、何から何まで違う。

 それが今の俺の顔だった。

(違和感が強い)

 立ち上がる。身長は本来の自分よりもずっと小さく、目線の低さに慣れない思いだった。

(この身長は、弟妹と同じくらいか)

 そう考えて、俺は、はたと気がついた。

 俺の弟と妹はどうなった?

 違和感のある顔が、水面でもわかるほど青ざめる。

 急いで周囲を見渡しても、人影はなく、爽やかな風が吹くだけだった。

 俺は早くに両親を亡くし、大黒柱として中学生の弟と妹二人を養うために生きてきた。激務だが働き口にも恵まれ、楽ではないが楽しい日々だった。

 こんな、南の楽園に異世界転生している場合ではない。

 これは異世界転生なのか?

 それすらわからない状況に俺はいた。

 記憶をたどってみても、死の記憶はない。トラックにはねられた覚えはなく、最後に覚えているのは、温かな自宅を目指して電車に乗っていた記憶だ。

 気がついたら別人の体になって、知らない南国の離島にいた。頭がおかしくなりそうだった。

「帰らなきゃ」

 何が異世界転生だ。俺は頭を振る。素晴らしい景色の南国? 青い空と海?

「弟と妹に比べれば、どれも見劣りする」

 まずは、情報収集しなければ。考え込んでいたせいで反応が遅れた。

「うわっ!」

 足元で何かが動く感覚に、飛び上がる。運動神経の良い今の体は、波に足を取られかけても転ばなかった。

「犬?」

 そこにいたのは、腰の高さほどの大きな犬だった。顔は笑っている様に見え、愛嬌がある。柴犬に近い姿の真っ白な犬だった。

 ワンと元気良く鳴く犬に、俺は手を差し伸べた。

 その犬の疑う様子なく手を舐める様子から、人慣れしていることがわかった。

 どうやらこの島には、人がいるらしい。

 わしわしと首を撫でると、続きを催促するかのように寝転がる。俺は近所に住んでいた犬を思い出し、思い切り撫でた。

「ゴンにそっくりだなお前」

 ゴンと呼ばれた犬はキョトンとした顔をしている。無理もない。これだけ人慣れした犬だ。きっと人に飼われて、別の名前があるのだろう。

 温かな毛皮を撫でるうち、不安な気持ちが口から漏れた。

「ここがどこか、教えてくれよ。あと、寝る場所も確保できたら最高」

 よく考えてみれば、元の世界に帰るどころか、海岸に佇んでいるだけでは、いずれ餓死してしまう。

 しかしどうやって帰る。見渡す限り、島と水平線しか見えない謎の島で、迷子になっているというのに。

「弟と妹に会いたい」

 砂浜と海の反対側には、深い森が広がっている。やみくもに分け入るのは避けたかった。

 犬は急に立ち上がった。

「もう行くのか?」

 そのまま、ててて、と森の方に走って行き、こちらを振り向いて鳴いた。

「ゴン、よくやりました」

 俺は目を瞬かせた。

「ここは乙別離大島。活火山である流離山を中心としてできた孤島です。寝る場所は、私の家に泊まればいいですよ」

 目の前の青年があまりに優しい目をするものだから、俺は赤面した。

 どこか弟に似た彼に、弱音を聞かれていたことが恥ずかしく、思わずもじもじとしてしまった。

 背の高い男だった。二メートル近くありそうな背を屈めて、足元にいるゴンを撫でさすっていた。

 垂れ目ぎみの目は細められ、こちらに微笑んでいる。色素の薄い柔らかそうな赤い髪が長く、無造作に結わえられている。

 彼はこちらをじろじろと見て、俺の不安そうな顔を見て、大きく頷いた。

「君は、時期外れですね」

「俺は藤原綱吉だ。時期外れとはなんだ」

「ああ、失礼」

 まるで作物の品評をするような言い方に、知らず言い方がきつくなる。

 青年は言い訳をするように手を振った。

「あなたのように訳もわからず、この島にたどり着く人は多いんです。それを『時期外れ』と呼んでいるのですよ」

 思いがけない言葉に固まる。

「俺は気がついたら、この島にいた。前例があるんだな?」

 青年は優しい顔で、大きく頷いた。

 俺はほっと息をついた。前例があるなら、帰り道の目処もつきやすいだろう。

「さっさと帰って、弟と妹に会いたいんだ」

「やはり、記憶を失っていない。『時期外れ』の特徴ですね」

「まるで、記憶喪失が普通みたいな言い方をする」

「普通なら、三途渡りの会場か、島民と入れ替わりに現れるはずですから。そこで現れる人々は記憶がありません。時期外れは、十年に一度現れれば良い方ですよ」

 さらりと言われた彼の言葉が信じられず、俺はまじまじと彼の顔を見た。

 大柄な彼は、柔和に微笑む。

「歩きながら話しましょう。ここで一人は危ない。私の家に案内します」

 薄っすらと笑い、歩き出した彼の背に、俺は問いかける。

「……ここでは、記憶を失ってたどり着くものなのか?」

「ええ、そうですよ。私もこの島に来る以前の自分を知りません。まあ、不自由ありませ」

 彼の指さす方に目をやる。

 抜けるように青い空と海に囲まれた、美しい島だった。砂浜の向こうにある鬱蒼とした森が島中に広がっているようで、島全体は深緑色をしていた。

 島は山のように隆起しており、遠くの斜面の途中で、噴煙が上がっていた。

「ここは火山島か」

「さっきも言いましたが、活火山です。大丈夫、乙別離教の教主様がしっかり管理していますから」

 また知らない単語に、俺は口を閉じる。

 歴史ある島だと言うことはわかったが、すぐ帰るというのに覚える必要もない。

「そういや、お前の名前は?」

「私の名前は、三原竜夫。この火山島に暮らす、一般人です」

 火山島は、楽園の様に過ごしやすい環境だった。不快でない程度に暑く、どの景色も美しい。

(きっとここは異世界なんだ。あるいは夢だ)

