2


 出発した時とは反対に、沈んだ気持ちでのろのろと馬車に乗り込む。屋敷がどんどん遠ざかっていくにつれ、恋しさがどんどん膨れ上がった。


 駄目だ。いい加減自立しなければ。我慢、我慢、そう自分に言い聞かせていると、急に肩を両手でつかまれて正面に公爵の顔が迫っていた。


「ひっ」

 間抜けな声を気にも留めず、公爵が疑わしげに言う。


「姉に何を言われた」

 まさか、あんな一瞬のことが見えていたはずない。そう分かっているのに、紙を隠した左手に自然と力がこもってしまう。

「なにか渡されたか」

 舌打ちして呟いた公爵が、瞬く間に私の左腕をねじり上げた。


「、痛いっ、おやめください」

「動くな」

 公爵は掌をくまなく見た後、袖口を探り、ついに手首側に忍ばせていた紙を引き抜いてしまった。


「いや、返してっ」

 動揺のあまり素に戻って叫び、咄嗟に手を伸ばすも、公爵は内容を確認したのち、小さな紙を引き裂いてしまった。


「そんな……」

「言ったはずだ。小細工はよせと」

 無慈悲に告げる彼の手の中で、紙切れがどんどん小さくなっていく。ついにはそれを窓から捨ててしまった。初夏の青空を季節違いの雪が散っていく。


 抗議しようかと口を開くが、今さらどうしようもない。涙をこらえ、口を閉じて黙ってうつむいた。しばし静寂が訪れる。


「しかしさっきは見事な茶番だったな」

 なんのことだろう、ぼんやり公爵を見上げると彼の口元はにやりと意地悪げに歪んでいる。理解の遅い私にいらだった様子で公爵が言葉を続けた。


「愛してるといった芝居だよ、うまいものだ。家族をだますのもお手のものか」

 皮肉と侮蔑が込められた言葉が胸に突き刺さり、必死に耐えていた涙腺が決壊した。


 涙がとめどなく流れ落ちるが、そんな顔を見られたくなくて顔を手で覆った。せめて嗚咽はもれないように喉に力を入れてこらえた。ふっふっと短く息継ぎをする声が二人の間に落ちた。


 彼の言うことも事実だと、頭のどこかで分かっていた。私はひどい道化だったし、心配する家族に嘘をついた。でもどうすればよかったんだろう。家族を守るのに、なにか他に方法があったんだろうか。


 どうしようもないことを嘆いていると、しばらくした後に向かいの席から深いため息が聞こえて、勢いを落としていた涙がまた流れてくる。また呆れられてしまった。顔を見るのが怖くて姿勢は変えられなかった。


 公爵家に戻るころには、涙はひいていた。無言のまま馬車を降りて、見張りとともに部屋に行く。何かあったのは丸分かりなのに、誰も何も言わないのがむしろありがたかった。


 部屋のソファに腰掛けてぼんやりしていると、公爵と執事が入室してきた。その後ろから見覚えのある大きなトランクが二つ運ばれてきた。どうやらダールトンの家から必要な荷物を預かってきたらしい。


「侯爵家の荷物だ。中身は改めさせてもらう」

「オリバー様……」

「分かりました」

 マーティンはなにか言いたげだったが、私が承諾の返事をすると、公爵は彼に目で指示してトランクを開けさせた。


 よく読んでいた本に、舞踏会用につくったあのドレスや装飾品、私がずっと気に入って領地からわざわざ持ってきてもらったぬいぐるみ……取るに足らない個人的な品々が目の前で暴かれ、機械的に確かめられていく。肌着まで確認されたときは恥ずかしさで消えてしまいたいくらいだったが、もう歯向かう気力も残っていなかった。ただ突っ立っている私をマーティンが痛ましげにみていた。


「……随分踵が高いな、どうしてこんな靴ばかり持っているんだ」

 最後の方になって、靴が並べられたところでちくりと公爵が言った。どうやらお気に召さなかったようだ。占いの話でもしようかと思ったがきっと否定されると思ってただ謝った。私だって、こうなってしまった今は占いなんてほとんど信じてないけど、姉の気遣いまで馬鹿にされたら耐えられそうになかった。


