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 戦争を想起させる陛下の言葉に、思わず戦火にさらされる街を想像して胸が痛んだ。陛下はなおも話し続ける。


「軍人だけじゃない。ゆくゆくは市民も巻き込まれる。絶対に開戦させてはいけないんだ。君の助けがいるんだよ」


 脳裏に公爵や姉と出掛けた街の様子が浮かんだ。戦争が起きたらお姉様のお気に入りの靴屋も、占い師もあの商人の親子も、みなが傷つくことになる。身じろぎして傷んだ肩に、銃口を向けられた恐怖が蘇った。


(――だけど助けるってどうやって? 童話が事実なら長男、つまり帝国の王族には無敵の能力を有している人がいるわけで、それが皇弟殿下ならどうしたって敵わないんじゃ……。そもそも童話の通りなら使っちゃいけないはずで、)


 考えあぐねた私が返事をしないでいると、今度は陛下が憐れむような口調で思いがけないことを言い出した。

「あぁリンジー、君は家族をすでに巻き込んでいることに気付いていないのかい?」

「どういう、ことでしょう」


 兄が焦ったように陛下を止めようとするも徒労に終わった。

「器量よしで身分も高い、王族にだって嫁げただろう社交界の花だったジャクリーンが、王国有数の富豪とはいえ、新興貴族である格下のフォルスタッフ家へ嫁いだのは何故か。次男とはいえ、カイルがわざわざ危険な軍隊入りを望んだのはどうしてか。不思議に思ったことはないかい」


 呆然として兄を見上げるも、その表情からはわずかな驚きしか読み取れなかった。『フォルスタッフ氏がいち早く帝国との貿易を開始』――図書館で読んだ新聞の見出しが脳裏に浮かんだ。フォルスタッフ氏は貿易で財を成し、その功績が認められて先代から爵位を与えられたのだ。


 絵本のお姫様に憧れてマナーやダンスを楽しそうに学んでいた姉が、義兄を選んだのは意外だと当時思ったことをふと思い出す。軍に入ると決めた次兄は果たして本心からだったのか。急に今まで信じていたものが崩れ落ちていくような思いだった。


「僕の推測を言おう、リンジー。全部君のためで、君が能力に目覚めてから始まったことだ。帝国との貿易がさかんなフォルスタッフ家に嫁入りすれば、二国間の情報は嫌でも入ってくる。軍部も同じさ。善良で家族思いの君は、家族の犠牲で守られてきたんだよ」

 優雅に微笑む陛下の顔がひどく恐ろしかった。優しく紡がれる言葉は、罪状を告げるかのように残酷に響いた。


「なんてことを! 耳を貸すな、リンジー」

 陛下はきっと揺さぶりをかけているだけだ。しかし兄の動揺が、陛下の言葉が嘘だけではないことを物語っているように感じた。


 その矛先が今度は兄に向いた。

「ご挨拶だな。君だって本当に当主になりたかったのかい? 演奏家の夢を諦めたんじゃ――」


 耳を覆いたくなるような事実がつまびらかにされていく。聞いたら駄目だと思いながらも、視線が、意識が、陛下から逸らせなかった。


「おやめください、陛下」

 不意にずっと黙って話を聞いていた公爵が切り出した。落ち着いた低い声が響くと、目が覚めるような気持がした。


 陛下がちっと舌を打った。いつの間にか陛下も余裕をなくしているのだと思った。

「オリバーお前、どっちの味方なんだ」

「もちろん陛下です。というかこれまでお側にいたのに、能力とやらについては初耳でしたが」

「人の口に戸は立てられぬっていうだろ。それに今日知ったじゃないか」

 公爵がじとりと陛下を見つめると、陛下がしれっと返した。


「まぁそれは仕方ないとして、」

 咳払いした公爵が、今度は兄と陛下を説得するように言う。

「我々はまだリンジーがどう思っているか聞いていない。手を貸すか、貸さないか、決めるのは彼女でしょう」


 その言葉に陛下は一応納得したような顔をしたが、お兄様は不快さを隠さずに眉を歪めた。

「妹を脅さないでいただけますか。あなたの仕打ちは聞き及んでいます」

 表情は変わらないものの、公爵がぎくりと肩を揺らした。


「やめて、お兄様」

 やっといろんなことに追いついて兄を諫めた。私が意思を示さない限り、この会談は終わらない。


「わた、私、今晩は陛下に能力のことを伝えて、それで、」

 動転のあまり、言葉がぶつりぶつりと途切れてしまう。小声になっていく私を公爵が正面から声を掛けてくる。

「落ち着いてリンジー、ゆっくりでいいんだ」


 その言葉に舞踏会のことを思い出して深呼吸をして心を落ち着かせた。

「……語り継がれていることが正しいなら、使うべきじゃないと思っていたんです。それでも、王国と帝国との衝突をおさめるためなら、つ、使う覚悟はできています」


 計画に参加する、つまり人を殺める計画に加担することを言葉にして、私はその恐ろしさに生唾を飲み込んだ。

「そうお伝えするつもりでいたんです。……ただ、私と陛下が童話にあるような能力があるなら、帝国側にも長男の能力を持っている人がいるはずで。それが気にかかっています」