 もしこれが異世界転生として、俺のチートは記憶を保持していることか? それにしては慣れた対応だな。

 そんな、バカな考えを浮かべつつ、俺は三原と名乗った男の背中を見る。

 森の入口まで歩いたところで、俺がついてきていないことに気がついた三原は、振り向いた。

「どうしました。来ないのですか」

 俺はこんな親切な島民がいるものか、と足を止めていた。

 疑心の色を浮かべる俺に、三原は憐れんだような顔をした。

「弟や妹さんに会うために帰るにせよ、拠点は必要ですよ。この島を出るには教主様の許可がいりますから」

「聞いてないぜ」

「聞かれてませんから」

 三原の横顔は澄ましている。今は彼に従うしか、道はなかった。

 俺はようやく、乙別離大島の中心部へと足を踏み出した。

 砂が靴に入り、じゃりじゃりする。潮風が背中を強く押している。

「教主様からの許可を取るには、どれくらいかかるんだ」

「一年ですね」

「一年!? 待てるわけないだろ」

 弟は高校二年生で、妹は中学二年生だ。

 両親がいない彼らにとって、学費や生活費がどれほど負担か。

 俺はめまいがした。弟とも妹とも、進学にあたって学費の心配はないと話したばかりだった。

 兄弟のひいき目にも見ても、優秀な彼らの足を止めさせるわけにはいかない。

 俺は決意を新たに、三原を問い詰める。

「どうして、教主の許可を取るのに、そんなに時間がかかるんだ」

「彼が皆の前に姿を見せるのは。神事の三途渡りの時だけ。それでちょうど先週、それが終わりましたから」

「だから一年後、ってわけか」

「あなたも悪いんですよ」

 あんまりな言い分に、思わずにらみつける。三原は肩をすくめた。

「住民は、三途渡りの時期に増えるものです。そっちが正規で、あなたは非正規の『時期外れ』。融通が利かないのも道理でしょう」

 黙って足を進める。足元では無邪気にゴンがまとわりついていた。

 どれだけ横車を押すことになろうと、一年間は待てない。

 俺は早く帰る方法を見つけると、強く決意する。

 横を歩く三原は、ぽつりと言う。

「私は海が好きでよく見に来ます。だから、時期外れを発見することも多いのです。帰りたがる人も少なくありません。」

 それでも、と彼は言う。

「私が会った『時期外れ』は全員、最後には帰るのを諦めていました」

「なぜ?」

「さあ。教主様が説得にあたるからでしょうか。それにこの島は楽園ですからね」

 言葉通り、美しい森林が誘っていた。心地よい風が、じっとりと肌にまとわりついた。


 ※


 森のなか、苔むしたごつごつとした地面に苦戦しながら、俺は三原の後をついて行っていた。

 強い日差しのおかげで視界は十分に明るいが、夜になれば何も見えなくなりそうな、深い森だった。

(なぜか、地面が温かく感じる。野宿も出来そうだな)

 慣れない地面に、周囲を警戒しながら進む俺と違い、三原とゴンの進むペースは速かった。

 奇妙なものはいくつもあったが、拾う暇がないほどだった。

「早く行きましょう。夜になるとリュウが出ます」

