水
五階アトリエフロアの薄暗い廊下を、千歳は一人、足下の非常灯を頼りに歩く。
廊下は、空調は保たれているが、どこからか外気が入り込んでいるのか、時折冷気が這い上がってくる。
学校だった当時を殆どそのまま引き継いでいるこの場所を歩くたび、千歳はここが会社だと忘れてしまいそうになる。
いや、そもそも自分がどこにいるのか、それさえ覚束ない。
――この先、君の行く手には、最低でも九度、危険が訪れる。
頭の中を回るのは正樹の言葉。それだけだ。
(……社長の判断は正しい)
それは千歳が誰よりも理解している。
だが受け入れてはいなかった。
神域から生還した千歳は、しばらくは祖父母の家で親戚と一緒に暮らした。
皆、家族を亡くした千歳に親切だった。
だが、次第に千歳の周囲で引き起こされる異変に気付き、畏れ、持て余すようになっていった。親戚との齟齬は日に日に深まり、決定的な亀裂へと至るのは時間の問題だった。
破綻は目前だと、子供の千歳ですら感ぜられた。
正樹と彼の家人である術者達と知り合ったのはその頃だ。
千歳一家が水没した神域の調査に訪れていた一行は、親戚を通じ、生存者である千歳の存在を知った。
話し合いの末、正樹の生家へと預けられる事になった千歳は、その経緯を知らない。聞きたくもなかった。
正樹の生家は恐ろしく広い武家屋敷だった。
庭に面した広い座敷に通された千歳は、老齢の術者から、自分の身に起きた詳細を聞かされた。
それまで見ない振りをしてきた数々の異変に説明が付けられていくのを、千歳はぼんやりと聞いた。
お昼前のことだった。
庭に注ぐ日は高い。松や紅葉の古木が借景の山に調和した見事な眺望だ。
縁側の引き戸は全て開け放たれていたので照明はなくとも見通しがきくが、庇に遮られた陽光が座敷まで差し込むことはなかった。
室内はひんやりと薄暗く、正座をして話す術者よりも、その背後、部屋の隅に蟠る影ばかりが気になった。
話が終わると別室へ案内され、そこが千歳の当座の住処となった。
日当たりも風通しも良い座敷だ。書き物机があり、背の低い箪笥が備えられて、仮住まいとして申し分はない。
だが、他人の家だ。
慣れない居候生活に息苦しさを覚え、屋敷を抜けだしては、裏手に広がる山へと入り込み、日がな一日散策に暮れた。
正樹が後ろから付いてきているのは知っていたが、不貞腐れ気味だった当時の千歳は、話しかけられても、不機嫌にそっぽを向くだけで、頑固として口をきかなかった。
正樹がシンガーソングライターとして名を上げていることは、千歳もその当時から知っていた。誰彼構わず笑顔を振りまく正樹のことを、金持ちの軽薄なチャラ男だと、胡散臭く警戒していたのだ。
その割には彼が所用でついてこない日は、姿を探して何度も振り返るのだから、本心としては満更ではなかったのだろう。
正樹から絵を描くように勧められた時、最初は乗り気ではなかった。
全体差し出したのが、スケッチブックはともかく、オイルパステルは頂けない。幼稚園児が使うヤツじゃん、と、不満いっぱいの上目遣いで受け取った千歳は、にこやかに笑う正樹に促されるまま絵の描き方を教わり、森の様子を写生して回った。
描く事が楽しいとは思わなかったが、何かに集中すると時間が経つのが早い。することもなく歩き回るよりは気が紛れると、千歳はひたすら絵を描いた。
木々が開けた森の奥に池を発見したとき、波打たぬ銀の水面に周囲の景色が逆さまに映り込む様に、千歳は素直に感動した。
鏡池と呼ばれているのだと正樹に笑顔で教えられ、なるほどと納得した途端、千歳は急に不機嫌になった。
今思うに、正樹の意見にうっかり同意してしまったのが癪だったのだろう。ぶっきらぼうに返事をした千歳はそっぽを向くと、目に映った倒木に腰を下ろし、わざとらしく写生を始め、そして、複数体のガシャ鎧に取り囲まれた。
どこから沸いたのか、白い巨体を見上げ、唖然としている内に、千歳は正樹に背を押され、池の中へ落ちた。
ガシャ鎧は正樹の侍従によって払われた。当時はそう思った。
千歳を池へ落とした後、自らも水中へ飛び込んだ正樹によって水面に引き上げられた千歳は、その腕の中で、魔物達が鏡池に沈んだのを見届け、そこで意識を手放した。
病院で目覚めた後、正樹からあの魔物達はこの先千歳の行くところに現れるかもしれないと告げられた。
取り憑かれたのか尋ねたら、先送りになったと正樹は困ったように笑った。
(先送り……)
思い出しながら千歳は、胸の底に漆黒の闇が広がるのを感じた。
あの日沈んだ神域の底と同じ闇だ。
(神域の鏡池に沈んだ魔物達は)
(御神託。絵)
(先送り)
ぼんやりしながら、いつの間にかエレベーターホールへ戻ってきたことに気付いた千歳は、そこで足を止めた。
