賽の河原
yaasan
第1話 水に浸かる男
「勘弁して下さい。お願いします。勘弁して下さい……」
今にも消え入りそうな声で若い男は、さっきからそう何度も繰り返している。だが、その声は耳障りなだけで、俺の心には何の感慨ももたらしてはいなかった。
暦は一月後半。東京で一番寒いといって差し支えない時期だ。そんな寒い時期の夜半に、水が張られた風呂に肩まで浸からされていれば、嫌でもそうなるだろうなというのが俺の率直な感想だった。
若い男の顔面は既に蒼白となっていた。蛍光灯に照らされた唇の色は気味が悪いぐらいの紫色に変色している。人間の唇がそんな色になるのかと逆に感心するほどだった。
そして、凄い勢いで歯をカチカチと鳴らしていた。そんな様子の男を見て、まるでカスタネットみたいだなと俺は場違いな感想を脳裏に思い浮かべていた。
もっとも、水に浸かっていない俺でさえ歯の根が合わないぐらいの寒さなのだ。だから、この若い男がそんな状態になってしまうのも当然だった。
そんな若い男を見ていると、この水の温度は何度ぐらいなのだろうか。そんなどうでもいい疑問が俺の中で生まれてくる。
「あ? てめえは馬鹿か。謝ってほしいんじゃねえんだよ。金を用意しろって言ってんだ」
兄貴分の斉藤さんが若い男の頭を叩いた。小気味よい音が狭いバスルームの中で響いて、若い男の首が一瞬だけ折れる。そして、蒼白となっている顔面が水に浸かる。さっきから何度となく繰り返されている光景だった。
「おら、まだ死ぬんじゃねえよ」
斉藤さんは若い男の茶色い髪の毛を掴んで、彼の顔を水中から引き出す。
最近のホストは総じて髪の毛が長いから、こういう時は便利かもしれない。
ホストの若い男は二十一歳になる俺の一つだけ上の二十二歳だと聞いていた。俺とは同世代だし、この仕打ちは可哀想だとも思う。もしかすると俺の記憶にないだけで、この新宿歌舞伎町で顔を合わせたこともあったかもしれない。
だが、可哀想だと思うだけだ。助けるつもりなどはない。俺も斉藤さんと一緒で今はやる側なのだ。やられる側ではない。
俺は今年で三十五歳になるという斉藤さんの横顔を見た。斉藤さんは茶色の髪を掴んで若い男の頭を前後に揺すっていた。薄ら笑いを浮かべてる斉藤さんの顔に俺はいつものように軽い恐怖を覚える。
「ごめんなさい、勘弁して下しゃい……」
最早、若い男が発する言葉は不明瞭なものになり始めていた。
若い男はそれだけを消え入りそうな声で、ただ繰り返すだけだった。
斉藤さんは呆れたような顔で俺を見た。
「ハジメ、駄目だな、こいつは。もう面倒だから殺すか」
斉藤さんは感情が全くこもっていない声で淡々と言う。俺はどう言葉を返していいか分からず、はあとだけ言って頷いた。
「何だ、はあって? お前も殺しちゃうぞ」
珍しく斉藤さんは少しだけ戯けたように言うと、再び若い男の頭を叩く。
「おい、たかが二百万の回収で人を殺さなくちゃならない俺らの気持ちを考えてみろ」
斉藤さんは掴んでいる茶色の髪を今度は掴んで、前後に激しく揺すり始める。
「お前から二百万回収できたところで、うちの組に入るのはたった四十万だ。四十万のシノギで結果、人を殺すんだぞ? 何とも悲しい話だろうがよ! え? どうなんだ」
すいましぇん、ごめんなしゃい。そんな言葉を若い男は力なく繰り返すだけだった。
「おい、謝るな。金を作れって言ってんだよ。お前の客が飛んだんだろう? だったらお前が金を払うのが筋だろうが。たかが二百万だ。マグロ漁船にでも乗れって言ってんだよ」
「ごめんなしゃい、ごめんなしゃい。許して下ひゃい。もう金を借りられるところなんてないんでしゅ。マグロ漁船なんて乗れましぇん……」