「リュウ?」

「リュウ。サージ、灰、悪魔や怨霊。全部同じ意味です。まあ、獣が出るって意味です。この島特有の害獣です」

「へえ」

 必死についていきながら、足元の奇妙な文様に目を凝らす。

(ラテン語にケルト文字?)

 苔むした地面には時折、石のようなものが覗いており、全てに古代の文字が刻まれていた。大学に通えていたなら、研究しようと思っていた文字たちに、目を細める。

 現代日本に暮らす自分に知っている文字に出会えたことに、少しだけ安堵する。

 ここは全く知らない場所ではないということだ。異世界転生ではなく、並行世界への転移というのもあり得るかもしれない。

「あっ」思わず足を止める。

 現代の日本の漢字が刻まれている石があった。

 顔を上げると、三原は見失ってしまいそうなほど遠くにいた。

 足元で急かすようにキャンキャン鳴くゴンをなだめながら、その俺は石を拾い上げる。

『急急如律令』

 浮き上がっていた文言に、思わず笑ってしまう。

(いかにも謎めいた文句だ。陰陽師、だよな)

「なあ、そう思うだろ、ゴン」

 足元の犬は答えない。

「ゴン?」

 彼は総毛立てて、少し先の地面に対して唸っていた。奇妙な行動の理由は、すぐにわかった。

 地面が揺れ、岩が割れる音と共に、小さな噴火が起こった。地面がひび割れ、だくだくと赤が吹き上がり、溶岩のようなそれは、空中でぴたりと止まった。

 そして、まるでひとつの生き物かのように、それは肉食獣をかたどった。

(でかい!)

 見たこともない怪物に、ゴンは猛然と吠え掛かっていた。

「ゴン!」

 慌てて駆け寄るも、ゴンは離れない。

 ただ歯をむき出して吠える彼にいくら宥めて、言うことを聞いてくれない。

 俺はゴンの説得を諦めて、怪物に向き直った。

 熱帯の湿った木々を燃やしながら、その怪物は佇んでいた。

 三メートルほどの巨大な四つ足の虎だった。

 岩石でできたらしいひび割れた表皮から、血のように真っ赤な溶岩が噴き出している。

 大きな爪は自分の顔ほどもあり、それだけでなく、熱気が少し離れた場所にいる自分たちに痛いほど伝わってきていた。

 砕かれた岩をちらりと見る。まるでバターのように切り裂かれたそれの断面は、未だにしゅうしゅうと湯気を立てていた。

 真っ赤に焼けた爪に引っかかれたら、地面に落ちたザクロのようになるだけで済まないことがよくわかった。

 逃げようにも、虎はしっかりと一人と一匹を交互に見ていた。

 裾をくいっと引かれて、視線を落とす。

 ゴンは何かを合図するかのように、たしたしと地面を踏んだ。

「まさか、おとりになるって言っているのか?」

 ゴンは頷いて、飛び出した。

「あっ、ばか!」

 ワンと返事をするように鳴いて、彼は溶岩虎の懐に飛び込んだ。

 熱気によって噛みついたりは出来ないながらも、その行動は虎の気を引くには十分で、俺が逃げられるほど、絶好の隙を作っていた。

 虎が動くたびに、高温の水蒸気が吹き上がる。そばにいるゴンはどれほど熱いだろうか。

(逃げれるかよ、バカ!)