さすがに皆引き上げた後らしく、ホールはしんと静まりかえっていた。意味も無く立ち尽くしていると、奥まった廊下に、室内灯の光が漏れ出ている。千歳はふらりと吸い寄せられるように、そちらへ足を向けた。
半開きの開き戸から覗くと、少女が一人、脚立の天板に腰掛け、真正面、千歳から見れば右の壁面を、じっと凝視していた。
年の頃は十四、五歳。肩口にかかる頭髪は松葉色をしている。だぶついたトレーナーとハーフパンツの少女は、明るい室内において、なお炯々と目を輝かせながら、正面を見据えていた。
部屋は元は物置として使われていたのか、長い奥行きに対して幅は三メートル程度しかない。突き当たりに縦滑り窓はあるが、細長い室内は、他の工房と比べるとひどく手狭だ。
壁材は飾り気のない打ちっぱなしのコンクリートだが、天井と床の一部に、所々奇妙な陰が揺れている。
それらは全て、少女が見つめる壁面から、正確には、壁面に掛けられた巨大なパネルから伸びていた。
天井近い上部は垂れ下がり、下部は雪崩打って、脚立を取り囲むように広がるそれらが、高木と低木の枝葉に見えるのは気のせいではない。
千歳は少女の様子をしばらく眺めてから、軽く扉をノックした。少女は、千歳が顔を出した時から、その存在に気付いていたようだ。興味が無いのか、感心を払う素振りは見せなかったが、千歳が来訪をアピールしたので、仕方なくといった風に口を開いた。
「入るなら、ご自由にどうぞ」
「ありがと」
頭を動かさず、おざなりに入室を許可する少女に礼を言うと、千歳は扉の隙間から身を忍ばせると、扉の横に平行移動して、壁にもたれかかった。そのまま、少女の様子を見るともなく眺める。
しばしの沈黙の後、少女は、はあ、と嘆息した。不機嫌に
「……用があるなら、早く言ってよ」
しびれを切らしたように、少女がムスッと首を巡らせる。
「今日はまた、一段と派手だなと思って」
あたかも緑深い森に向かって開かれた窓のような壁面に目を向け、千歳は素直に感想を述べた。
風もないのに無音でそよぐ木々から、ヒラヒラと葉が舞う。散った一枚が、千歳の足下、落葉重なる床に滑り込むように着地した。
しゃがんで拾い上げると、それは本物の葉ではなかった。むらのある表面からして、緑色のティッシュペーパーで作った葉っぱと表現するのが一番適切に思えるが、指先から伝わる感触は、物体と思えないほど希薄だ。
千歳の行動を無言で見ていた少女は、目を細め、
「返してよね。飯のタネなんだから」
言われて千歳は、葉っぱもどきを手放しす。千歳の手を離れ、再び舞い落ち床に紛れるのを見届けて、少女は悄然と肩を落とした。
「また勝手に動くのよ。ホント、困る」
「凄いと思うけど」
「凄いわけないじゃない。よくある話よ、描いた絵が動くなんて」
少女は壁面に顔を戻すと、膝に肘を突いて頬を乗せる。
「普通の絵が描きたいのよ。売れないでしょう、こんなの」
言って床に視線を落とし、はあっと疲れたように息を吐く。
「後で全部拾わなきゃ」
「どっかの金持ちな好事家が、面白がって買ってくれるんじゃない?」
「数日で白紙になる絵よ? 返金どころか、賠償請求されたらどうしてくれるのよ」
「抜け出した絵は、拾い集められるんだろう?」
「社長の角灯があればね」
言って少女は、不満げに脚立の下を指さす。緑に埋もれて千歳の位置からは見えないが、少女は続けた。
「コレがないと形を保てないのよ。外でやってみなさいよ。その辺、絵の具まみれになるんだから」
何のために、こんな狭い場所で描いてると思ってるのよ、とブツブツと文句を垂れていたが、ふと思い出したように不機嫌の矛先を千歳に向けた。
「で、さっきから何そこで立ち尽くしてるわけ? 黙って見てるだけとか、気分悪いわよ」
苛ついた声で尋ねる彼女の名前は本郷ミドリ。スタジオ・ホフミに所属する研修生の一人であり、千歳同様、やむなく術者界に関わることになってしまった不運の徒である。
ミドリは、彼女の意思に関わらず、描いた絵がことごとく動いてしまうので、新人として未だ名乗りを上げることが出来ずにいた。その焦りからか、最近は会社に泊まり込んで制作に取り組むことも珍しくない。この時間まで居残っているということは、今日もその腹積もりだったのだろう。
苛立つミドリに、千歳はしかし臆することなく、
「ここから見てると、絵になると思ったんだよ」
「そうなの?」
途端にミドリは、目を丸くして背を伸ばした。いそいそと脚立から下りると、
「じゃあ、場所変わってよ。ここ、座って」
顎で天板を指し示す。千歳は無言で彼女の指示に従った。脚立の側へと歩み寄り、踏み板に足をかけながら、ふと下に目を向ければ、脚立の下には、ミドリの言葉通り、絵の茂みに紛れて角灯が置かれていた。
