ぎごちない恋人たち
1
はっと目が覚めた私はがばりと身を起こした。じっとりとした嫌な汗をかいていて気持ちが悪かった。見知らぬ部屋に一瞬混乱するが、すぐに宮殿での出来事を思い出して落ち着きを取り戻した。
それよりもさっきの夢が気になった。枕元に用意された水差しからグラスに水を注いで飲みながら考え込む。八歳のころ、侯爵家の屋敷に忍び込んだ賊と偶然鉢合わせてしまった私は、首を絞められて間一髪のところで気付いた家族に助けられた。――そう思っていたし、周りもそう説明していた。
(あれは……盗賊かもしれないけど少なくとも医師のふりをしていたわ)
そうすると話が変わってくる。なぜ家族は事件のことを偽っていたんだろうか。忍び込んだのと医師のふりはして入り込んだことは些末なちがいだろうか……。
しかし、そもそも私は健康優良児で、医師を呼ぶほどの大病をしたことがなかった、と思っていた。なのにあれは一体――。
はやる気持ちを落ち着かせようと、もう一度水をごくりと飲みこむ。そういえば、襲ってきた男とのやり取りを思い出すのも初めてだった。どうやらその前日に見た内容について話していたようだったが、前日に一体何が起こっていたのだろう。私はあの時何を思い出して首を絞められたんだろうか。記憶を掘り起こそうとすると、頭がまた痛くなってくる。
コンコン、控えめなノックで思考が中断される。返事をすると公爵が部屋に入ってきた。てっきり使用人かと思ったのでぎょっと身じろぐがもう遅かった。
「すまない……今起きたところか」
一瞬目を見開いた公爵が少し気まずそうに言う。昨日よりも落ち着いた雰囲気だ。扉を後ろ手に閉めて少しこちらに近づいてくる。
「はい、申し訳ありません。こんな格好で」
恥ずかしくなって毛布をこそこそと引き上げる。まだ髪も整えていない、顔だって寝起きのまま何もしていない。さっさと支度をすればよかった。だらしない姿を見せることが恥ずかしかった。
「いやいい……今日はダールトン家にあいさつに行く」
えっ、と思わず声をあげて公爵の顔を見上げる。
「それは……公爵だけしょうか? それとも私も同行できるんでしょうか」
「君にも来てもらうつもりだ。しかし常に私か護衛が付く。下手な真似はしないように」
「はい」
てっきり公爵家から出られることはもうないかと思っていた。同席していたってかまわない。家族との再会の予感に胸が高鳴った。しっかりと釘を刺されても自然と返事の声が大きくなる。
公爵はそのまま食事を終えたら支度をして待機しているようにと指示を出した後ふいに口ごもる。不思議に思って見つめていると気難しそうな顔で言った。
「足は、もういいのか」
「えぇ、もうすっかり。ご心配感謝します」
色んなことがありすぎて忘れていたが、そういえば足をくじいていたんだった。そっとベッドの中で動かして確認したが、若干の違和感はあるものの、痛みはもうなかった。
公爵はまた部屋を出ていき、交代に護衛の屈強な軍人が食事とシンプルなドレス、水を張ったたらいなど持ってきてくれた。無言で去っていく彼らの様子から察するに、私と話をすることは禁じられているようだ。
一人きりの味気ない食事を手早く済ませる。食後、少し待っても侍女は来なかったので、自分で身支度を整えた。訓練校で学んだことが皮肉にも意外な形で役に立った。支度を終えて待ちきれない思いで少しソファに腰かけていると、再び公爵が訪れた。
玄関まで連れ添い、寄せられた馬車に今日はさっさと乗り込んだ。やや遅れて乗り込んだ公爵が向かいに腰かける。行先が実家だと思うと、馬車の中の沈黙もいくらでも耐えられそうだった。
「到着する前に、話を合わせておかなければならない」
窓の外の景色を眺めていると、声を掛けられた。
「話というと、昨日の陛下のおっしゃっていたようなことでしょうか」
「そうだ。基本的には陛下の方針に合わせる」
唸るように言う公爵は不服そうだった。責められているようで気が滅入る。
「承知しました」
「それから公爵呼びは怪しまれるな。互いに名前で呼び合うようにしよう」
わかりました、そう呟くがオリバー様と呼ぶのはなんとも恐れ多かった。呼ばないで済むようにと祈る。家族は揃っているだろうか。きっと不安だろうからせめて笑顔で安心させてあげたい。次にいつ会えるのか、分からないから。
がたん、と馬車が止まる。つい一昨日まで滞在していたはずの屋敷がひどく懐かしかった。使用人たちに出迎えられて応接間に通される。
「リンジー! 心配したのよ!」
「お姉さま、ごめんなさい」
目の前にお姉さまが駆け付けたかと思うと勢いよく抱擁される。しなやかな体と華やかな花のような香りに包まれた。
「二人とも着席なさい。ガーフィールド公爵、ようこそいらっしゃいました」