 そう言い切ると、陛下が脱力して卓上に突っ伏した。なにか変なことを言ってしまっただろうか。

「へ、陛下! 大丈夫ですか?」

「うん……なんだか君には余計なことを言ったようだ。辛抱が足りず嫌な思いをさせた」

 体を起こした陛下が今度は背もたれに体重を預けて、気だるげに長い黒髪を額からかき上げた。


「リンジー、僕達は――」

「ごめんなさい、その、今日はもう失礼します」


 兄の言葉を遮って頭を下げた。知らなかったことばかりで混乱していた。僕達が指すのは姉か、次兄か、それとも家族全員か。


 気にはなったが聞いたところで、どうして教えてくれなかったのかと兄に詰め寄ってしまいそうだった。醜態をさらすよりも立ち去ることを選んだ。


 体に力が入りきらない感じでふらふらと立ち上がると、心配そうに兄も席を立った。

「行こう、リンジー」

「はい。アーサーお兄様。みんなによろしくね」

 立ち尽くす兄を一方的に抱きしめて、私は差し出された公爵の腕を都合よくとって兄の顔を見ずにその場を去った。


 公爵と会話する余裕もないまま、黙って馬車まで歩いた。頭の中は先ほどの会話で一杯だった。能力のこともそうだが気にかかったのは家族のことだった。馬車に乗り込んでからも陛下の言葉を思い返していた。


 あの十一年前の皇太子との一件で、兄弟の人生を知らずに歪めてたとしたら。なのに私は怖いという理由だけで全てを忘れていたのだ。家族はそんな私を見てどんな思いだっただろう。一呼吸置くとじわじわと涙が込み上げてきた。兄を避けておいて、たまらなくさびしくて不安だった。


 不意に隣から公爵の手が伸びて、そっと抱き寄せられた。驚きで一瞬涙が引っ込む。

「すまない、兄か父とでも思ってくれ」

 ぎこちなくそう言った公爵が、幼子をあやすように私の背中を一定の間隔で優しく叩いた。


 兄弟とは違う感覚に戸惑いながらも、ぽんぽんとあやす手が優しくて、徐々に強張ったからだから力が抜けていき、反比例するように湧いてきた涙が公爵の立派な服を濡らした。


 涙がひいてきたころで、ぼんやりしながら私は胸の内を言葉にしていた。

「知らなかったことばかりで、色々考えてしまって……。私のせいで兄弟は、家族は辛い思いをしていたのかも」


「君のご家族はきっと、そんな風に思っていない。誰がなっても君の家族はああしたんじゃないか」

 そうだろうか。そう思っていいのだろうか。無言でいると彼は話題を変えた。


「陛下も本心で言ったわけじゃない」

「そうでしょうか……」

「あぁ。半信半疑だったことが現実と分かって、めずらしく焦っておられたようだし」


 オリバー様の言葉を聞いていると心が凪いてきて、ふいにずっと思っていたこともこぼれ落ちた。

「公爵も巻き込んでしまいましたね」

「私が? 何に?」

「結婚のことです。私があの日、あの場にいなければ、オリバー様は私と結婚しなくて済んだのに。どうしていつも間が悪いんだろう」


 自虐を込めて苦笑しながら言うと、公爵の抱擁が一段と強まった。

「リンジー、そんなふうに言わないでくれ。何があっても私は君のそばにいるつもりだ」

 掠れた声に熱がこもっているような気がして、急に居心地が悪くなって身じろぎすると、公爵がぱっと腕を解いて正面に座りなおした。慌ててお礼を言うと、ぎこちなく公爵が返事をした。


「……勝手に宮殿を抜け出したりして、申し訳ありませんでした」

「あ、あぁ。もうしないでくれるとありがたい」

 互いにへらへらと余所行きの笑顔を貼り付けて会話を交わすと、いつものような気まずい沈黙が流れた


 公爵家も近くなった頃、ふいに公爵が震え始めた。唖然としていると漏れる吐息が、くすくすという押し殺した笑い声になり、ついには声を出して笑いだしてしまった。


「ど、どうなさったんですか」

 なにか盛られたのか、それとも陛下の能力にはまだなにか隠し玉があって、その影響でおかしくなってしまったのだろうか。心配で見つめていると公爵はいつになく楽しそうに話し始めた。


「いや、すまない。あの東屋で一瞬君が黙り込んだろう?」

 何がおかしいのか公爵はなおも、ふふふと口元を緩ませる。


「あの辺り、実は王家の愛玩犬が放し飼いにしてあるんだ。小型のかわいいやつ。それで――」

「それで?」

 砕けた口調の彼は再び笑いだして言葉が続かなくなった公爵に首を傾げると、陛下はすまない、と言いながら目元の涙をぬぐって続けた。


「君がその、能力で陛下に犬をけしかけるんじゃないかと思ってね」

 陛下はあれで犬をたいそう可愛がってるから、何も対抗せずにひとまず逃げ出しただろう。そう思うとおかしくて、そう続けると公爵は肩を震わせて笑った。


 ……少しばかり、いや、いささか失礼じゃないだろうか。それにあんな真剣な場でそんなことを考えていたなんて。文句の一つでも言いたいのに言葉が出てこなかった。


 口を大きく開けて目元をくしゃりとさせ、少し幼くなった笑顔から私は目が離せなかった。茶会でお友達と話していた時のあの笑顔だった。見つめてしまうのははきっと、その笑顔が向けられるのが初めてのことだからだと自分に言い聞かせた。


 変に思われないようにと思いながら、私は誤魔化すように笑みを浮かべた。確かに優雅な愛玩犬が陛下を追いかけ回すという場面を想像するとなんとも間抜けだ。


 それにそんなことをあの場で心配する公爵の姿も思い浮かべ、ツボに入ってしまった私は本当に笑いが止められなくなってしまった。これまでになく穏やかな雰囲気で、馬車が夏の夜を駆けて行った。

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