いつか、かならず -1 ( )

青の糸

第1話

1

(……起きて…葉月、起きて……)

おぼろげに聞こえるピアノの音にまぎれて、誰かの声が耳に届く。葉月はづきは目を開いた。なんだか聴き憶えのある旋律せんりつ。その旋律に耳を澄ませば、自分の身体からだ虚空そらに浮かべて、心地 い所に案内してくれるような柔らかい気持になる。

しかしこの家にはピアノが無い。音楽を聴く人も、自分に声を掛けてくれる人も、いない。彼女は夢でも見たのかなと思いつつ、そっと起き上がってベッドに腰かけた。声も、旋律も、聞こえていない。

ぼうっと正面を見ていると、机の上のチョコレートが目に入った。夜遅くまで、それをカバンに入れようかどうか悩んだ末、置いといたままだった。

ゆっくり腰を上げた葉月は、鏡の前に立って自分の顔をじっと眺めた。向こうに葉月がいる。目をもっと大きく開いて相手のひとみを見つめると、その中にも葉月がいる。瞳と同じく黒い影になって、そのに合わせて小さくなった葉月と、しばらく見つめ合い、

(おはよう……)

と挨拶を送った。

机に近付けた葉月は、チョコレートを手に取ってそれに視線を落ちた。

リボンも付いていない、包装紙にも包まれていない、1ダース入りのミルクチョコレート1個。

しばらくしてから、葉月はチョコレートをカバンにそっと入れた。

支度を終えて部屋を出た葉月は、リビングに座っている親の側を無言のまま通ってから、学校へ向かった。


2

小学生の頃から、葉月の両親は自分たちの独り子に関心がなかった。憎しみとか虐待ではない。葉月の存在をただ無心に出入りする野良猫みたいに思っているだけだった。

それで、葉月が朝と帰りの挨拶をしても、その言葉は宙に舞うだけだった。ある時から、葉月は口を閉ざした。

学校には友達みたいな同級生がいるものの、あの子達はすれ違う存在にすぎなかった。

中学生になった葉月は、ほんの少し、何らかの期待を抱いた。漠然と形も知らない希望を。しかしその希望は、砂浜に書かれたメッセージが波にれてしまうように消え去った。葉月の存在も擦れて、段々薄くなった。

葉月の心は閉ざされた。そして、少しずつ闇が彼女ににじみ始めた。

葉月は自分が世の中で一人になっても、寂しさや悲しさを恐れる感情はなかった。彼女が恐れているのは、闇に落ちることだった。1ミクロンの光も入って来ない暗闇くらやみ。葉月はそれが怖かった。

そんな状態で高校生になった葉月に、高校1年目の夏までは何の変化もなかった。

しかし、9月のある日の出来事を機に、彼女の人生に小さな変化が訪れた。

それから5ヶ月が経って、今日は2月14日である。


3

葉月は電車の窓ガラスに流されている風景をぼうっと眺めていた。その風景を遮って他の列車が追い越しに来る。ゆっくり並行しながら進んで来るため、両列車の窓ガラスが互いに重なるたび、葉月の姿が向こうに映し出された。

吊革を持っている自分が見える。体格も、顔立ちも、髪も、眼鏡も、空虚くうきょに見える。白い星のように。

追い越し列車が左の方へゆるやかにカーブをきってから遠ざかる。その列車の最後部車両を目で追っていながら、葉月は彼との記憶を追っていた。しかし、なぜか彼女の記憶はところどころ消されている。おぼろげな記憶の断片だけが頭から浮き出す。

ランデヴー

挨拶、朝、帰り

彼の顔、不明確、笑み、しずく

チョコレート、なぜ?