 三原が駆け寄ってくる足音が聞こえる。

 虎の目がそちらを向いている。ゴンは必死で、気づいていない。

 覚悟を決めたような三原の顔に、俺も覚悟を決めた。

「急急如律令!」

 叫びながら、出来るだけ太い枝を虎にぶつけた。

 叫ぶ言葉が「急急如律令」だったのは、直前に拾った石のせいで、楽園の光景にここが異世界ファンタジーの世界だったなら、何かが起きると縋る気持ちからだった。

 そして、その祈りは天に通じた。

 言い終わると同時に地面が割れ、無数の歯車が浮き上がり、一メートルほどの機械が組み上がる。

 錆びだらけのひどい姿だった。赤錆びの歯車を無秩序にくっつけたかのようなそれは、俺の声に応じるように、白煙を吐いた。

 そのままくるりと後ろを向くと、俺の方を見て一礼した。

「俺に、応じたのか?」

 馬鹿馬鹿しいほど簡単に、その機械でできた兵士は頷いた。

 焦げ臭い機械兵に向かって、虎が吠える。

 俺は「急急如律令!」と言いながら、虎を指さした。

 機械は命じた通り、錆の粉を落としながら、二本の腕を自身の体に巻きつけて球体になると、そのまま体当たりした。

 虎が吠えた。ひび割れが大きくなり、溶岩が漏れ出ている。何度か続ければ、ゴンや三原が逃げる隙は作れるかもしれない、と俺は思ってしまう。

 しかし、そこまでだった。

 機械はがしゃんと音を立てると、崩れ落ちた。

「急急如律令!」

 縋るように叫ぶ。言葉の通り、もう一度組みあがった機械は、再度虎に突進する。

「ウガアッーーー!」

 虎が爪を一閃する。機械は、元の錆びたねじとなって散らばった。

「急急如律令!」

 今度は組みあがる前に踏みつぶされた。

(火力が足りない!)

 俺は起死回生の策がないかと、地面を血ナマコになって探した。

(『急急如律令』は陰陽道で『速やかに行ってください』という意味だ。もっと、攻撃的な文句は転がっていないか)

 ケルト文字もラテン文字も大学を中退して、勉強を辞めた俺にはとても読めない。

 機械を操る手に気がついた虎が、こちらに突進しようとするのを引き留めるように、ゴンが鳴いていた。

 犬すら守れない自分が情けなくて、俺は奥歯を噛み締めた。爪を間一髪で避けて、地面を凝視する。

 記憶を呼び起こす。ここは異世界ファンタジーのように、古い呪文に効力があるらしい。ならば、別の文句、例えば祝詞にも効果はあるのではないか?

