ジャック・オー・ランタンは祈らない
衣川自由
エルフの場合 ①
ジャックは窮地に立たされていた。
普段運動などしないものだから、全力疾走は数メートルと保たなかった。よろよろと鈍い足取りで路地裏へと逃げ込む。
薄暗く腐敗臭の漂う空間で息を潜め、追っ手の足音が遠ざかるのをじっと待った。高らかに響くヒール音。すぐそこの角で一旦止まり、逡巡するように数度地面を叩く。やがてジャックが座り込む道とは反対方向へ消えていき、ようやく長い息を吐くことができた。
──よし。とりあえず助かった……。
「ぎゃっ!」
ほっとしたのも束の間、背後から何者かに後頭部を殴打された。重い衝撃で眩暈を起こし、よろけながら振り返る。そこにはウィリアムの姿があった。
真っ黒な髪と真っ黒な瞳。反するように全身真っ白な服に身を包んだ彼はひどく不機嫌そうに眉を顰めている。
「やあ、ウィルじゃないか。調子はどうだい」
「上々だな。もっともこんなところで半裸の同居人に出会うまではの話だけれど」
「下着を履いているから半裸ではないよ」
「御託はいい。まったく……また女に迷惑をかけたんだろ。今度は誰? リリー? レミイ?」
「ヴィクトリア」
「新しい女か……」
ウィリアムは大袈裟にため息を吐き、ジャックに向けた指先で宙に円を描いた。黒い糸状のなにかが生まれ、ジャックの下肢に絡みつく。やがて糸はスキニーパンツへと変貌を遂げた。
ジャックは屈伸して履き心地を確かめると、
「サンキュ。きみは仕立屋も向いてるかもね。きみの作るパンツは履き心地抜群だ」
と言ってウィリアムの肩に腕を回した。ウィリアムは呆れ顔でふたたびため息を吐いた。
二人は一応周囲に気をつけつつ表通りに戻った。暮れ始めた空の下には、夕飯の準備に空を駆け回る魔女、仕事を終えて疲労顔で帰路につくゴブリン、これから夜街へ繰り出そうと気合を入れる狼男などがいる。闇鍋みたいな光景に、自らも具材の一部として溶け込んだ。
ジャックとウィリアムが二人で暮らすアパートは四番街の角にある。赤煉瓦で造られた四階建ての四階、四号室。向かいには小さなパン屋がある。ここのオーナーは変わり者で、気まぐれな時間に十五分間だけスーパーセールを行う。半額以下の大安売りなので、二人の朝食はだいたいここのマフィンだ。ウィリアムに今日はまだなのかと訊くと、もう入手済みだと言われた。四◯四号室のシェフはいつどんなときも抜かりない。
部屋に戻ると疲労がドッと押し寄せた。たまらずソファに全身を投げ出し唸り声をあげる。全身が鉛のように重い。鉛なんて持ったことはないけれど。
「あっ、こらジャック。そのまま寝るなよ。今日はこのあと約束があるだろ」
「残念ながら気が乗らないんだ」
「おまえの気なんてどうでもいい。今月も相変わらず火の車だ。どんな依頼でも必ず受けろ。一エンでもいいから儲けを出せ」
そうは言われても、困ったことにもう指先ひとつ動かしたくない。それにたった一エン儲けたところで火が消えるわけでもなかろう。
「ほら、時間まであと三十分しかない。俺は茶の準備をしておくから、おまえはその怠惰な顔をなんとかしろ。だいたいこんなにギリギリまで女の家に入り浸るなんて、おまえには商売人としての自覚がないのか? 商売ってのは信頼関係がもっとも大事なんだ。客は意外と細かいところまで見ているものだぞ。呆けた顔、香水の甘ったるい残り香、加えてシャツに着いた口紅……ああ、改めて見ると最悪だな。風呂に入ってる時間はない。とにかく着替えだけでも……」
「わかった、わかったよ。全部まるっと承知した。悪いがウィル、残り香だけ消してくれないか。顔と服は自分でどうにかする」
「くそったれが」
ウィリアムが苦々しい顔で指先を振ると、ジャックの身体から石鹸のような爽やかな香りが漂い始めた。別に無臭でよかったのにという本音は隠し、洗面所で顔を洗う。茶色い猫っ毛を濡らして整え、コンタクトを外して眼鏡に替える。自分的にはどちらでもいいのだけど、ウィリアムが「眼鏡のほうが多少は賢く見える」と言うので従っているのだ。
さっぱりした視界で鏡を見た。確かに襟元に口紅が付着している。やっぱり女性の家に行くときは白い服を着てはいけない。後悔を胸に刻み、まったく同じ形の白シャツに着替えた。
ダイニングに戻ると、茶菓子の乗った皿がテーブルに置かれていた。その隣でウィリアムが座り込んでいる。顔色が真っ青だ。申し訳なさが込み上げ、彼の真っ黒な髪を撫でた。
「ウィル、疲れた?」
「俺が魔力を使うのは一時間に一回。いい加減守れ」
個人差はあるものの、すべての魔力には制限がある。一度使うと回復までに一時間は要するらしい。
ウィリアムの力はいつもジャックのために使われる。これでも昔よりは回復速度が上がったほうだ。しかし今日は一時間以内に二回使わせてしまった。しかもどちらもかなりくだらないことに。さすがのジャックも反省し、ウィリアムの肩にブランケットをかけてあげた。
時計を見ると、約束の時間まであと十五分だった。ウィリアムにはこのまま休んでくれと伝え、紅茶と茶菓子を持ってパーテーションの奥へ移動する。
ダイニングの入り口側の一角を区切り、事務所として使っていた。ガラステーブルの上にトレーを置き、黒いレザーのソファに汚れがないかチェックする。あとは依頼人の来訪を待つだけだ。もう一度ウィリアムに声をかけようとすると、ドアノッカーが乱暴に叩かれた。
もう来たのか、と玄関を開ける。そこには長い金髪を揺らす見目麗しい妖精がいた。
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