チョコレートのことに思い付いたら、吊革を持っている手に汗がにじみはじめた。

(私なんかが……)

また彼女を責めてくる色んな雑念に追われながら、葉月は電車に乗っている。


4

電車は目的駅に着いた。学校に近くなると葉月の緊張はもっと高まってきた。胸の鼓動が速くなり、口の中はカラカラになっている。駅前の自動販売機を見つけた葉月は、機械の前に立って挿入口にコインを入れようとした。が、はずれて、手からコインを滑り落としてしまった。

慌てて、転がっていく100円玉を追っかけたが、その横を人の群れが通りかかっている。葉月は彼らの視線が自分に注ぎ込んでいると感じた。あの視線が…。

あの視線が…視線が…しせん……。

こんな間抜まぬけてもみにくいさまを……。

こんな間抜けても醜いさまを…。

こんな間抜けても醜いさまを。

葉月は落ちている。自らの動力を失ってしまった機体みたいに。

急激に、心も体も支えられない状態になった彼女は、地面に崩れて膝の間に顔を埋め込んでしまった。

『そんなつたないチョコ、誰が喜ぶかしら』

『オマエなんかが?』

『キミみたいな子は消えてしまえ』

自分をあざ笑う彼らの声が響く。

(もう、いや、いやだ)

葉月は頭の中で永遠に響く声を振り払おうと必死にあらがっている。

しかし、人々は葉月を見遣みやってもしなかったし、ひど揶揄やゆの言葉も発していなかった。あの人達は見て見ぬふりをしたのか、それとも見る必要も無かったのか。彼らにとって葉月はただ関心外の存在にすぎなかった。

それなのに、彼女は自ら闇に落ちている。彼らがはるかに去った後も、葉月は自ら引き寄せた闇におぼれて、存在もしていない幻影たちの攻撃を受けていた。

立ち上がれない。

動けない。

息が出来ない。

折れる。崩れる。粉々になる。

ける。ける。溶ける。

溶ける……。

このまま闇に溶けてしまう、チョコレートみたいに。

チョコレート。

チョコレート…。

チョコレート……。

そう。チョコレート、伝えなければ……。

伝えなければ。

(起きて…葉月、起きて)

どこかで自分を呼んでいる声がする。ピアノの旋律せんりつと一緒に。

朝と同じ声、同じ旋律。

とても柔らかなその旋律は、少しずつ、葉月の中のざわつきを収めてくれる。

(起きて、葉月。起きて)

自分の手を取ってくれるようなその声に、葉月は顔を上げた。周辺には誰もいない。目の前に100円玉が落ちているだけだった。

あざ笑いも、自分を呼んでくれた声も、もう聞こえていない。

しかし旋律は続いている。とても清らかなピアノの音は、葉月にこびついた闇を徐々に剝がしてきれいに払ってくれる。

葉月は、眼鏡を外し、目元をさすってから、また眼鏡をかけ直した。そして、落ちている100円玉を拾って、徐に立ち上がった。

葉月は音がする方に近づいて、その前に立ち止まってからそれを見つめた。とても懐かしい気持ちに満ちて、言葉を送った。

「お帰り、お久しぶりだね」

葉月から挨拶を貰った自動販売機はただただ旋律を流すだけだった。

葉月はもう一度挿入口にコインを入れたあと、機械から飲み物を貰った。

一口ずつ、ゆっくり飲みながら、葉月はずっと一つの言葉を口にした。

「伝えなければ」

そのうち、音楽も止まって何も聞こえていない。しばらくして、葉月はうつむきながら学校へ歩き出した。


5

葉月は学校に着いた。駅前でった事のため、普段より遅くなった。登校する人々と交じって校内に入った葉月はうつむいたまま教室へ向かった。教室の前まで来て、少し躊躇ためらった。

急に不安が極大化して、頭の中が真空の状態になってしまった。何も考えることができない。ただ、二つだけの言葉が回っている。

(おはよう)

(伝えなければ)

不安をなんとか静めたあと、ゆっくりドアを引いた。中に入ってから、顔を上げて彼の方を見た。

葉月は固まった。

異様な光景が見えているから。

彼は、いなかった。その代わり、彼の机の上には細い花瓶が一つ乗せられて、そこには白い花が1本挿されていた。

葉月はそれが何を意味するのか分からなくて、ただぼうっと眺めていた。

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いつか、かならず -1 ( ) 青の糸 @aonoito_11

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