お父様がいつになく固い顔で私たちを戒め、公爵にあいさつする。その隣の母も深く礼をする。兄二人は不在のようだ。
席について早々、公爵が本題を切り出した。
「通達があったかと思いますが、お嬢様をめとりたい」
「聞いてはおりましたが突然のことで……ひとまず婚約とのことですし、リンジーを侯爵家に一旦預けていただけませんかね」
「それはできかねます」
穏やかに父が提案したが、取り付く島もない。恐らく通達は陛下から来たのだろう。ただでさえ格上の公爵家からの申し出だ。結婚の話を断ることは、きっとできない。
なんとか食い下がろうとするお父様の横で、優雅で落ち着いていた様子だったお母様が急に割り込んだ。
「わたくし、結婚には反対よ」
爆弾発言に周りの人間がぎょっとする。そもそも母は結婚してほしいんではなかったんだろうか?周囲の驚きを気にも留めずに母は続ける。
「別に二人は好きあっているわけでもないんでしょう? お互いになにか家同士でつながりたい理由があるわけでもないわ。私は娘には幸せな結婚をしてほしいの」
母の言葉にじんとする。しかし感情に訴える母に公爵が冷静に返答した。
「侯爵夫人、勘違いなさっているようだが、これは王命です」
「あら、ですからなにかの事情があることは察していてよ。でも結婚という形じゃなくてもなにか他に手はあるんじゃなくて?」
……恐れ多いことに母は代案を探せと要求しているようだ。勝手な意見だがこうも当たり前のように言われると嫌味がない。
他人事のように感心していると、二人の間の空気が険悪になっていくことに気付いた。ふと姉を探すといつの間にか席を外しているようだった。誰かを呼びに行ってるんだろうか。
母と公爵が押し問答を続ける。次第に議論は穏やかに聞こえながらも対立を深めていき、冷え冷えとした空気に冷や汗が流れる。もう私も父も蚊帳の外だ。お母様ってふんわりして見えて思っていたよりも気が強い。帰ってきた姉に救いを求めて視線を投げるも諦めたように首を振られる。
「何度言えばわかるんです!」
辛抱強く母を説得していた公爵が、机を手で叩く。歯を食いしばっていう声にはっと横を見上げる。彼の額に青筋が浮かんで見えるような気がした。これ以上はまずいんじゃないだろうか。いくら旧知の仲とはいえ、あまりにも無礼がすぎたのだ。この話はどうしたってひっくり返せない。
なんとかして場を収めなければいけない。それにはひとまず母を止めなければ――。
「お母様やめて」
勇気を出して声をあげた。二人がぴたりと動きを止める。
「リンジー、大丈夫よ、無理することないわ」
「してないわ、ちゃんと聞いて」
テーブルに乗ったままだった公爵の左手に、そっと自分の右手を重ねる。息を呑んだのは両親か姉か公爵か。気にせず続ける。
「確かに急だと思うしちょっとした事情はあるわ、でも私、彼を、オリバー様を愛しているの」
笑顔で彼の手をきゅっと握りこむ。話を合わせてもらえるか心配だったが、右手は力強く握り返された。ダンスの時に背中を押された気持ちがよみがえって心強かった。
母は動揺していたがなおも言い募った。
「リンジー、だってあなた……」
「だから大丈夫。きっと幸せになれるわ。式にはちゃんといらしてね、お母様とお姉さまでまたドレスを見立ててちょうだい」
お姉さまの時みたいに、夏に挙げたらきっと素敵だわ、はしゃいで聞こえるように続ける。お願い、だからみんなも笑って――。
家族はいつだって私を甘やかしてくれた。仕事もできない、結婚もしようとしなかった末っ子のために、わざわざ公爵家、ひいては国王にたてつくことなんかないのだ。精いっぱい彼の手を握って幸せな花嫁を演じるのに、家族は戸惑った顔をしている。嫌だな、もう会えなくなるかもしれないのに。最後は皆と笑顔で別れたいのに。
手をつないだまま、公爵が席を立った。
「では、そういうことですので。これで失礼する」
「お待ちください」
私たちが退席しようとすると、お父様に呼び止められた。
「あいさつくらいはさせていただけますかな」
繋いだ手に一瞬力が入った後、その手が解放された。
「……手短に」
父、母、姉の順に抱擁を交わす。声を出したら泣いてしまいそうで、無言でただ力を込めて抱き着いた。姉との離れ際、耳元で「黙って私の目を見てて」とささやかれた。
要領を得ないままだったが、体を話したお姉さまは私の両手をぎゅっと握りこむ。ふと、つなぐ左手になにか紙のような薄いものが挟まっている気がした。手元に落としそうになった目線を慌てて正面の姉へ向ける。
「元気でね、リンジー。またすぐ会えるわ」
そう言いながら姉は、私の袖口にその何かを器用に滑り込まして手を離した。気になる気持ちをぐっとこらえて、姉の顔を見て黙って頷いた。
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