 読める文字が書かれた石が見つからないための、悪あがきだった。

「かしこみ申す。遠く神笑み給え」

 知っている中で最も長い、神様にまつわる口上だ。

 俺は虎の巨体を避けながら叫ぶ。

 陰陽道と神道、違う文句を話していることは知っている。急急如律令とは関係がない。違う言語を話しているのだ。

 でも、神様ならそこを何とか許してほしい。

 元の世界でしたこともない神頼みを、心の中で祈る。

 俺は、奇妙なひび割れの走った、虎の太い腕を避け、舌を噛みそうになった。

 ぐつぐつと煮えたぎる腕は、俺の白い髪を焦がす。一回でも触れられれば、燃え尽きてしまうに違いない。

 ゴンが虎の影で、ぴすぴす鳴いているのが目に入る。

 俺はやけくそに続けた。

「かしこみかしこみ申す。祓え給え、清め給え。かしこみかしこみ申す」

 なるべく早く、とは付け加えない。神に精一杯縋る言葉を叫ぶ。これがダメならば、『急急如律令』を続けて時間稼ぎをするしかない。

 虎がその太い牙を剥いた。

 頭に数センチメートル先まで迫る。

 髪の端が燃え上がるのが見えた。

「神ながら守り給え!どうか、どうか!」

 飛び込んできた影は、三つだった。

 一つは、大きな白い人型だった。

 どこか、急急如律令に従った機械に似た雰囲気をしているが、二メートル以上ある巨大な頭身と、力強い二本の足が異なっていた。

 俺の力いっぱいの祝詞に反応したそれは、虎に両腕を叩きつけた。

 白い砂のような破片が飛び散って、虎が大きく吠えた。

 俺は口に入ったそれを、吐き出す。

「しょっぱい?」

 塩でできた巨人は数発殴り合ったあと、虎に組み付いた。

 その影から虎に向かって飛び込んできたのは、三原だった。

 手には木の皮が巻き付けられており、しっかりと大きなこぶしを作っている。

「ふんッ!」

 そのまま、溶岩の虎を殴り飛ばす。

 虎はよろめき、影にいたゴンが逃げ出すことが出来た。

 三原が顔をゆがめる。

 焦げた匂いに目を向ければ、彼のこぶしは真っ赤に染まっていた。ひどいやけどだった。溶岩を素手で殴りつければ、当然の結果だった。

 俺は祝詞をつぶやきながら、ゴンの体を受け止めた。ゴンの毛も吐息も驚くほど熱かった。

 塩の巨人が俺の祝詞に従って、補強した腕を振り下ろした。またもや塩が砕けて、白い雨が降る。

 飛び込んだのは、見知らぬ細面の男だった。

 無造作な短髪に鍛えられた体は、雑誌の表紙を飾っていても違和感がないほど整っている。

 しかし、長手甲に覆われた右手には大振りの太刀が握られており、左手には革製の筒が握られている。

 ためらいもせずに飛び込んだ彼は、こともなげに虎の爪を避けた。

 返す刀で首を切り飛ばす。

 一瞬の出来事だった。

 首を落とされた虎は、どろりと溶岩を垂らすとすぐに冷え固まり、ごつごつとした岩石の塊に戻った。

 かんかん、と石飛礫が地面に落ちる。ゴンをかばいながら、俺は男を見た。男もこちらをじっと見つめていた。

 男はこちらに視線を外さないまま、動きを止めていた塩の巨人の首をはねた。

「あっ」

 思わず声を上げた俺を、男はきつくにらみつける。

「説明を」

 彼の声は姿と同じように、冷淡なものだった。

「単身リュウに挑んだ一般人、詳しく話を聞かせてくれ」

 あんまりな言い方に、思わず声を荒げる

「見たところ、治安維持部隊か。お前が遅いから俺らが必死に対応したんだ。それを責めるのか」

「お前が奇妙な力を振るわなければ、俺だってこう問いただしたりはしない」

 顔をしかめる彼に、俺は食って掛かろうとするも、三原が制止した。

「ばか、黙って聞きなさい。彼は、ただの治安維持部隊じゃないです」

「教主様の直属部隊『蛇』副隊長。土御門アグルだ。俺はお前の力を問いただし、教主様に報告する義務がある」

 彼はちゃきりと鯉口を切っている。彼が腕を振るえば、俺だけでなく三原の首まで胴体と別れることになるだろう。

