女王と狼

秋人司

第1話「傍観者」




「おーい、マリア?」








 男の声が静かな邸の廊下に響く。


 時刻は早朝。柔らかな春の光が窓から差し込み、廊下は明るい。


 周囲はガラス窓が左手に並び、その対面に、いくつかの部屋の扉が見えている。廊下の奥には階下への階段があり、それが今、ギシギシと音を立てていた。



「……また書斎で寝てんのか」


 ゆったりとした歩調で階段から上がってきた男は、誰からの反応も無い中独り言ち、1つの扉に向かって歩いていく。

 そして、不要と判断したのだろう、ノックも無しにそのままガチャリと押し開き、中に踏み出す。


「やっぱりいた。ちゃんとベッドで寝ろよな」


 ほぼ同時に、呆れを含んだ声音を伴い男は部屋の奥へと進んでいった。




 男の容姿は、笑顔の一つも振りまけば大概の異性は赤面する、というぐらいには整っている部類だろう。髪は短く色は明るい茶、瞳は藍色だ。浮かべる表情は常に人を食ったようなもの。

 年齢は20代の後半といったところで、現在の服装は品のある貴族の部屋着と言えそうだ。


 対して彼が向かっていった先には、机に突っ伏す1人の小柄な女性がいた。

 しきりに身じろぎして意識を覚醒しようとしており、時折うめき声なども聞こえる。

 その背中には長い黒髪が流れ、服装も簡易な黒いドレス。


 室内はカーテンが閉め切られているために未だ薄暗い。





 男は慣れた様子で部屋を横切り、背中を入り口側に向けるよう窓際に置かれたその机へと近づいていく。


「カーテン開けるぜ? ……今度は何書いてたんだ?」


 シャッと勢いよく光を室内に取り込みながら、男は目線を机に落とし、そこに散らばる紙片へと興味を向ける。


 彼としては返答を特に期待していない様子で覗き込んでいたのだが。

「…………近年の情勢を、我の私見も交えて……まとめていた。……筆を執ったら、止まらなくてな……」


 女の口から途切れ途切れの返しがあった。


 その声音は女性としては低く、落ち着いたものだ。未だ頻りに頭を振って眠気を振り切ろうとしており、その黒髪が女の肩を幾度も撫でている。

 そしてその間、男は適度な相槌を打ちながら、見るとはなしにその動きを眺めていた。



 上体を緩慢な動作でなんとか起こし、やっと女は傍らに立っていた男を見上げる。その顔の造作は一見少女のもののようだったが、しかし放つ気配は老成した大人のそれだ。


「……おはよう、アリウス。……とりあえず、起こしてくれたことには礼を言うが、……その名で我を呼ぶのはやめてくれないか?」


 あまり本気ではなさそうな口調で、彼女は出し抜けにそう言った。未だ気怠さの漂うその瞳は漆黒で、日の光の中くっきりと相手の姿をその眼中に映している。


「あれ、聞こえてたのかよ」


 対して男―アリウスは呟き、次いで食えない笑みを満面に浮かべる。


「せっかく教えてもらったんだ、普段から呼ばなくてどうするよ。

 それに、俺は良い名だと思うけどなあ。どこが気に入らねえんだ? マリア」


 言ったそばから彼女にとっての“禁句”を口にしてくる男に対し、以前にも同様のことはあったのだろう、それでも改める気配のない彼に、もはや女は諦めの表情を浮かべ、視線を窓の外へと向ける。


「……我の感覚では“吸血鬼”につけるには余りにも不適切な名前でね。個人的な性格からしても“聖母”と同名は似合わなすぎる」


 大分明瞭になった言葉遣いでそんなことをぼそりと呟く彼女に、アリウスは興味深そうな、面白がるような顔になる。


「……それは“大昔”の記憶に関わることなのか?」


「そうだ。我の真名は、今は無きある宗教に関わる女性の名と同じだ。……血濡れでありながら“聖母”などと。我としては居心地が悪い」


 顔は窓へと向けたまま、彼女は口を歪めて嗤う。


 一方、アリウスはそんな彼女の横顔を見ながら、意味ありげに笑った。


「“血濡れ”ねえ。そういう言葉は俺にこそふさわしいんだぜ?」


 その口調は誇らしげでさえあった。


「お主も大概変わり者だな」


 女も視線を向けるのみでそう返し、机の上の整理にかかる。




「そう言えば今、がイスタニアにいるようだぜ?

