ヴィラン・バケーションハウス〜悪役令嬢御用邸〜

紫はなな

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「わたくし、婚約破棄されましたの」


 公爵令嬢ジュリアナ・グレイは胸もとで両手を組みながら、頬にひと筋の涙を伝わせ、フロントに立つ青年へ訴えかけた。

 その佇まいは、どんなに理性的な男も目が眩む。

 金糸で縫われた純白のドレスに隠す肌は熟れた桃に薄絹を重ねたよう。左肩から前に流れるよう精緻に編みこまれた苺色ストロベリーブランドの髪には、ひと握りで金貨が積まれる価値がある。瑠璃色ラピスラズリの瞳には島ひとつ。

 齢十六の彼女──ジュリアナは、稀なる大輪。

 花びらを開かせようという今、身も心も枯れかけていた。


「かしこまりました」


 一方、黒いコックコートに身を包んだその青年は、記入済の宿泊名簿レジストレーション・カードにしっかりと目を通し終えてから、ジュリアナへ華やかな笑みをたむけた。その笑みはたとえるなら、執事がお仕えするお嬢様へ捧げるような、怜悧かつ物柔らかな、完璧な表情だ。


「婚約破棄でございますね。ではこちらへどうぞ」


 ジュリアナは杏子のように艶めく、いやいまは干し杏子のように乾ききった唇をポカン、と開けた。

 婚約破棄よ? 聞こえなかったのかしら。

 宿泊理由を訊ねられ、詮索されぬよう家出と答えれば、すべからく家出の理由を訊ねられ。なにもかも明かさねばならないのかと腹をくくり、辛くも言葉を紡いだというのに、この男は。

 ジュリアナは、茫然自失でぽっかり空いた感情に、沸々と怒りをわき立たせた。


「こちらへどうぞって、そんな平然と!」


 組んでいた両手で握りこぶしをつくり、滴りそうになっていたもうひと筋の涙をしゅるりと引っこませ、声を荒らげる。


「婚約破棄されましたのよ!? 紳士たるもの、嘆かわしいとかなんとか、優しい言葉をかけながら、ブランケットの一枚でも肩にかけるべきではないの!」

「当ハウスもご令嬢のお国もただいまの季節、夏真っ盛りでございますが」


 冷たいおしぼりならございますよ。

 颯と差し出されたタオルからひんやりとした風を感じて、思わず手をのばす。

 

「あー、きもちいいー」

「御しやすく、怒る元気あり。──と、こちらへどうぞ?」


 青年は、名簿に不穏な走り書きをしながらフロントから三歩ほど奥へいくと、L字でつながるカウンター席へと、ジュリアナを促した。言葉遣いと物腰は丁寧で礼のひとつも欠いてはいないが、それがなぜかものすごく気に障る。

 

「それも、カウンターチェアって……」


 だがジュリアナは、紳士にどうぞと勧められて断ることのできる令嬢ではない。渋々カウンターを支えにして、備え付けの椅子へ乗り上がった。座面はなめらかなレッドベルベット。同じ生地の背もたれにはさりげなくムートンがかけられており、高級感も座り心地も申し分はないが。

 

「カウンターって……、パブじゃないんだから」

「そんなにカウンターがお気に召されませんか」

「だってわたくし、婚約破棄されましたのよ!?」


 受付に置かれた呼び鈴およそ一回分の間がテーブルを滑るカクテルグラスのように風を切ってふたりの狭間を通り過ぎていく。


「はん」

「はん!?」

「お気に触ったのでしたら、申し訳ございません。はじめてご利用のお客様の宿泊理由の実に九割が、婚約破棄でございますので」

「九割が!?」

「こちらとしてもうんざりといいますか。またか、といった心持ちでお迎えしております」


 ジュリアナは、受付から三分足らずの間隔で、ポカンの再来を経験した。一度煮詰まってしまった怒りは鍋底の焦げスミのように、執拗にこびりつくだけである。

 初利用客の九割が婚約破棄。

 恥をしのんで暴露した過去が、もはや令嬢にとって当然の嗜みのごとく聞こえる。

 ジュリアナは青年の虚空むこうをみつめた。真っ白な壁であって欲しかった虚空は鏡で、間の抜けた自身が映るばかりであった。


「かなり、御しやすい、と……」


 青年はその間にも名簿に不穏な一行をつけ加え、勝手に話しを進めていく。


「改めまして、ヴィランバケーションハウスへようこそ。わたくし、当ハウス支配人のノワ・クロドと申します。どうぞ御申しつけの際にはクロドとお呼びくださいませ」

「クロド……、はぁ、よろしく」


 どうでもよくなったジュリアナは握っていたおしぼりで、汗でじっとりとしていた首まわりを拭った。爽快感のある香りと肌ざわりで、存外に気持ちいい。


「当ハウスでは、お客様の御心身が充分に癒されるまで、バカンスをお楽しみいただけます。再起に必要なアメニティ、アクティビティはすべてこちらで御用意させていただきますので、安心しておくつろぎくださいませ」