「ここで尋問するのはどうかと。私の家に行きませんか」

「三原、だったか。気遣いは不要だ。万が一、リュウが出たとしても俺一人で対処可能だ」

 ぴしゃりと返す彼の前に、俺はすばやく進み出る。

「全てお話しします。俺の行動の理由も、どうしてこうなったかも」

 素直な俺をいぶかしむように、土御門の目が細められた。

 俺は恥も外聞も捨て、言う。

「だから、教主様にはこの島を出る許しを得る口添えを頂きたいのです」

 ああ、と土御門は頷いた。

「聞いてから判断する」

「当然だな」

 すぐにはがれた俺の化けの皮に、話は長そうですねと、三原がつぶやくのが聞こえた。


 ※


 米が炊けた匂いを嗅ぎながら、酢を入れてしゃもじでかき混ぜる。適当な量を、ガラスの深皿に大きく取り分けると、新鮮そうな刺身を盛りつけた。

「肉のほうもそろそろ火からおろしてください」

「同じ皿に盛っていいか?」

「いいですね、美味そうです」

 背後から指示する三原に応じて、柔らかい豚肉のステーキを皿に盛りつけた。醤油ベース調味料を回しかけると、肉汁と刺身の油がかぐわしく、よだれが沸いてきた。

「煮物の鍋は、もう火からおろしていいか」

「その前に芋に串通してみましたか」

「ばっちりだ。この布巾を使うぞ。そっちはどうだ」

「食卓の準備は万端です。悪いですね、ほとんど一人で料理してもらって」

「俺のせいで火傷したようなもんだ。人として当たり前だろ」

 ゆったりとした和服に着替えた三原は、へにゃりと相好を崩した。両手にはしっかりと包帯を巻いているが、痒そうにむずむずと動かしている。

 働いていないと落ち着かないと言う彼を説得するも、せっせと二人分の調味料を取り皿に作っているのを見るに、彼はワーカーホリックな気質か、重度のお人よしらしい。

「刺身に、辛子か?」

「島寿司です。美味しいですよ」

 俺はちゃぶ台に二人分の料理を並べると、彼の前に胡坐をかいた。貸してもらったTシャツも甚平も、自分よりも明らかに大きく、涼しかった。

「なんでTシャツと和服が混在しているんだ?」

 彼は自分の恰好と、俺の恰好を見比べた。

 島民は全員、出現時に、最後の記憶にある年代の服を着ています。いろいろな年代の服が定期的に集まるのだと、三原は説明する。

「島民の服装は自由で、私が気に入ったのがこのファッションです」

「へえ。じゃあお前は、記憶がないだけで昭和の日本出身だったりするかもな」

「かもですね。昭和というのが何なのかは知りませんけど」

「けっこう大雑把だよな、お前」

 いただきます、と二人で言ってから、丼もどきに手を付ける。醤油のきいた刺身は脂がのっていて、米に染みこんだ肉汁と相まって、極上の味を出していた。

「それにしても、副隊長が話のわかるやつで良かったぜ」

「精鋭部隊で副隊長にまで上り詰めるには、人格も伴っていなければ務まりませんから」

 ここ、塩町に来るまでの道中で、土御門からの尋問は終わっていた。彼の確認事項は端的で、危害を加える可能性があるか、目的は何か、記憶の有無に終始していた。

 俺が起動した奇妙な力も『時期外れ』として実例があったものらしい。

「記憶に残る呪文を唱えれば、その通りの効果が出るたあ、不思議な島だ」

「数百年前の教主様が、海域全体に整えたインフラのおかげだそうですね。詳しくは知りませんけど」

 そう思うと、元の世界にいた頃、もっと本を読んでおけば良かったと後悔をかみしめる。しかし、働きづめの日々で読書の時間は取れなかった。ましてや呪文がでてくるような娯楽小説を読む心のゆとりすらないなかで、記憶にある呪文は、先披露した二つだけだった。

 素早い動作を行う機械を呼び出す『急急如律令』と、大型の塩の人型を呼び出して使役する『祝詞もどき』。どちらもこの島に現れる怪物に打ち負けるほどの膂力しかない。この先、帰るために必要な力だと言うのに、なんとも心もとなかった。