「よくお似合いですよ。このお店、王都で人気のお店ですね」

 執事が重い雰囲気を変えてくれた。なんでそんなことを知っているんだろう、不思議そうに見たのが伝わったのか、「最近孫にねだられまして」とこちらを見てほほ笑む。


「ありがとうございます……お孫さんはおいくつ?」

「それがまだ八歳で」

 それは相当なおませさんだ。小さな女の子が靴をねだる姿を想像して思わず微笑んでしまう。


「お前は口を挟むな。君も使用人に対してそんな様子では困る。格好がつかないだろう」

 へらへらした様子がまた気に障ったのか、注意されてしまう。確かにお母様もお姉様も、使用人に親切にはしてたけどきちんと壁をつくっていた。学校のことはひとまず忘れて、令嬢として過ごしていたことを思い出さなければ。


 マーティンは心配そうに私と公爵の顔を交互に見やっていた。




◇◇◇◇◇◇◇◇




 実家へのあいさつを済ませてから数日後、果たして執事の不安は悪い方向に的中した。


 多くの貴族女性と同様、公爵夫人も労働とは縁遠いが、同じ貴族との付き合いを円滑にこなすことが求められる。基本的なマナーは問題ないが、王立学園に通わず領地に引きこもっていた私は、とにかく今の貴族社会の人間関係に疎かった。


 貴族の顔ぶれや家系図を相当数頭に叩き込むのはなかなか大変な作業だった。そのうえ、公爵家ともなると帝国以外の国とも交流があるようで、外国語の基本的な会話も習得するよう求められた。


 公爵か執事、またはその両方から、忙しい合間を縫って教わるのだが、勉強を進めても、公爵の前では萎縮してしまった。執事の前では答えられる問いにもまごついてしまったりして、彼をしばしば苛立たせた。


 護衛の軍人を女性に変えてもらえないか尋ねたことも、公爵の不興を買ったようだった。

「女性に?……君はああいうのが好みだと思ったが」


 めずらしく怒られることなく学習を終えた日に恐る恐る提案してみたのだが、不機嫌そうな様子に失敗を察した。


「難しければいいんです」

「そうだな……軍の女性はごく少数だし、それぞれ配置が決まっている。君のわがままに付き合えと?」

「いえ、申し訳ありませんでした」


 女性が少ないのは知っていたが、彼女たちはそれぞれ被害者支援や捜査で、女性ならではの役割を担い、重宝されているらしい。公爵ほどの裁量があれば融通が利くかと打算で頼んだが、そんなことも知らないで軽々しく行動したことを恥じた。




 今日はダンスの練習だった。ここにきて、積み重なった公爵のイライラが、ついに爆発した。舞踏会で初めに踊った時のように、いやもっとひどい動きを私はみせて、ついには彼の足を思いっきり踏んづけてしまったのだ。


 痛みに顔をしかめた公爵が激怒する。

「どういうつもりだ!」

 謝罪を伝える前に遮られる。公爵の肩がわなわなと震えている。


「そんなに私が気に入らないか?こっちだって君のような卑劣な人間はお断りだし、怯える人に手を出す趣味もない」

「オリバー様、落ち着いてください」

 見ていられなかったマーティンが間に入る。


「落ち着いていられるか!茶会まで一週間しかないんだ!わざと下手を打っても恥をかくのは私たちだけじゃないんだぞ」

 公爵が吠え、執事を押しのけて詰め寄られる。


 婚約を公表したことで、同伴で参加するようにとの社交のお誘いが多くかけられたらしい。可能なものは断っているが、王国主催の茶会は参加が絶対だった。


「大体さっきの動きはなんだ!わざとやってるとしか思えない。君はちゃんと踊れるだろう」

 肩を強く掴んで揺すられる。先日見たおぞましい夢がフラッシュバックする。返事をしようとするのに、恐怖で口も動かず声も出ない。胸が早鐘を打ち、視界がぐにゃりと歪んだ。



「お、おいっ、リンジー!?」

 焦った公爵の声が遠くに聞こえた。

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