「そう。では、なにか飲み物をいただける?」


 炎天下のなかを延々と走っていたのだ。重いドレスを引きずって、ぺしゃんこに疲れ果てるまで。喉が、全身が悲鳴をあげている。

 青年──クロドは、顎先までしだれていた黒髪を耳にかけ、爽やかに笑った。


「御理由を」

「は?」

「ご自身の舞台を離れた御理由を、詳しくお聞かせください。婚約破棄の四文字だけでは、水一滴たりとも、差し上げることはできません」

「どうして!? おしぼりはくれたのに!」

「おしぼりは、雑菌だらけの汚い手でそこらじゅうを触られぬようにと私が考えぬいたもので、まさか公爵家のご令嬢たるものが胸もとまで拭われるとは思いませんでしたが、当ハウス限定のウェルカムサービスでございます」


 細く長い指を隙間なく揃え、「どうぞ」を形容する。


 おしぼりは〜、から、当ハウスまでの言葉だけが妙に頭に入ってこなかったが、蒸し返したところでクロドの所作は次に移らない。

 ジュリアナはやむなく、老婆の酒焼けしような声で、話し始めた。一滴たりとも、のくだりで、さらに喉が渇いてしまったのだ。


「わたくし、バルドレン王国の王太子アドリアンと、婚約しておりましたの」

「ほう、王太子ですか。ではジュリアナ嬢は王妃となられるご予定だったのですね。ご婚約期間は」


 ジュリアナが話しはじめると、クロドは意外にも話しの流れにアウトラインを引くように、細かく相槌を打った。


「……さあ。物心つくころから、王室教育は始まっていたから」

「その割にはおしぼりのご使用方法が大胆でしたが。では婚約式べトゥローサルはお済みで?」

「公私を使い分けてなにがわるいの! 婚約式? つい、先ほどのことよ」

「では婚約式にて、婚約破棄されたのですか。それでは婚約破棄式ですね」


 売り言葉ではない。クロドは顎に指を添え、考えこむように言った。


「婚約式前でしたら、公にせずとももっと穏便に解消できたはず。今日を迎えられる前に、王子の態度におかしな点はなかったのですか?」

「とんでもない。王子の、アドリーの愛はほんものだったわ。昨夜だって、リハーサルのあとに引き止められたのよ。明日履いて欲しいって、この純白のドレスに揃いの色の靴をくれたの。アドリーからの、はじめての贈り物だったのに……」


 カウンターの下で足をよじらせる。

 

「どうして、こんなことに」

「おわかりなのでは? 一夜明け、態度をひっくり返したのです。よほどの理由ができたのでしょう。たとえばそう、女の影とか」

「女。……そうよ、あの聖女とか言う女!」

「ほう、聖女」

「リハーサルどおりに扉を開けたら、アドリーのとなりに立っていたわ。婚約式はこのひとと済ませたからと宣って。……あり得ない! バルドレン王国では、爵位のある家柄かつ純血種の姫君だけが、王族との婚姻を許されるのですよ? それなのに、どこぞの馬の骨ともわからぬ小娘と。王室教育に明け暮れたわたくしの、今までの苦労はなんだったの……! そう思うと、許せなくて!」

「なるほどそれから?」


 膝をのばして熱弁をはじめたジュリアナに対して、クロドもまた組んでいた両手を強く握りしめ、話しに聞き入ったが。


「ジュリアナ嬢は、どんな報復を?」

「なにも。歩み寄ったらすぐに、水桶をひっくり返されましたの。今日のために仕立てたドレスがびしょびしょで、わたくし恥ずかしくって。そばにいたお父さまとお母さまに顔向けできず、そのまま逃げてきました」

「どちらへ」

「ここへ」


 ん? 

 カクリ、と首が分度器で測ったように正確に左四十五度に曲がる。


「おしまい?」

「はい」

「聖女に呪いをかけては」

「ない」

「では──、逃げた先で奴隷商につかまったとか、娼館に売り飛ばされたとか」

「このわたくしが? まさか」


 ジュリアナが鼻であしらうと、クロドもまた鼻で笑った。


「なんであなたが笑うのよ! わたくし、婚約破棄されましたのよ!?」

「よくそんなんでウチの敷居またげたな、おい」


 あくびをこぼしながら、細長いグラスを置く。

 クロドの口調が乱暴に砕け、ジュリアナは息をのんだ。

 喉が干からびていたからだ。

 飲んでいいのかしら?

 グラスには、白濁とした液体が飲み口までなみなみと満たされている。

 

「さあ、今年もお越しだ」


 クロドの言葉と同時に受付の呼び鈴が三度、けたたましく鳴ると同時に床の緋毛氈ひもうせんから禍々しい魔法円が浮かび上がった。黒光りしたその魔法円は円柱を形容しながら、天井へとほとばしる。


「いいか、それでも飲んでよく観ておけ。悪役令嬢たるものの、真の姿をな」


 悪役令嬢……?

 ジュリアナは耳を疑った。

 天使と呼ばれた自身がなにゆえ、悪役ヴィランを鑑賞せねばならないのか。

 クロドはジュリアナの惚けた顔を一瞥すると、まぶしいほどの白い手袋をはめ、そばを離れた。

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