 唸る俺に、三原は蛸の煮物を勧めてくる。歯ごたえ抜群で米が進む味だった。

 海の音が遠くに聞こえる。元住んでいた家は都会の隅にある2LDKだった。和室ばかりで広いこの家は、遠くに来たのだと思わせるものだった。

 箸が進まない俺を、三原はじっと観察していた。

「弟さんと妹さんが気がかりですか」

「当たり前だろう」

 俺は彼に促されるままに、置いてきた弟と妹のことを話す。

 弟は気が優しい少年だ。図太いところがあり、キャンプで迷子になったにも関わらず、一昼夜野宿で野犬と共に生き抜いて、自力でひょっこりと下山してきたことすらある。彼の夢は医者だ。

 妹も優しいが、弟ほどの図太さはない。心は繊細で、それでも人のために働こうと、機械設計のエンジニアを志していた。

 どちらも、あの世界で生きるには、十分な金と保護者が必要だ。

 弟と妹の思い出を語ると、三原は興味深そうに聞いた。気まずそうな顔をしているのは、俺が彼らと会えない現状を慮ってのことか。

「だから俺は帰るんだ。あいつらの面倒を見るのは俺の生きる意味だ」

「記憶のない私には、その情熱はピンときませんね」

「おう。弟と妹が待っている。逆に、お前は帰りたいと思わないのか」

「思おうにも、意味がないですからね。ここは生きやすいところですし」

 それは、なんとも寂しいことだな。そう言うほど、デリカシーがないわけではない。

 ちりん、と風鈴が鳴った。軒先といい、家のなかといい、気を抜けば夏の離島に観光旅行に来たような気持になる。生きやすいと言うのも、弟と妹のことがなければ、頷けた。

 美味しい食事に舌鼓を打つ。以前までの働きづめの舌は、味を感じることはあまりなかった。どんなに濃く淹れたコーヒーもうす味に感じていたはずなのに、野菜の新鮮な甘みを感じることに、俺は首を傾げる。

「うん、自分の体にも違和感があるし、やっぱり異世界転生か何かだろ、これ」

「その発言も不思議ですね。土御門さんも言ってましたけれど、時期外れのなかでも珍しい症状だとか」

 その考え方とか、と真面目な表情に、一人くらいいただろう、と言葉を返す。

「まとめて教主様、とやらに報告してくれるらしいから、あとは俺は返事待ちだな」

 食事は平らげ終わった。三原は立ち上がると、シャーベットをふたつ器に盛って、戻ってくる。

「それで、あなたどうしますか。教主様からの返事はすぐにはきませんよ」

 シャーベットはほのかにあまじょっぱい味がした。三原はひんやりした器を気持ちよさそうに抱えている。

 俺は手をぐっぱと動かした。

「とりあえず、働きたい。路銀もほしいし、いつまでもお前の世話になっているのもな」

「それはありがたい。俺もあまり裕福とは言えませんからね」

 三原はシャーベットの容器を避けて、乙別離大島の地図を広げた。

 楕円形をした島だった。出っ張ったような西のへりには薄く延びたように港町が広がっている。東に行くほど標高が上がり、島の中央に近い場所にはぽっかりとした火口があった。

「西側が市街地で、中央が山岳地帯。東側はリュウが多くて岩場ばかりなので、変わり者や祭祀たちしか住んでいません」

 俺はシャーベットの塊を口に放り込むと、現在地を聞いて、その地図に書き込んだ。西よりの南、海沿いに近い位置にある三原の家は、海の音がよく聞こえた。なんとも落ち着く場所だった。

「明日は西に行って、藤原さんの仕事を探しましょうか」

「どんな仕事がある」

「俺がやっているのは塩作りですね。海水を溶岩で沸かして、塩を作るんです。あと港での荷受仕事も、引く手数多でしょう」

「元の世界である程度、帳簿付けもかじってるぜ」

「うーん。文字や数字関連は教主様やその関係者が取り仕切っています。時期外れが就職するのは難しいでしょうね」

「宗教があるのか。しかも、時期外れは忌み嫌われていると」

「嫌われるって程じゃないんですよ。ただ、記憶があると信心深い人らは警戒する程度です。宗教も、私たちのような庶民には、日々自然に感謝しましょう、くらいしか知りません」

