第1章

1, 非日常は突然に


 存在するだけで汗が噴き出る程に暑い。形容するのも億劫になる。それだけ暑い。何度でも言おう。異常気象並みに暑い。

 こんなに暑くても、この学校の冷房は直る見込みが一向に立たない。滴る汗がポタリ、と大きな音を立てて、ノートに染みを作った。文字が滲む。拭き取ろうと、ハンカチを当てたが、やはり手遅れのようだ。ぐちゃり、という感触がしたと思えば、ノートに小さな穴ができていた。最悪だ。


 周りのいかにも“煌びやかな人生を送っています”と言いたげな女子達は、色鮮やかな手持ち扇風機とやらを片手に談笑している。時には高笑いも聞こえる。

 何も持っていない自分がどんどん惨めに見える。なぜ夏が来る前に買わなかったのか、少し前の自分を恨むことにする。


 不意に眠気に誘われた。今はもう七月半ばで夏休み前になって浮かれているやつも多い。しかし、私には「休みの間どこで遊ぶ?」やら「夏祭りで告白しなよ!」なんて会話をする相手なんていない。

 友達がいないと言った方が正しい。

 どうしても人が怖くてなかなか話すことができない。特定の仲が良いと思える子はいるが、生憎このクラスにはいない。

 私は“JK”即ち女子高校生になりきれていないのだ。異国の言葉かと錯覚するくらい、馴染みがない。


 周りを見る。やはり浮かれているやつらが大半だが、黙々と読書したり虚無になっている人もいる。少数だとしてもいる。

 安心と同時に惨めさは加速した。なんとも言えない。


 ふと、時間が気になった。始業時間よりも一時間以上進んだ時刻を指している。しかし、一向に授業が始まる気配はしない。なんなら、教壇に大人が立つ気配もない。教師陣は何をしているのだろうか。

 この時間、廊下まで騒がしければなにかと指導が入るというのに。……あれ、こんな学校だっけか。


 無理もない、と思うけれど。


 私の兄はこのクラスの担任である。失踪してしまったのだ。だから、新しい教師が来るはずだ。

 軽く言っているように聞こえるかもしれない。それでも見えない傷というのは、自身も確認しづらいほど、深い。


 「はぁ……ばっかみたい」


一つ溜息を溢して窓の外を見る。空は頭が痛くなりそうなほど青い。例えるなら……そう、かき氷。ブルーハワイのシロップがかかった、かき氷のようだ。

 そんなことを呑気に考えていたら、スローモーションのように視界が動く。目には赤しか映らない。

 理解をするのに時間がかかった。

 目だ。人の目だ。

 ここは五階、間違っても人と一つの板越しに目が合う事など、ない。


 あり得ない。


 嘘だ。信じたくない。


 それが、親友の瞳だなんて、信じられない!


 どしゃ。


 鈍い音が校舎に響き渡る。と同時に私は窓から身を乗り出した。他の生徒たちは「なんの音?」「なんかやばくない?」とざわめき出している。考えなしに身を乗り出してしまった。どうか、恐れたことが現実では有りませんように。そう願い、ゆっくりと地上に目を落とす。

 その願いは、すぐに打ち砕かれることとなった。

 そこには血痕が残っている。というよりは血溜まり。そう、人が簡単に死ぬくらいの血液がそこにあるのだ。


 「あ、っぁ、ぅ、す、臎 」


 やっとの思いで身体を自分の席に収め、あの光景をもう一度再生する。

 ……? 


 音がしてからほんの数秒しか経っていない。誰かが運ぶにしても何かしら跡があるはずだ。でもそんな出来るはずがない。


 じゃあ、どうして?


 何かノイズのような音が耳を通り抜ける。がたがたと席に座る音があちこちから聞こえたと思えば、先程までの浮つき様はどこへ行ったのか、しん、と静まり返った。

 周りの反応を見るに、どうやら放送が入っていたようだが、何を言っていたのかはさっぱりだった。

 もう一度、もう一度外を見よう。何かわかるかもしれない。立ち上がろうと決心した瞬間、いつものガラガラ、という音でなく、ガン! と荒々しくドアが開いた。

 そいつはクラス中の視線など気にせず真っ直ぐに、いや、対角線上を沿うように私の方へと歩いてきた。


 いや待って、怖い怖い。


 立ち上がりかけという中途半端な体制のまま、暑さとは別の嫌な汗が滲み出る。

 がしり、と腕を掴まれ反射的に「ひぅっ」と得体の知れない声が出た。心臓が潰れるかと思った。

 黙ったままの彼を見る。そいつもよく知った顔だった。けど、こんな顔は見たことがない。


 「颯一そういち……?」


 静かに何かを語ろうとする彼、志岐颯一 しき そういちの緑は、全てを吸い込んでしまいそうなほど透き通っていて、それでいてどこか辛そうだった。

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