3
皇太子とお茶を味わっている一方で、公爵と陛下との話し合いにはいつの間にかアーサーお兄様が加わっていた。三人は地図のように大きな紙を広げ、額を合わせて話し込んでいる。
話が終わるのを待っていると、こちらに視線をやった陛下がなにやら合図を出した。ほどなくして侍従が藤の籠を抱えるようにしてやってきた。林檎や芋をいれるような丈夫な籠には、真っ白い布が敷き詰められている。
「あぁ、ようやくご対面か」
目を細める皇太子につられるように中を覗くと、ころころとした子犬が五、六匹、折り重なるようにして眠り込んでいた。あまりのかわいらしさに声を上げそうになるのを我慢して子犬たちを見つめる。
白地にぶちのある子犬たちは、狩猟よりも愛玩犬として人気がある小型の犬種だった。陛下の飼犬が先だって子犬を産み、皇太子に譲り渡す約束をしたのだそうだ。公爵の言っていた『かわいいやつ』の子どもかもしれない。
ぬいぐるみのような子犬たちから目が離せないでいると、一番端の子犬の目がうっすらと開いた。兄弟の体を押しのけるようにして起き上がると、湿った鼻をひくつかせて周りを見渡す。
「起きちゃったか」
私と同じく目尻を下げていた皇太子が、覚束ない手つきで子犬を抱き上げた。ぎこちなさが子犬にも伝わったのか、それとも歩き回りたいのか、抱かれた犬が腕の中で身をよじる。昔飼っていた犬のことを思い出した私は、つい口と手を出していた。
「貸して。お尻を持ってあげると安定するのよ」
椅子に掛けたまま、彼からそっと子犬を受け取って抱き上げる。子犬が座るような姿勢になるように固定して、片腕でお尻全体を支える。最初はじたばたしていた子犬も、観念したのか大人しくなった。
活発だけど素直そうな子だ。そんな感想を抱いた私は、殿下から犬を取り上げるような形になってしまったことに気付いた。
「ごめんなさい、出過ぎたことを」
「ううん。助かったよ。懐かしいね、君のところにいた子犬たちを思い出す」
殿下は気にしない素振りで腕の中の子犬を愛おしそうに見つめる。犬を見るために、先ほどよりも距離を詰めていることに気付いた。私よりも少し背の高い彼が視線を落とすと、少しそばかすの散った顔にまつ毛の影が落ちた。明るい髪色は成長に連れて暗くなることも多いが、彼の髪色は以前のままだ。
(アレキサンダー様のまつ毛って今も金色なんだ――って何考えてるの私)
空色の瞳を飾るまつ毛をみて、私は遠い昔に彼が口付けをしてきたことを不意に思い出した。
子どもの時の戯れとはいえ、なんだか気恥ずかしくなった私は嘘をついた。
「そう、だったかしら?」
「え?」
「記憶は戻りましたが、なにぶん小さいころのことでしたから……」
単純に忘れてしまったこともある、そう告げると彼はしゅんと犬のように落ち込んだ気がして、私は悪いことをしたような気持ちになった。
しばらく黙って抱っこしていると、腕の中の毛玉は、黒いうるうるとした瞳をとろとりさせてまどろんできた。
「リンジー、いいかな?そろそろ……」
「あ、はい」
遠慮がちな殿下の声で周りを見渡すと、いつの間にか話し合いも終わったようだ。最後に子犬のつぶらな瞳をじっと見つめてから、私は籠にそっと子犬を返した。
「子犬をみんな引き取るの?」
「いや、一匹だけだよ。今日はひとまず顔合わせでね」
「それなら、ぜひこの子になさって」
そう言って兄弟を起こそうと悪だくみをする、先ほどまで抱いていた一匹を指さすと、殿下は少し目を丸くした後で頷いた。
「リンジーがそう言うなら、この子を迎えようかな。……いつか会いに来たらいいよ」
「ふふ、いつかね。お城もお姉様と見せてもらう約束でしたし」
訪問できることはないだろう。それでも幼い頃の約束を持ち出すと、彼はご機嫌な様子で家臣を伴い、壁の中へと消えていった。
「さぁ、リンジー。まだ辛いだろう。馬車まで送るよ」
まるでずっと壁だったかのように、ぴっちりと閉じた壁を見つめて感心している私に、付き添いを申し出てくれたのは兄のアーサーだった。
「ありが、」
とう、と言い終わる前に、兄が立つ側とは反対側に大きな影が落ちた。
「まだ貴殿には職務があるだろう。式典の準備で人手が足りないと聞いたが」
私達を引き留めるようにしたのは公爵だった。仏頂面な公爵ににこやかな兄が反論を重ねる。
「ご心配なく。頼りになる部下がおりますので、少しくらい抜けても問題ありません。あなたに妹を任せるほうが、障りがありそうだ」
冷えていく雰囲気におろおろとしていると、紅茶のカップを手にした陛下が呆れたように言った。
