88歳とわたし

@aqualord

第1話

「難しい。」


妻が画面を睨んで唸っている。


「どうした。」

「88歳をテーマに何か書けって言われたけど、何も思いつかないの。」


たしかに画面には「88歳」と1行目に書かれていてあとは白紙だ。


「88歳?なぜそんなテーマなんだ?」

「知らないわよ。でもそういうテーマになったら,88歳で書かなきゃならないの。」


88歳。


88歳と私?

88歳と夫?

88歳になったときの私たち?


たしか、近所の中村さんのおばあちゃんが88歳のはずだ。


「中村さんのおばあちゃんいるだろ、あのおばあちゃん88歳のはずだから、中村のおばあちゃんに何か話を聞いてくればいいんじゃないか。」

「中村のおばあちゃんは去年亡くなったわよ。憶えてない?あの駅前の葬祭会館で。」


妻が、私の頭をみながら心配そうに眉を寄せる。

頭の進行具合と記憶力は比例しないとけんかするべきか、進行具合よりよっぽどマシ、と言い張るべきか。


「そうだっけか。」

「ほら。矢野さんがお香典忘れたって言ってた。」


おぼろげにその光景が蘇ってきた。

そうだ。

最近はやりのお香典辞退ではないお葬式だったのに、3軒隣の矢野さんはてっきり辞退だと思い込んで持ってこなかったといって慌てていた。


だが。


「あれは、大辻さんのお葬式だぞ。」

「え、そうだっけ。」

「そうだよ。大辻さんだ。ほら、大辻さんにはお世話になったのに、って矢野さんが慌ててたんだよ。」

「そうだったわ。」


俺は妻に頭を見られた仕返しに、妻の目尻を見てやった。


「何を見てるのよ。」


目尻のしわが危険な動きをする。

あわてて目をそらす。


「中村のおばあちゃんはまだ生きてるんじゃないか?お葬式に出た憶えないぞ。」

「そうね。言われてみればそうだったわ。でも最近みないのよ。」


たしか、中村のおばあちゃんには離れたところに子供がいると言っていた記憶がある。


「子供さんのところに引き取られたんじゃないのか。」

「そんな話聞いたことないわ。」


私も聞いたことがない。


まさか。


恐い考えが思い浮かぶ。


「心配だからちょっとみてくるよ。」

「私も行こうか。」

「いやいい。それより何を書くか考えていなさい。」

「はいはい。気をつけてね、あなた。」


私は扉を引いて廊下に出た。


めざとく私を見つけた、いつも私の世話をしてくれる職員の井田さんが声をかけてくれる。


「佐倉さん、お食事はもう終わりましたか。歯磨きしますので、お部屋で待っていてくださいね。」

「はい。」


私は素直に指示にしたがって、個室に戻った。


今日は私の88歳の誕生日だ。

妻に先立たれ、もう5年になる。


だが、ついさっきまで、妻が私の88歳の誕生日を祝いに来てくれていたような気がした。









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