 三原は空になったシャーベットの器を未練がましく見つめている。

「というか、全員記憶喪失の島で、何を嫌うことはありませんよ。宗教なんかも全員一からのスタートです」

「そういうものか」

「習うより慣れろです。大丈夫、すぐわかりますよ」

 そういうと彼は、手を合わせて「ごちそうさま」と言った。俺は慌てて真似をした。



 蚊帳の中、海の匂いを嗅いでいた。古ぼけた電球は天井でかすかな海風に吹かれている。電気も引かれており、大きな風呂は快適の一言だった。

 ただ、無条件で与えられる快適な暮らしが、どれだけチートなものか俺は知っている。転生特典と言われても納得できる。

(けれど、ここは記憶喪失者の島で、以前までの記憶を話す人間は少なくない前例があるときた)

 寝苦しい思いで、寝返りを打つ。

(ここはどこで、俺は誰なんだろう)

 いい歳の大人なはずなのに体は十五歳で、見知らぬ男の世話になっている。

 隣の部屋で寝る三原の、火傷した両手を思い出す。強い日差しの中で輝いた土御門の刀が瞼の裏に浮かぶ。

(どうやったら、帰れるんだ)

 疲れていた体は、俺の意思に反して、泥のように眠りこんだ。



 夢を見た。熱かった。目を開けると鮮血の海が見える。砕けた骨と岩でできた大地に、血の海が波を打っている。

 ちょうど、今朝、三原と出会った砂浜にどこか似た光景だった。振り返れば岩があり、森がある方向は奇妙なことに霧がかって見えなかった。

 岩の上に、仁王立ちした男が、快活に笑った。

「やあ、囚人くん」

 そう俺に向かって言って、彼は岩から飛び降りた。

 これ以上ないほど厚着をした男だった。毛皮や暖かそうな素材でできた外套を何枚も来て、頭にもフードが何層も被せてある。極寒地域に暮らす人のような格好で、汗だくの三原の前に彼は涼しい顔をした。

「君も気づいているだろうけれど、ここは夢で、長居は出来ない。だから単刀直入に言う」

 俺を置いてけぼりにして、彼は言った。

「この島は今、根本的で致命的な問題を抱えている。それをお前が解決したとき、帰る方法を教えよう」

 反論したくともできなかった。俺の口にはぐるぐると蜘蛛の糸が巻き付いていたからだ。

 空ではごうごうと何かが流れる音がしている。地獄のような暗い空だった。

「俺が誰なのかは最後にわかる。今は知る必要もない。お前が帰るには俺の言葉に従うしかないからな」

 有無を言わせない男に、せめてもの反抗でにらみつければ、心底愉快そうに厚着の男は笑った。男の外套の裾が汚れては、何か黒い煙のようなものが上がってきれいになるのを繰り返している。

 瞼の上が明るく感じる。目が覚める寸前なのだと、俺は自覚した。

 俺は蜘蛛の糸を食いちぎった。夢の中の糸のはずなのに、にちゃりと歯裏にへばりつくそれを気にせず、男に叫ぶ。

「あんたは神か? 異世界転生をさせたり、この奇妙な、日本に似た世界を作った」

「異世界転生? 現在の世界では、不思議な概念があるんだな」

 男は目を丸くして答えた。

「俺は神じゃない。確かに、あの島を作ったのは俺だ。でも俺は人間で祈祷師だ」

 そして、にやりと笑う。

「お前が帰りたいなら、神というのは敵だぜ」

 視界が白くぼやけていく。もっと寝ていたいと瞼をきつく閉じる感覚を感じる。三原が俺を起こそうと呼んでいる。

 俺はぼやける男に、精一杯の恨み言を言った。

「やってやる。けれどこんなやり方、あんた、いつか罰が当たるぜ」

 男は愉快そうに笑って言った。

「教主を調べろ。火山を調べろ。なぜ、乙別離島に日本文化と外つ国の文字があるかを考えろ。さすれば謎は解けるであろう」

 頑張れよ、若人。そういう声が聞こえた気がした。

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