辛うじてそう言った若い男に対して、斉藤さんの苛つきがピークに達しつつあるようだった。
それにこの若い男には悪いのだが俺自身もこの寒さのせいで、さっさと終わらせたいとの思いもあった。真冬のバスルーム。この馬鹿みたいな寒さに、これ以上の我慢ができそうにもなかった。
一方で人が死ぬのを目の前で見るのは初めてだった。だから寒気と同時に、それに対する恐怖や拒否感も俺の中にあるようだった。
……斉藤さん。
俺の兄貴分だった。組では荒事専門で、人を痛めつけることに関しては容赦がなかった。頭のネジがどこか外れているのだろうと俺は思っている。現に組の連中も斉藤さんにはどこか一歩引いていて、あまり関わりになりたがらない節が伺えた。
「もういいや、どっちでも。面倒だからお前は死ね」
斉藤さんが面倒くさそうに言い放った時だった。ワンルームマンションのドアが勢いよく開けられて人が入ってくる音がした。
俺は何事かと顔を引きつらせて背後を振り返った。斉藤さんも、とっさに身構えている。
現れたのは派手な感じの二十代前半に見える若い女だった。女は水風呂に浸かっている若い男を見ると悲鳴のような声を上げた。
「まーくん、まーくん!」
駆け寄ろうとした女の顔面を斉藤さんが殴りつけた。
ぎゃっ。
そんな言葉を残して女は後方へと倒れ込む。
斉藤さん、全くもって容赦がないと俺は改めて思う。
「うるせえぞ、女! お前は誰だ。あ? この男と一緒に殺すぞ!」
斉藤さんが倒れ込んだ女に恫喝する。
女は殴られて血が溢れる鼻を抑えながら上半身を起こした。一方で若い男の方は既に意識が朦朧としているようだった。歯をかちかちとさせながら、水に浸かった上半身をゆらゆらと前後に動かしている。その顔には微笑も浮かんでいるように見えた。余りに寒くて、とうとう頭がおかしくなったのかもしれない。
「まーくん、まーくん!」
女の悲鳴混じりの声がバスルーム内に響き渡る。
「うるせえぞ、この野郎!」
斉藤さんが再び拳を振り上げると、女はびくっとして身を縮こませた。
「おい、お前は誰だ?」
問いかける斉藤さんは拳を振り上げたままだった。
「彼女、まーくんの彼女です」
「あ? この腐れホストのか」
女は二度、三度と頷く。それに合わせて彼女の金色に近い茶色の髪が大きく揺れる。
「こいつは客の飛んだ金が払えないんだとよ。だから、これから殺されるんだよ。あ? ぐちゃぐちゃ言ってると、お前も一緒に殺しちまうぞ!」
「払います! お金なら私が払います!」
「あ? 二百万だぞ。お前、そんな金があるのか?」
「ないです。ないですけど、何とかします! だからまーくんを助けて下さい」
女は半分叫びながら必死に頭を下げている。
見た目からしてだが、頭が悪い女だなと俺は思う。何をしている女なのかは知らないが、どうせ飲み屋の姉ちゃんか風俗嬢なのだろう。
これでやばい筋からの金を借りることになる。そして頭が悪いとすれば、今後もこの女がその世界から抜け出せなくなる確率はかなり高くなりそうだった。
まあ正直、この女が抜け出せなくなったところで俺にとってはどうでもいい話なのだが。
「そうか、お前が払ってくれるのか」
女の言葉を聞いて斉藤さんは笑顔になる。何とも言えない、嫌な笑顔だった。そして、背後を振り返ると、水に浸かっている若い男の頭を何度も叩いた。若い男はその度に力なく首を折り、顔面を水面につけることとなっていた。
「よかった、よかった。なあ、よかったな」
何がよかったのか、誰がよかったのかは知らないが、そんな斉藤さんの嬉しそうな声が狭く、馬鹿みたいに寒いバスルームの中で響き渡るのだった。
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