磨りガラスの側面からぼんやりと広がる橙色の光源は、内部中心付近に丸く浮かんで漂っている。炎や電気による明かりではないことが知れた。
他にも筆の突っ込まれた筆洗や絵の具のチューブが散乱しており、無規則に色の乗ったパレットが、彼女の混迷振りを表していた。
「早く」
ミドリに急かされ、千歳は脚立の上に座る。腰を下ろした千歳に、少女は、ふと、
「ねえ、それ何?」
「何って」
指摘されて、千歳は左手を見る。丸めて握る白い紙は、オイルパステル画が描かれた、あの画用紙だ。今の今まで、持ち出した事に全く気付いていなかった千歳は、それを暫し見つめ、
「ああ、うん。ただの絵」
「あっそ」
そう言うと、少女は完全に興味をなくしたようだった。
手汗で紙が湿るのを感じながら、千歳は左腕をだらりと下げ、視界の外へと追いやった。意識がそちらへ向かないように、顔を前に向ける。
正面、少女が描き、見つめていた絵の全容が明らかになった。それは奥から光が差し込む森だった。夜明けのをイメージしたのだろう、色合いは鮮明だ。
パネル上部、枠からはみ出た枝葉が、外を求めるように天井へ向かって扇状に広がっている。下部の緑はパネルの枠で一旦盛り上がり、滝のように床へと流れ込んでいた。
森の奥、木々の合間に朝日が差している。樹木や葉を突き抜ける光が目に眩しい。
彼女がそうしていたように頬杖を突き、絵に見入っていると、
「ふーん……、確かに悪くないわね。この構図使えそう」
入れ替わりに千歳が立っていた場所に立つミドリは、ブツブツと言いながら、トレーナーのポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。視線は千歳に向けたまま、素早く書き付けを始める。手の動きから、絵ではなく、文字を綴っている事が見て取れた。
「文字起こし?」
尋ねると、少女は小さく頷く。
「半端に絵にすると、かえって印象が薄くなるの。思ったことを文字で書き留めた方が、ずっと分かりやすいって」
「社長の教え?」
「そう。社長の」
一通り書き出して、メモ帳から顔を上げると、ミドリは壁にもたれかかる。ラフな体勢だが、目は鋭く観察を光らせていた。
「……人がいない方がいいかも。ちょっと下りてよ」
「注文多くない?」
「文句言わない」
千歳が脚立から下りた後も、ミドリは視線を定めたまま動かない。
「そう言えばさっきうるさかったけど、何かあったの?」
思いついたようにミドリが質問した。
どうやらずっとこの部屋に閉じこもっていたため、社員寮にまつわる一連の騒動を知らないらしい。
「何か揉めてたよ」
説明するのも億劫なので、千歳は他人事に話した。ふうん、とミドリも無関心そうに相槌を打つ。話を振った割にはあっさりと打ち切るあたり、間を持たせるつもりはなかったようだ。
再び、今度はメモ帳に視線を落としてボールペンを動かし始めたミドリの邪魔にならないように、千歳は脚立から後退すると、壁に背を突き、そのままもたれかかる。
手持ち無沙汰にパネルを眺めていると、
「……?」
左から音がする。
首を向けると、暗い鏡面のように室内を写す窓に、泡が立ち上った。水の底から湧き上がったような一群れの気泡は、くぐもった音をたてながら、窓上部へと上り去る。
(何だ?)
訝しんで近づくと、ピタリと閉ざされた窓から、夜とも水ともつかない匂いがする。
「……なあ、こっちにも何か描いた?」
映り込んだ自分の顔、その向こうを伺いながら、千歳は問いかける。窓に写る千歳の顔の横には、懸命に書き付けを行う少女が全身を映り込ませているが、書くことに夢中で、こちらに気を払う様子は微塵も感じられない。
「さあ? ええっと、そうじゃなくて、だから……」
などと、受け答えも上の空だ。
流石にムッとして、千歳が振り返ろうとすると、ゴボッと、くぐもった音をたて、再び泡が上った。反射的に振り返ると、映り込んでいた景色が全て消え失せていた。
黒々としたそこには、ガラスさえもなく、ただ水が、窓枠いっぱいに満たされている。
千歳は息を呑んで身を引いた。窓を凝視したまま、数歩後ずさる。
「どうしたの?」
背後からミドリが、おざなりに問いかける。
「水が……」
言い止して、千歳は口を閉じた。
――行かないと。
どこから沸いたか分からぬ泡と共に、そんな気持ちが浮き上がる。
所在不明の意思に突き動かされて、千歳は前方、窓の外を見据え、
――耳に、泡の音ばかりがこだまする。
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