 ……彼女も何がしたいのかね。もう、辺境伯の後継ぎとしては度を越してるじゃねえか」


 マリアの手元を覗き込み、見るともなしに文面を読みながら、アリウスは徐に言う。

 

 何とも何気ない調子で呟かれたのだが。


「……アリウス、いつも思うのだが。お主一体どのようにしてその手の話を仕入れているのだ?

 それなりに秘匿性の高いものだろう」


 身体を捻って思わず問う彼女に対し、アリウスは彼独特の微笑みを浮かべて答えとする。


 代わりに、妙に芝居がかった動作で後ろに下がり、わざとらしい表情でこう言った。


「私を誰だと思ってるんです、お嬢様。

 かつては“死神”と呼ばれた暗殺者。まさにこれしき、朝飯前に過ぎません」


 そう言いながら、彼は洗練された動作で略式の礼をして見せる。

 それまでの砕けた雰囲気を微塵も感じさせず、服装も相まって完璧に育ちのいい若者にしか見えない。


 一方のマリアはそれへ、投げやりな視線を向けるのみ。間もなく姿勢を戻し、引き続き紙片の整理に手を動かす。


「それだけできれば一月後の夜会でも問題ないな。ぜひとも我抜きで楽しんできたまえ」


「おいおい、それとこれは話が別だぜ? 俺は着飾ったマリアが見てえのに」


 気のない言葉を彼女が発すれば、アリウスは途端に気配を戻して距離を詰める。





「そんなことより“彼女”についてだ。

 何を思って隣国なんかに潜ってんだろうな?」


「知らん。

 何しろ為人が不明だ。社交の場に滅多に出ないからな。……客観的な来歴しか情報がないのだから、推測は精度が低い」


「庶子とは言え、先王の血を引き、加えてどうやら能力も高い。何しろあの賢王と名高いお爺様にみっちり仕込まれたんだろうからな」


「ああ。あのエルヴィンが馬鹿を育てるわけもない。……自分の息子については失敗したのが皮肉だが」


「というよりも、教育に関われなかったんだろ?」


「そうだろうな。大昔からよくある話だ。

 良き統治者が何代も続くことは難しい。何しろ“教育”という行為が難しいからな。

 現状も鑑みれば、どっかの貴族が横槍を入れたんだろう」


 そう言いながら、マリアはまとめ終わった紙片を机の片隅に寄せ、小さな欠伸を1つ漏らす。

 アリウスは軽く微笑んだ。


「先王は凡庸を通り越して愚王だったし、今代はその親が残したもので身動きが取れてねえ。

 異母弟を中心に貴族がのさばり、下手したら内戦。隣国も中々に不穏だしなあ」


 こんな内容を彼は至極軽い口調で言うのだから、その精神構造は謎の造りをしていると思われた。


「……本当にお主も変わってるな」


 マリアがちらりと視線を向ければ、


「俺にとってはマリアが唯一大事なんでね。その他は割とどうでもいい。……あとは面白いかどうかだな」


 アリウスも平然と笑んで返す。


「動向を探るくらいには“彼女”もお主にとっては面白そうに見えるわけだ」


「彼女も、って何だよ。

 表情変えずに照れて話を逸らすなよ」


「……照れてなどない。それよりも朝餉だ。我もさすがに腹がすいた」


「おいおい、マリア? 話を逸らすなって。

 “吸血鬼”は食欲が低いって言ったのマリアだぜ? 嘘つくなよ」


 殊更にやけながらも、彼は席を立ったマリアに続いて部屋を出ていく。


「うるさいぞ」


 何やかやとからかうアリウスに対し、あくまでも淡々と返しながらも、彼女の動きは忙しない。


 そのまま彼らは階下へと、いつまでも気安く続くやり取りを伴い、移動していく。







 外には春らしい淡い青空が広がり、その下では芽吹き始めた花々が可憐に揺れる。

 小さくはない邸は木々に囲まれ、その佇まいには趣があった。


 決して寂れた雰囲気などないのだが、しかしなぜかこの土地においては人に避けられる場所となっている。


 なんでもこの邸には“老いない女”が住んでおり、男を次々捕まえては遊興に耽っているのだと……。


 これを初めて聞いた時、マリアは面白そうに笑って言った。


「途中までは当に真実なのだがなあ」








 彼女は歴史の傍観者。

 そしてこの物語においても、未だその立場から動いてはいなかった。




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