「まったくしつこいね、君のお家は。アーサー、父親ならまだしも、兄の身分で決められた結婚に口出ししたって仕方がないだろう」
「……かしこまりました」
どうやら軍配は公爵に挙がったようだ。たしなめるような口調に、ぐっと押し黙ったアーサーお兄様が一歩下がった。兄はそのまま礼儀正しく挨拶して執務室を去っていった。
「オリバー、お前もいい加減なんとかしろ。このままわだかまりを残されると面倒だ」
陛下が今度は苛立ちを隠さずに言った。すっかり慣れてしまっていたが、やはり人の上に立つ御方だ。陛下の言葉には逆らえない雰囲気があった。
頭を下げた公爵は、恐怖に固まる私の腕をそっととって執務室を出た。
「家のせいで、申し訳ありません」
「いや、元はと言えば私がまいた種だ」
面倒ごとになってしまっているらしい家のことを詫びると、公爵は苦い表情でそう言った。
なんとなくそのまま付き添ってもらいながら道を行く。宮殿へ上がるときは盗聴を前に気もそぞろだったけど、ひとまず今日の役目を終えた今は、距離の近さに体がぎこちなく強張った。
「犬を飼いたいのか?」
「え? いえ、そういう訳では」
ふいに投げかけられた問いに、私は反射的に否定の言葉を返した。
かわいさはよく分かっているが、以前に飼っていた子犬との別れが辛かったから、迎える気にはなれなかった。それに育てたことがあるからこそ、犬一匹増えるにも手間がかかることも分かっていた。一応婚約者という身分の私が、自分だけで面倒を見るわけにはいかないだろうから、飼いたいなどと簡単には言えない。
返答を聞いて公爵は少しがっかりしているような気がした。もしかしたら彼にも陛下の犬をもらい受ける話が来ていたのかもしれない。そういうことならお断りするわけにもいかないだろう。私は慌てて口を開いた。
「公爵が飼われたいのでしたら、お迎えしてください」
「いやそういう訳ではないんだ」
再び黙って歩く私たちの間を、夏の風が吹き抜けた。ふと見ると、庭園には夏に咲く紫の花が太陽に向かって真っすぐに伸びている。どうしても隣の公爵が気になってしまう私は、庭園の花とその芳香を楽しむことに意識を集中させた。
庭園を抜けて門の近くまで来ると、公爵家の馬車がすでにまわされていた。昼下がりの中途半端な時間だからか周囲には人気がない。取り繕う必要もないかと公爵の腕を離した私は、公爵の後に乗り込むつもりで彼が乗り込むのを待った。
大きな背中を見ていると、馬車へ踏み出したその背中は少し迷うような動作を見せてくるりと振り向いた。
「いいかな、その、手を取っても?」
どうやらエスコートをして下さるらしい。先ほどの陛下のおっしゃったことを気にしているんだろうか。
もちろん、と手を差し出すと、公爵はほっとしたような表情を浮かべてその手を取った。オリバー様の手を借りて、二段ある段差をのぼる。その様子を公爵がやけに慎重に見つめて、丁重すぎるくらいに支えるから、単純なはずの動作に私は緊張してしまった。
「君を馬車に乗せるのは初めてだ」
「え……?」
噛みしめるように呟かれた言葉を聞き返すと、少し焦ったように公爵が言葉を続けた。
「君はなんというか、一人で先に乗り込んでいることが多かったから。いや、私が悪いんだが」
思わず詫びようと口を開いた私に慌てて付け足した。
基本的に貴族女性は馬車の乗り降りに人の手を借りるものだ。しかし、公爵の家へ来て以来、人目がない場で一人で乗り降りすることが多かった私はすっかりそれに慣れてしまっていた。そういえば今日も気が急いて先に乗り込んでしまっていた。
私の後に公爵が乗り込んできて、無事に馬車が動き出した。
「香水か何か、つけているのか?」
「え、えぇ。香水を少し…」
コンスタンス様からもらったものを初めてつけてみたのだ。ほんのり香るくらいに留めたつもりだが、乗せてもらったときに香ったのかもしれない。あまり好みが分かれるような香りではないが、お好みではなかったのだろうか。ドキドキしながら次の言葉を待った。
「……君は、皇太子が来ることを知っていたのか?」
香水についての話が続くかと思った私は、再び変わってしまった話題に虚を突かれた。
「いえ、存じ上げませんでした」
立ち回りの上手い兄や陛下と比べ、私に情報をくれるのは公爵だけだ。
「そうか……疲れた顔をしている、着くまで休んだ方がいい」
会話に戸惑いながらも、確かに体は疲れを訴えていた。私は背もたれに寄りかかって目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます